神の霊による啓示 2011年8月14日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

2:10 わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。
2:11 人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。
2:12 わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。
2:13 そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。
2:14 自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。
2:15 霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。
2:16 「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。コリントの信徒への手紙一 2章10節~16節

原稿のアイコンメッセージ

 パウロが語ってきた知恵、それは隠されていた神秘としての神の知恵であり、神が私たちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定められていたものでありました。そして、この知恵こそ十字架につけられたメシア、キリストであったのです。パウロは当時の聖書である旧約聖書のイザヤ書を引用しまして、十字架につけられたキリストこそ、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと」であり、「神が御自分を愛する者たちに準備された」ことであったと語りました。このように聞きますと、私たちの内に一つの疑問が湧き起こってきます。それは、パウロたちは、どのようにして隠されていた神秘としての神の知恵を知るようになったのかということであります。そのことを今朝は10節以下より、御一緒に学びたいと願います。

 10節をお読みします。

 わたしたちには、神が霊によってそのことを明らかに示してくださいました。霊は一切のことを、神の深みさえも究めます。

 パウロは、「自分たちに、隠されていた神秘としての神の知恵を、神様が霊によって明らかに示してくださった」と語ります。もとの言葉を見ると、「私たちに」という代名詞が一番最初に記されており、強調されています。新約聖書はギリシャ語で記されておりますが、ギリシャ語は動詞の変化で主語の人称と単数・複数を表すことができます。ですから、わざわざ代名詞が記されているということは、それを強調したいからであるのです。パウロの気持ちからすれば、「私たちにこそ、神が霊によってそのことを明らかに示してくださった」ということであります。では、この「私たち」とは誰を指すのか。わたしは、すべてのキリスト者に先立つ、パウロたち福音宣教者を指すと理解するのがよいと思います。また、「明らかに示してくださいました」と訳されている言葉は「啓示してくださった」とも訳すことができます(口語訳、新改訳参照)。啓示するとは、覆われていたものを取り除いて露わにすることを意味します。神様が隠されていた奥義である神の知恵を御自分の霊によって、私たちに啓き示してくださったのです。ここで霊にチョンチョンとしるしが付いていますが、これは『新共同訳聖書』の凡例によると、「聖霊」あるいは「神の霊」「主の霊」が意味されていると思われる場合に付けたしるしであります。神様が御自身の霊によって、パウロたちに隠されていた奥義である神の知恵を啓示してくださったのです。パウロたちは、神の深みさえも究める聖霊を通して、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと」を知る者となったのであります。「霊は一切のことを、神の深みさえも究めます」。この真理をパウロは人間との類比(アナロジー)によって説明いたします。

 11節をお読みします。

 人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。

 私たち人間のことを考えても、その人が考えていることは、その人の霊以外知ることはできません。わたしが今、どのような思いでいるかは、わたしの霊以外に知る者はいないのです。有限な被造物である人間でさえ、そうであるならば、無限な創造主である神様のことを知るのは神の霊以外にいないのです。パウロがこのような類比を語ることができたのは、創世記第1章27節にありますように、神様が人を御自身の形に似せて造られたからです。すなわち、神様が啓示的存在であるがゆえに、神様のかたちに似せて造られた私たち人間も啓示的な存在であるのです。私たちは人間は啓示的存在であります。例えば、「今、祈祷会でヤコブの手紙を学んでいますが、それが終わったら、テモテへの手紙一を学ぶ予定です」。これも一つの啓示であります。昨日、自分が何をして過ごしたかを友達に話すとき、それも一つの啓示であると言えるのです。そこで考えてみたいことは、私たちはどのような人に自分のことを打ち明けるか?ということであります。それは言うまでもなく、自分が好意をよせる人でありましょう。私たちは誰にでも自分のことを話すわけではありません。相手を選んで自分のことを話すのです。それは私たちそれぞれの自由であり、それぞれの主権にまかせられているのです。人間が神のかたちに似せて造られたということは、人間が人格的な存在として創造されたということでありますけれども、それは同時に啓示的な存在として創造されたことでもあるのです。そして、このようにして自分に引き寄せて考えるとき、神様が霊によって私たちに神奥義として神の知恵を示してくださったのは、神様の自由な、主権によることであり、私たち一人一人に対する愛に基づくことが分かるのです。

 12節をお読みします。

 わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。

 ここで「世」と訳されている言葉は、「コスモス」で宇宙的な世界を表します。6節から8節までの「世」と訳されている言葉は、「アイオーン」で時代的な世界を表す言葉でありましたが、ここでの世は、宇宙的な世界を表す「コスモス」という言葉が用いられているのです。ここでは世の霊と神の霊とが相反するものとして語られています。世の霊を受けても、神様から恵みとして与えられたものを知ることはできない。それは言い換えれば、人間の知恵によっては神様から恵みとして与えられたものを知ることができないということです。神様からの霊を受けることによって、パウロたちは神様から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、そのような神様からの恵みを語るには、それにふさわしい言葉が求められるのです。

 13節をお読みします。

 そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく霊に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって、霊的なことを説明するのです。

 パウロは4節で、「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、霊と力の証明によるものでした」と述べておりましたが、その理由がここに記されています。神様は霊を通して、奥義としての神の知恵について知らせるだけではなくて、それを宣べ伝える言葉をも、霊と通して教えられました。それは霊的なものによって、霊的なことを説明するためであったのです。ここに私たちがパウロの手紙を神の言葉として読む一つの根拠が与えられています。パウロは神の霊によって神様から恵みとして与えられたものを知っただけではなく、神の霊に教えられた言葉によって語り、私たちが今読んでいる手紙を記したのです。パウロは、「霊的なものによって、霊的なことを説明するのです」と記していますが、この「霊的なもの」とは何でしょうか?よく分かりませんが、一つ言えることは、当時の聖書である旧約聖書のことであります。さらには旧約聖書に基づいて形成されたヘブライ思想とも言うことができます。ギリシャの町コリントでは、哲学に基づくギリシャ思想が盛んでありましたけれども、パウロは神の言葉である旧約聖書と、それに基づくヘブライ思想の枠組みの中で、神様から恵みとして与えられたもの、すなわち奥義としての神の知恵について教えたのです。そして、ここに説教者であるわたしがただ聖書から神の知恵を説き明かしている理由があるのです。

