わたしに倣う者になりなさい 2011年9月25日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

4:14 こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。
4:15 キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。
4:16 そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。
4:17 テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。
4:18 わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです。
4:19 しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。
4:20 神の国は言葉ではなく力にあるのですから。
4:21 あなたがたが望むのはどちらですか。わたしがあなたがたのところへ鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか。コリントの信徒への手紙一 4章14節~21節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝はコリントの信徒への手紙一第4章14節から21節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 14節、15節をお読みします。

 こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。

 「こんなことを書くのは」とある「こんなこと」は前回学びました6節から13節までの内容を指しています。パウロはコリントの信徒たちが優れた者であることを認めながらも、すべては神様からいただいたものであるのに、あなたがたはまるでいただかなかったかのような顔をして高ぶっていると語りました。また、コリントの信徒たちが既に満足し、既に大金持ちになり、自分たちを抜きにして、勝手に王様になっていると語りました。それに比べて、神様は自分たち使徒をまるで死刑囚のように、見せ物にされたと語ったのであります。10節を見ますと、「わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています」とパウロは自分たちとコリントの信徒たちと姿を対比して語ったのであります。このような皮肉とも読めることを書いたのは、コリントの信徒たちに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためである、とパウロは語るのです。実際、すべては神様からいただいたものであることを忘れて、既に満足し、既に大金持ちになり、勝手に王様になっているコリントの信徒たちは、信仰者としては大変危機的な状態にありました。このことは、ルカによる福音書第6章に記されている主イエスの御言葉を読むとき明らかになります。ルカによる福音書第6章20節から26節にこう記されています。

 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び躍りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。

 しかし、富んでいるあなたがたは不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

 コリントの信徒たちは、主イエスから「不幸である」と言われる者たちとなっていたわけです。それゆえパウロは、愛する自分の子供であるコリントの信徒たちの高ぶり、その高ぶりに根ざす信仰の危機的状態を指摘せずにはおれなかったのです。

 15節でパウロは、「キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない」と語りますが、「養育係」とは、主人から子供の学校の送り迎えや躾けを任された奴隷のことであります。コリントの信徒たちにとって、他の教師たちは「キリストに導く養育係」であるのに対して、自分は福音を通し、キリスト・イエスにおいて生んだ父親であると語ります。これは他の教師たち、特にパウロが使徒であることを疑う、パウロに反対する教師たちを意識しての言葉であります。コリントの信徒たちは、パウロの発言を、数多くいる養育係の一人の発言ではなく、ただ一人の父親の発言として聞かなければならない。また、父親であるパウロの生き方そのものに倣う者とならなければならないのです。

