隠されていた神の知恵 2011年8月07日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

2:6 しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。
2:7 わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。
2:8 この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
2:9 しかし、このことは、/「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。コリントの信徒への手紙一 2章6節~9節

原稿のアイコンメッセージ

 パウロは第2章4節、5節でこう語っておりました。「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、霊と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした」。パウロはコリントにおいて十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのに、説得力のある知恵の言葉を用いませんでした。むしろ、十字架につけられたキリストは神の証しであるがゆえに、神の霊のお働きに信頼して、素朴に十字架のキリストを宣べ伝えたのです。そして、神の霊である聖霊は、パウロが語る十字架の言葉を通して、聞く者の心を説得し、信仰を起こしてくださったのです。そのようにして、コリントの信徒たちは、また、私たちは、神の力によって十字架につけられたキリストを信じる者とされたのです。人間の知恵による説得ではなくて、聖霊の力ある説得によって私たちは十字架につけられたキリストを信じる者とされているのです。このようにパウロはコリントの信徒たちが夢中になっていた知恵については否定的に語ってきたのですが、今朝学ぼうとしている6節以下では、知恵について積極的に語っております。

 6節をお読みします。

 しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。

 第2章1節から5節までの主語は「わたし」、パウロ個人でありましたが、6節から16節までの主語は「わたしたち」となっています。この「わたしたち」とは、福音を宣べ伝える者たちのことであります。コリントの信徒たちは、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」と争っていたのですが、パウロもアポロもケファをも含む、福音を宣べ伝える者たちが、ここでの「わたしたち」であります。またここに「信仰に成熟した人たち」とありますが「信仰に」という言葉は、元の言葉にはない新共同訳聖書の補足であります。ですから、パウロは、「わたしたちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります」と言っているのです。「成熟した人たち」は目標に到達した「完全な人たち」とも訳すことができます。これはコリントの教会のある者たちが自分たちを成熟した者、完全な者と主張していたことを教えています。パウロ自身が、キリスト者の中に、未熟な者と成熟した者という階級を設けており、未熟な者には知恵を語らないと言っているのではなくて、コリントの信徒たちの中に、自分には知恵があり、完全であると自称する者たちがおりまして、その者たちを皮肉って、パウロは、「わたしたちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります」と述べているのです。自分を成熟した者と主張する者たちは、おそらく、パウロが説得力のある知恵の言葉を用いないことを非難していたのでありましょう。しかし、パウロは、「私たちは知恵を語ってきた」と言うのです。「もしそれが分からないなら、その者は成熟していないからだ」と言うのです。しかし、パウロが語ってきた知恵は、この世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありませんでした。ここで「この世」と訳されている言葉は、「この世代」、「この時代」とも訳すことができる言葉です。パウロが語ったのは、ある時代だけに通用するようなこの世の知恵ではなくて、時代を超えて通用する知恵でありました。また、それはこの世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。この世の支配者たちは知恵のある者、インテリ(知識人)でありますけれども、それはある限られた時代の知恵であり、いずれは滅んでしまうものなのです。では、パウロたちが語る知恵とはどのような知恵なのでしょうか?

 7節をお読みします。

 わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神が私たちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。

 パウロたちが語る知恵、それはこの世を起源とするものではなく、またこの世の滅びゆく支配者たちが持っている知恵でもありません。パウロたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であります。ここで「神秘」と訳されているギリシャ語はミュステーリオンで、英語のミステリーの元となった言葉です。「奥義」とも訳される言葉であります(口語訳聖書参照)。パウロたちが語るのは、隠されていた奥義としての神の知恵であるのです。そして、それは神様がイエス・キリストを信じる者たちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものなのです。この隠されていた奥義としての神の知恵こそ、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリストであります。パウロは第1章30節で、「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」と語りました。イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリストこそ、隠されていた奥義としての神の知恵なのです。そうであれば、パウロはコリントにおいて、いつも神の知恵を語ってきたのです。自分は成熟していると主張する者たちは、「パウロは知恵に欠ける」と非難することによって、実は自分が未熟な者であることを暴露してしまっているのです。約束のメシアであるキリストが、呪いの木である十字架につけられることは、キリストを信じる私たちに栄光を与えるために、世界の始まる前から神様が定めておられた、奥義としての神の知恵であったのです。そして、この神の知恵を、世の支配者はだれも理解しなかったのです。

 8節をお読みします。

 この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。

 「この世の支配者たち」とは、ここでは具体的にはユダヤの最高法院の議員たちやローマの総督ポンテオ・ピラトを表します。この世の支配者であるユダヤの最高法院の議員たちやローマの総督ポンテオ・ピラトは、栄光の主であるイエス・キリストを十字架につけて処刑してしまいました。それは、この世の支配者たちがだれ一人、隠されていた奥義としての神の知恵を知らなかったからであるのです。この世の支配者たちの目にはに、ナザレのイエスは栄光の主ではなく、民衆を惑わす危険人物にしか映らなかったのです。ナザレのイエスを十字架につけ、呪いの死にふさわしい罪人であると断罪することにより、この世の支配者たちはだれ一人として神の知恵を理解しなかったことが明かとされました。イエス様に対する世の支配者たちの無理解が、イエス様を十字架につけて、この世から取り除くという仕方で端的に表されたのであります。しかし、イエス様を「神の御子、キリスト」と告白する者たちもおりました。ルカによる福音書の第10章21節にこう記されています。

 そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」

 自分の内に何一つ誇る者を持っていない幼子のようなものに、神様はイエス様が神の御子であり、キリストであることをお示しになられたのです。そして、このことはパウロの時代においても、また私たちの時代においても変わることがないのです。

 この世の支配者たちは、栄光の主であるイエス様を受けいれないばかりか、十字架につけてしまいました。しかし、そのような支配者たちの不信仰を通して、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと」が現実のものとなりました。

 9節をお読みします。

 しかし、このことは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。

 ここでパウロは当時の聖書である旧約聖書から引用して、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリストが、隠されていた奥義としての神の知恵であったことを説得しようとしています。しかし、ここでパウロが引用しているそのままの言葉を旧約聖書に見いだすことはできません。ここでパウロが引用している御言葉に近いのは、イザヤ書第64章3節であります。そこにはこう記されています。

 あなたを待つ者に計らってくださる方は/神よ、あなたのほかにはありません。昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も/目に見た者もありません。

 ここでイザヤは、「あなたを待つ者に計らってくださるのは神様だけであり、昔から他の者がいるなど耳にしたことも目に見たことはない」と語っております。しかし、パウロはそれを自由に引用しまして、神を待つ者に、神は目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったお方として御自身を現してくださったと語るのです。すなわち、栄光の主が十字架につけられるという姿で、神を待ち望む者たちに御自身を現してくださったのです。

 また、パウロはイザヤ書第52章15節をも考慮に入れていたのではないかと言われています。パウロはイザヤ書第64章3節と第52章15節の二つを念頭に置きつつ語っていると考えられるのです。イザヤ書第53章は有名な「主の僕の苦難と死の預言」でありますが、その導入として次のように記されています。イザヤ書の第52章13節から15節までをお読みします。

 見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように/彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。それほどに、彼は多くの民を驚かせる。だれも物語らなかったことを見/一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。

 ここでイザヤは主の僕の身に起こる出来事が、「だれも物語らなかったこと」であり、「一度も聞かされなかったこと」であると語っています。それは、パウロの言葉で言えば、「人の心に思い浮かびもしなかったこと」です。主の僕が苦難の死を遂げる。多くの人はそれが彼自身の罪のためであると考えます。しかし、それは私たちの罪のためであったのです。罪のない主の僕が、私たちの罪の身代わりに刑罰を受けることにより、私たちに癒しと平和が与えられる。そのような主の僕として、栄光の主が十字架につけられることを、人の心もは思い浮かびもしなかったのです。そしてこれこそ、神様が私たちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられた奥義としての神の知恵なのであります。

 そして、この神の知恵は、何より私たちに対する神の愛を証しするものでありました。ヨハネによる福音書の第1章18節に、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と記されています。栄光の主であるイエス様は、神様の御心を世に示すために、十字架につけられたのです。そして、その御心とは独り子をお与えになるほどの世に対する愛であったのです。イエス様もその御父の御心に喜んで従い、私たちを愛して十字架の上で命を捨てられたのです。神の知恵であるイエス・キリストは、そのようにして、御自分を信じるすべての人に、癒しと平和を与えてくださるのです。

 パウロはイザヤ書の「神は御自分を待ち望む者たちに準備された」という言葉を、「神は御自分を愛する者たちに準備された」と一部変えて記しています。それは神の知恵を理解するためには、神を愛することが何より必要であるからです。ここでも私たちはヨハネによる福音書に記されている御言葉を思い起こすことができます。第5章39節以下で、イエス様はユダヤ人たちにこう言われました。

 「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。わたしは人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れを求めようとしないあなたたちは、どうして信じることができようか。」

 ここでイエス様は父の名によって来た自分をユダヤ人たちが受け入れないのは、ユダヤ人たちがイエス様を遣わされた父、すなわち神様を愛していなからだと言われます。そして、その神様への愛を妨げているものこそ、人からの誉れを求める虚栄心であったのです。このことは、パウロがコリントの信徒たちが夢中になっていた人の優れた言葉や知恵を否定的に語る理由に通じるところがあります。すなわち、コリントの信徒たちはこの世の知恵を追い求めることによって、神の知恵であるキリストを軽んじるようになっていたのです。この世の知恵を追い求めることにより、十字架のキリストにおいて表された神様の愛を軽んじるようになる。愛するという人格的な関係ではなくて、知識といううわべだけの関係になってしまうのです。そのようなコリントの信徒たちに、また私たちに、聖書は神の知恵である十字架のキリストによって示された神の愛をもう一度よく見なさい、と言うのであります。

 「神は御自分を愛する者たちに準備された」。このパウロの言葉は、私たちにローマの信徒への手紙第8章28節を思い起こさせます。パウロはそこでこう記しています。

 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

 ここで「神を愛する者たち」とは、「御計画に従って召された者たち」であると語られています。パウロは私たちが神様を愛する者とされているのは、神様の永遠の御計画によって召されたからであると語るのです。私たちは生まれついての自分の愛で神様を愛しているのではなくて、神様によって、愛する心をいただいて、神様を愛する者とされているのです。神様を愛する心を私たちに与えるために、神様は愛する御子を十字架につけられたのです。私たちがどのようなときも神様の愛を確信することができるようにと、神様は御自分の独り子をイザヤ書の預言する主の僕としてお遣わしになり、私たちの罪の身代わりとして、十字架につけられたのです。世の支配者たちは神の知恵を理解せず、キリストを十字架につけたのでありますが、神様は世の支配者たちの不信仰をも用いて、御自分の救いの御業を実現してくださったのです。これこそ、パウロが宣べ伝え、私たちが宣べ伝えている、奥義としての神の知恵であるのです。

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