 14節をお読みします。

 自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。

 ここでの「自然の人」とは神の霊を受けていない生まれながらの人のことであります(新改訳聖書参照)。自然の人は神の霊を受けていないので、神の霊に属する事柄を受け入れることはできないのです。受け入れないどころか、自然の人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。なぜなら、神の霊に属する事柄は神の霊によって初めて判断できるからです。ここで「判断する」と訳されている言葉は、「見分ける」「識別する」とも訳すことができます。神の霊によって啓示された事柄は、神の霊に教えられた言葉によって宣べ伝えられ、神の霊によって識別されます。このことを思いますとき、私たちは改めて信仰とは私たちの内における聖霊の御業であることが分かります。パウロは第12章3節で、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と語っておりますが、私たちが十字架につけられたキリストを、わたしの主と告白することができたのは私たちが聖霊を受けているからに他ならないのです。聖霊は霊でありますから、目に見ることも触ることもできません。けれども、「イエスは主である」と告白する人には、神の霊である聖霊が与えられているのです。この聖霊によって、私たちは十字架の言葉を愚かなものとしてではなく、私たちを救う神の力として聞くことができたのです。聖霊によって、私たちはパウロの言葉を神の言葉として聞き、パウロたちに啓示された奥義としての神の知恵を知る者とされたのです。

 15節、16節をお読みします。

 霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。「だれが主の思いを知り、主を教えると言うのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。

 ここで「霊の人」とは、神からの霊を受けた者たち、すなわち、すべてのキリスト者のことであります。「自然の人」が神の霊を受けていない生まれついての人であったのに対して、「霊の人」とは神の霊を受けて、聖霊の導きに従って生きる人のことを言います。「霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません」。ここでの「一切」は、神が啓示してくださった霊に属する事柄の一切であります。10節の後半に、「霊は一切のことを、神の深みさえも究めます」とありましたが、霊の人は、この神の霊を受けたゆえに、奥義としての神の知恵の一切を判断することができるのです。また、ここでの「だれからも」は、「神の霊を受けていない生まれついての人のだれからも」ということです。神の霊を受けていない自然の人はだれも、神の霊を受けている人を正しく判断することはできないのです。それは聖書に、「だれが主の思いを知り、主を教えると言うのか」と書いてあるとおりであります。これは七十人訳聖書のイザヤ書第40章13節からの引用でありますが、主の思いを知り、主を教える者はだれもいないように、主の霊を受けている人を、自然の人はだれも判断することはできないのです。このことは、私たちがキリストを信じない未信者からの判断を気にする必要がないことを教えています。神の霊を受けていない自然の人はだれも、霊の人を判断することはできないからです。自然の人は、霊に属する事柄を理解できないように、霊の人についても理解することができないのです。

 パウロは預言者イザヤの言葉、「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか」という御言葉を引用した後で、「しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています」と記しました。イザヤの言葉は、「だれもいない」という否定の答えを期待する修辞的な問いかけであります。主の思いを知る者はだれもいないのです。しかし、パウロは驚くべきことに、「わたしたちはキリストの思いを抱いています」と語るのです。パウロは「主」を「キリスト」と置き換えて語りました。ここでは、11節でパウロが語った人間との類比は崩れています。16節で語られているのは、もはや人間との類比ではなく、御父と御子イエス・キリストと聖霊からなる三位一体の神であられます。神の霊である聖霊は、御父の霊であり、御子イエス・キリストの霊でもあるのです。それゆえ、パウロは「わたしたちはキリストの思いを抱いています」と語ることができたのです。パウロが「わたしたちはキリストの思いを抱いています」と語るとき、そのキリストとは、十字架につけられたキリストのことであります。パウロだけではありません。聖霊を受けて、イエスは主であると告白している私たち一人一人が十字架につけられたキリストの思いを持っているのです。そうであれば、私たちは高ぶることは許されません。神の霊を受けていない自然の人を見くだして、自分を誇ることは許されないのです。パウロは考え抜いたうえで、「主の思い」を「キリストの思い」と言い換えたと思います。だれも知ることのできない神の思いを神の霊を通して知る者とされた。これはすごいことです。自分を誇るエリート意識を持ってもおかしくないことであります。しかし、それが「キリストの思い」と言い換えられたとき、どうでしょうか。私たちは自分が本当にキリストの思いを抱いているだろうかと自己吟味を迫られると思います。キリストの思いを抱くとはどういうことか?それを知る手がかりが、後にパウロが記すフィリピの信徒への手紙第2章にあります。ここでは1節から8節までをお読みします。

 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 このパウロの言葉によれば、キリストの心とは、何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払う心であると言うことができます。私たちはここでコリントの信徒への手紙一第1章10節に連れ戻されます。

 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。

 コリントの信徒たちの中には、自分は霊の人であると誇り、他者を見下す者たちがおり、争いが生じておりました。しかし、パウロは霊の人が受けた神の霊はキリストの霊であり、その人は十字架につけられたキリストの思いを抱くようになると語るのです。そしてそれゆえに、パウロは、コリントの信徒たちに、「心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」と語ることができたのです。もう一度申します。霊の人とは、十字架につけられたキリストの思いを抱き、自分を低くして他者に仕える者のことを言うのです。

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