信仰の内にあるかの自己吟味 2019年8月18日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

13:5 信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。
13:6 わたしたちが失格者でないことを、あなたがたが知るようにと願っています。
13:7 わたしたちは、あなたがたがどんな悪も行わないようにと、神に祈っています。それはわたしたちが、適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。
13:8 わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。
13:9 わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。
13:10 遠くにいてこのようなことを書き送るのは、わたしがそちらに行ったとき、壊すためではなく造り上げるために主がお与えくださった権威によって、厳しい態度をとらなくても済むようにするためです。
13:11 終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。
13:12 聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。
13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。コリントの信徒への手紙二 13章5節~13節

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序 

 2018年の11月から10か月に渡って、コリントの信徒への手紙二を学んできました。今朝は、その最後の学びとなります。 

 前回学んだことですが、パウロは、コリントへの三度目の訪問を前にして、みだらな行いを悔い改めない者たちに対し、イエス・キリストの名によって教会訓練を行うことをほのめかしました。コリントの信徒たちは、キリストがパウロによって語っている証拠を求めていました。それで、パウロは、キリストの名によって教会訓練を行うことにより、その証拠を示そうと言うのです。パウロは、罪を悔い改めない者に対しては、神の力によって生きているキリストにあって、強い者であるのです。

 今朝の御言葉はその続きであります。

1 信仰を持って生きているかどうかの自己吟味

 5節をお読みします。

 信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが・・・・・・。

 パウロは、コリントの信徒たちに「信仰をもって生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい」と勧めます。パウロが「信仰を持って生きているかどうか」と記すとき、その「信仰」とはイエス・キリストの聖霊の賜物としての信仰であります。それゆえ、私たちが信仰をもって生きているならば、私たちの内にイエス・キリストが聖霊においておられるのです。私たちが信仰を持って生きているかどうか、そのことを自己吟味する時と場が、月に一度行われる聖餐式であります。パウロは、第一コリント書の11章で、主の晩餐について記していました。その28節でこう記しています。「だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」。主の晩餐は、私たちが自分をよく確かめる、自己吟味する時と場であるのです。このことは、司式者が読む式文にもよく表れています。私たちは、神と教会の前に、六つの誓約をして、洗礼を受けました。幼児洗礼を受けた方でしたら、六つの誓約をして、信仰告白をしたわけです。その六つの誓約の言葉が、式文の中に織り込まれているのです。例えば、「招きの言葉」の中に次のような文章があります。「主イエス・キリストを神の御子また罪人の救い主と信じ、聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストのしもべとしてふさわしく生きることを決心し約束している者は、すべてこの聖餐に招かれています」。この文書は、第三と第四の誓約の言葉を用いて記されています(3、あなたは、主イエス・キリストを神のみ子、また罪人の救い主と信じ、救いのために、福音において提供されているキリストのみを受けいれ、彼にのみより頼みますか。4、あなたは今、聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストのしもべとしてふさわしく生きることを、決心し約束しますか)。このように、司式者の言葉に注意深く耳を傾けるならば、聖餐式は、自分が信仰を持って生きているかどうかを確かめる自己吟味の時と場であることが分かるのです。そして、私たちは、キリストの体であるパンとキリストの血であるぶどうジュースを信仰をもって受けることにより、キリストが私たちの内におられることを確認することができるのです。

 パウロは、コリントの信徒たちに、「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい」と記しました。それは、10節にあるように、パウロが厳しい態度を取らないようにするためです。キリストが自分の内におられるかどうかを反省し、自己吟味することによって、コリントの信徒たちがみだらな行いを悔い改めるようにするためです。イエス・キリストを信じている私たちの内には、イエス・キリストがおられます。そうであれば、私たちはみだらな行いを避けるべきであるのです(一コリント6:12~20参照)。

2 失格者と見えようとも

 6節から10節までをお読みします。

 わたしたちが失格者でないことを、あなたがたが知るようにと願っています。わたしたちは、あなたがたがどんな悪も行わないようにと、神に祈っています。それはわたしたちが適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。遠くにいてこのようなことを書き送るのは、わたしがそちらに行ったとき、壊すためではなく造り上げるために主がお与えくださった権威によって、厳しい態度をとらなくて済むようにするためです。