 16節、17節をお読みします。

 そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。

 パウロは、「わたしに倣う者になりなさい」と語っておりますが、これはパウロとコリントの信仰による親子関係を前提とするものであります。父親が自分の子供にわたしに倣う者になりなさいと言うように、パウロはコリントの信徒たちに「わたしに倣う者になりなさい」と勧めるのです。私たちが自分の子供にこのように勧めたことがあるかどうかは別として、実際問題として、子供にとって親はどう生きるべきかを示すモデルであります。子供は親を見て、親の真似をして育つわけです。しかしパウロは、何でもかんでも、わたしに倣う者になりなさいと言っているわけではありません。コリントの信徒たちに勧められているのは、テモテによって思い起こさせられる、キリスト・イエスに結ばれたパウロの生き方に倣うということであるのです。パウロはこの手紙をエフェソで書いておりましたが、事情があってコリントに行くことができませんでした(16:8、9「しかし、五旬祭まではエフェソに滞在します。わたしの働きのために大きな門が開かれてりうだけでなく、反対者たちもたくさんいるからです。」参照)。そこで、パウロの愛する子で、主において忠実な者であるテモテをコリントに遣わしたのです。テモテはこの手紙の共同執筆者として名前が挙げられておりませんから、この手紙が記された時には、コリントに出発していたようです。しかし、テモテよりも先にこの手紙がコリントの信徒たちのもとへ届けられました。すなわち、この手紙は海路によってコリントに届けられましたが、テモテは陸路で、コリントへと向かっているのです。パウロはテモテを「わたしの愛する子」と呼んでおりますが、これも信仰によってのことであります。パウロは生涯独身であったようですから、血縁によるものではありません。パウロがテモテに宛てて記した手紙が聖書の中にありますが、そこでは「信仰によるまことの子テモテへ」と記されています(一テモテ1:2)。テモテについては使徒言行録の第16章に出てきますが、パウロに見いだされて、宣教旅行の同伴者となった若者であります。また、第18章を見ますと、テモテもパウロと共にコリントで福音を宣べ伝えました。ですから、コリントの信徒たちはテモテのことも知っていたわけです。そして、テモテはパウロの愛する子として、パウロに倣う者であったのです。テモテの生き方を見れば、パウロの生き方を思い起こさせるほどに、テモテはパウロに倣う者であったのです。そして、パウロはそのようなテモテを遣わすことによって、自分が至るところのすべての教会で教えているとおりに、イエス・キリストに結ばれた自分の生き方をコリントの信徒たちに思い起こさせようとするのです。ここで「至るところのすべての教会で教えているとおりに」とありますが、これは特殊でない、共通のものであるということであります。教会によって違っているのではなくて、キリストの教会に共通の生き方であります。また、ここで「生き方」と訳されている元の言葉は「道」の複数形でありまして、これは教えられるものでも、実際に歩むべきものでもあるわけです。つまり、パウロは信仰と行い、あるいは教理と生活を分離せずに、一体的なものとして考えているわけであります。キリストを信じるならば、その信仰によって生活が形づくられていくわけでありますね。その生活にあらわれる生きた信仰、それは言い換えればイエス・キリストに結ばれた生き方であると言えるのです。パウロが、コリントの信徒たちに、「わたしに倣う者になりなさい」と勧めるとき、それはイエス・キリストに結ばれたわたしの生き方に倣いなさいということであるのです(11:1参照)。

 パウロは先週の御言葉で自分がどのようなものかを語ってきましたが、これはまさしくキリストに結ばれた生き方、キリストに倣う生き方であるわけです。イエス様は、「人の子には枕する所もない」と言われましたけれども、同じようにパウロも「身を寄せる所もない」と言っています。またイエス様は十字架の上から自分を嘲る者たちのために、「父を彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からないのです」と執り成しの祈りをささげられましたけれども、同じようにパウロも迫害されても優しい言葉を返しているのです。

 18節から21節までをお読みします。

 わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです。しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。神の国は言葉ではなく、力にあるのですから。あなたがたが望むのはどちらですか。わたしがあなたがたのところへ鞭を持っていくことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか。

 ここでの「高ぶっている者」とは、パウロに反対する教師たちのことであります。彼らはテモテが遣わされることを聞いて、パウロはもう来ることはないと、ますます高ぶる恐れがありました。おそらく、彼らはパウロの雄弁術や修辞学における未熟さを指摘して、パウロを侮り、軽んじていたと思われます。コリントの信徒への手紙二の第10章10節を見ますと、パウロのことを「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるとあります。おそらく、この高ぶっている者たちも、パウロの雄弁術や修辞学における未熟さから、パウロを侮り軽んじていたと思われます。そして、彼らは自分の雄弁を誇り、高ぶっていたと思われるのです。もしかしたら、彼らはパウロは自分たちを恐れて、コリントに来ようとしないと、言いふらしていたかも知れません。しかし、そのような者たちに、パウロは「主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところへ行こう」と言います。これは逆を言えば、今、コリントに行かないのは、主の御心によることであるということです。先程、この手紙の方が早く着いて、テモテが後に着くことになる。この手紙が着いたときには、まだテモテは着いていないと申しました。ですから、第16章10節で、「テモテがそちらい着いたら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようお世話ください。わたしと同様、彼は主の仕事をしているのです」とパウロは書いたわけです。パウロは計算しているんですよね。まずこの手紙が着くようにして、テモテを迎える心備えをさせるわけです。そして、テモテが着く。そしてそのテモテを通してパウロのイエス・キリストに結ばれた生き方を思い起こさせて、コリントの信徒たちが高ぶりを捨てて、パウロに倣って生きるようになることを願っているわけです。そして最終的にはパウロがコリントに行くときには愛と柔和な心で行くことができるようにと願っているのです。ですから、パウロが今すぐいくことは主の御心ではないわけです。もし、パウロが今いけば、パウロはコリントに鞭を持って行かざるをえなくなるからです。鞭というのは父親が子供を躾けるために使う懲罰の道具であります。しかし、パウロはそれを避けたいわけなのです。ですから、パウロは手紙を送り、テモテを遣わして、何とか自分が愛と柔和な心で行くことができるようにしているわけです。