 パウロは「わたしたちが失格者でないことを、あなたがたが知るように願っています」と記します。「失格者」とは、5節によれば、その人の内にイエス・キリストがおられない者のことです。パウロは、自分たちの内にキリストがおられることをコリントの信徒たちに知ってほしいと言うのです。そして、それは、5節とのつながりから言えば、コリントの信徒たちが自分を吟味することによってであるのです。コリントの信徒たちが自分を吟味して、自分たちの内にキリストがおられることが分かるならば、その自分たちに福音を宣べ伝えたパウロたちの内にキリストがおられることも分かるのです。パウロは、3節と4節で、キリストがわたしによって語っている証拠として、教会訓練を行うことを記しました。しかし、5節と6節では、コリントの信徒たちが自己吟味することによって、自分たちに福音を伝えたパウロたちがキリストの使徒であることを知ってほしいと記しているのです。パウロは、1節で、「すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです」と教会訓練をほのめかしましたが、できれば、厳しい態度を取りたくないのです。コリントの信徒たちが自己吟味をして、自分たちの内にキリストがおられることに気づいて、そこから、パウロたちがキリストの使徒であることが分かるならば、その方が良いのです。ですから、パウロは、コリントの信徒たちがどんな悪をも行わないように祈るのです。パウロは、自分たちが、適格者と見なされたいからそのように祈るのではありません。たとえ失格者のように見えても、コリントの信徒たちが適格者として善を行うことをパウロは願っているのです。

 8節に、「わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます」とあります。この「真理」とはパウロが宣べ伝えた「福音の真理」のことです。かつてパウロは、こう記しました。「すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」(一コリント9:22b、23)。パウロは、福音の真理に逆らっては何もできませんが、福音の真理のためならば、何でもできるのです。そして、その出来ることの中に、自分が弱くても、コリントの信徒たちが強ければ喜ぶということが含まれているのです。パウロは、偽使徒たちと自慢争いをしましたが、コリントの信徒たちに対してはそのような態度を取るつもりは一切ありません。パウロは、コリントの信徒たちをキリストにおいてもうけた父親として、自分が弱くてもコリントの信徒たちが強ければ喜ぶのです。パウロは、12章15節で、「わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう」と記しました。そのような者として、パウロは、コリントの信徒たちが完全な者になることをも祈っているのです。ここでの「完全」は、個々人というよりも、共同体としての完全のことです。さまざまな破れが繕われて達成される完全さのことです。パウロは、キリストの教会を壊すためではなく、造り上げるために権威を与えられた者として、コリントの信徒たちがキリストの教会として完成されることを願っているのです(エフェソ4:16参照)。

3 祝福の言葉

 11節から13節までをお読みします。

 終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

 11節から13節までは、手紙を閉じるにあたっての結びの言葉です。パウロはこの手紙を閉じるにあたって、短い勧告の言葉をいくつも記します。「喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」。これらは、いずれも「主にあって」ということです。パウロは、主にあって喜びなさい。主にあって完全な者になりなさい。主にあって励まし合いなさい。主にあって思いを一つにしなさい。主にあって平和を保ちなさいと記しているのです。ですから、パウロは、「そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます」と記すのです。「愛と平和の神が、私たちと共にいてくださる」。そのことを確かなこととして実感することができるのは、私たちが愛と平和の神である主にあって愛し合い、平和を保つことによるのです。パウロは、12節で、「聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい」と記していますが、それは互いに愛し合うことの具体的な表れですね。私たちにはそのような習慣はありませんから、文字通り実行する必要はないと思います。けれども、親しく挨拶を交わすことは大切なことであるのです。パウロは「すべての聖なる者たちがあなたがたによろしくとのことです」と記します。この「すべての聖なる者たち」とは、具体的には、パウロがこの手紙を書いているマケドニア州の信徒たちであると言えます。しかし、マケドニア州のキリスト者たちに限定する必要はないと思います。パウロは、「すべての聖なる者たちが、あなたがたによろしくとのことです」と書き記すことによって、コリントの教会が、全世界の教会との交わりの内にあることを思い起こさせようとしているのです。

 パウロは、最後に、祝福の言葉を記します。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」。この御言葉を、私たちは、礼拝ごとに祝福の言葉として聞いています。パウロは、他の手紙では、「主イエス・キリストの恵みがあなたがた一同と共にあるように」と記しています。しかし、この手紙では、主イエス・キリストの恵みだけではなく、神の愛と聖霊の交わりがあるようにと記すのです。争いの絶えないコリントの教会に、パウロは、主イエス・キリストの恵みだけではなく、神の愛と聖霊の交わりがあるようにと記さずにはおれなかったと思うのです(一コリント16:23、24「主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。」参照)。「神の愛」とは、第一コリント書の13章に記されていた愛です。パウロは、そこでこう記していました。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない」(一コリント13:4~8a)。そのような神の愛があなたがたと共にあるように。また、そのような愛の交わりが聖霊においてあなたがたと共にあるようにとパウロは記すのです。そして、それはコリントの教会だけではなくて、すべてのキリスト教会に必要な祝福であるのです。ですから、多くの教会では、この13節の御言葉を礼拝の最後の祝福の言葉として聞くのです。主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが共にある集まり、それがキリストの教会なのであります。そのことを覚えて、私たちは今朝も三位一体の神の祝福を受けたいと願います。

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