 また、パウロは自分が高ぶっている者たちを恐れていないことを明らかにするために次のように語ります。「そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。神の国は言葉ではなく力にあるのですから」。パウロは高ぶっている者たち、弁術にたけた教師たちを恐れてはおりません。むしろ彼らとの対決に意欲を燃やしております。雄弁術や修辞学によって高ぶる者たちに、パウロは言葉ではなく、力を見せてもらおうと語ります。なぜなら、神の国は言葉ではなく、力にあるからだとパウロは言うのです。ここでの「神の国」は「神の王国」、「神の王的支配」のことであります。これは、コリントの信徒たちが既に勝手に王様になっているとパウロが言ったことと繋がっているわけです。パウロは、コリントの信徒たちが自分たちを抜きにして勝手に王様になってると語りましたけれども、パウロが、イエス・キリストに結ばれて生きていることを考えますとき、実はコリントの信徒たちは、イエス・キリストを抜きにして王様になっていたことが分かります。彼らの王国は、イエス・キリストを王として、その共同の統治者となっているのではなくて、イエス様を抜きにして自分たちが王様になっているのです。そして、その彼らの王国において、力を発揮したのは雄弁術であり修辞学でありました。黒いものを白と言いくるめることのできる弁術、それが彼らの誇りであったわけです。しかし、パウロは「言葉ではなく力を見せてもらおう」というのです。ここでの言葉は「おしゃべり」と訳したら、パウロが言わんとしていることがよく分かるかも知れません。「むなしいおしゃべりはもうたくさんだ、力を見せてもらいたい」と言うわけです。しかし、ここでパウロは言葉と力を対立するように考えているのではないと思います。パウロはここで、彼らに何か不思議な業を見せなさいと言っているのではなくて、彼らの言葉に力があるかどうかを見せてもらおうと言っているのです。力ある言葉とは何かと言えば、それは聞いた人の生活、その人間のあり方を作り変える言葉、それも良いように造り変える言葉であります。次週学ぶことになります第5章1節を見ますと、こう記されています。「現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです」。ここにパウロに反対する教師たちの言葉の空しさ、力のなさが端的に表れています。雄弁術や修辞学の優れた言葉は、みだらな者の生活を変えることができなかったのです。コリントの信徒たちの中に、みだらな行いをする者がいる。それは彼らの語る言葉に力がないからなのです。

 神の国、神の王国は、イエス・キリストにおいて到来しました。イエス様は「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたがたのところに来ているのだ」と言われました(ルカ11:20)。神の国の到来は、イエス様においては悪霊追放、さらには病の癒しによって鮮やかに示されました。では、イエス様が天へと昇られた後の、聖霊の時代に生きるコリントの教会、さらには新約正典が完結した私たちの教会においてはどのように神の国は示されるのでしょうか?それを知る手がかりは、第14章24節、25節にあります。

 反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入ってきたら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。

 ここに、現在も見ることのできる神の国の力が記されています。それは神の言葉と共に働く神の力であります。そしてそれは人にまことの神を告白させる力です。もっと簡単に言えば、私たち一人一人の口に「イエスは主である」と告白させる力であります。その力によって、人は自分を王とするのではなく、イエス様を王と告白し、この方に倣って生きる者へと変えられるのです。

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