弱いときにこそ強い 2019年7月28日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

12:1 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。
12:2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。
12:3 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。
12:4 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。
12:5 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。
12:6 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、
12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。
12:8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。
12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。コリントの信徒への手紙二 12章1節~10節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、使徒パウロの苦難について学びました。パウロは、イエス・キリストの使徒として体験した苦難のリストを記すことにより、偽使徒たち以上に、キリストに仕える者であることを示したのです。パウロは十字架のキリストを宣べ伝える者として、苦難と弱さを誇ったのです。

 今朝の御言葉はその続きであります。

1 主が見せてくださった事

 12章1節から7節の前半までをお読みします。

 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れては知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかも知れないし、また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。

 ここで、パウロは、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について誇っています。おそらく、偽使徒たちは、自分たちの神秘的な体験を誇っていたのでしょう。それで、パウロも主が見せてくださった事と啓示してくださった事についてあえて誇るのです。けれども、ここでパウロは、自分のことを「キリストに結ばれていた一人の人」とか、「その人」とか、「そのような人」と、三人称で語っています。なぜ、パウロは、第三の天にまで引き上げられた体験を、三人称で記しているのでしょうか。一つの推測は、11章30節で、「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」と記したので、「わたしは」と一人称で語ることを躊躇したということです。けれども、5節から7節を読みますと、第三の天にまで引き上げられた人は、まぎれもなくパウロであります。5節で、「このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外に誇るつもりはありません」と、第三の天に引き上げられた人と自分を区別しています。けれども、続く6節と7節を読みますと、「あの啓示された事があまりにもすばらしいので、わたしを過大評価するかもしれない」とか、「思い上がることのないようにと、わたしの身にひとつのとげが与えられました」と記しています。このように、第三の天にまで引き上げられた「その人」とは、パウロ本人のことであるのです。

 パウロは、14年前、第三の天にまで引き上げられました。ユダヤ人たちは、天が三つの層からなっていると考えていました。ですから、第三の天とは最高の天のことであり、4節に「楽園」と言われている神さまがおられる天国のことです。パウロは、体のままか、体を離れてかは分かりませんが、第三の天である楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。神さまは、そのような神秘的な体験をパウロにさせてくださったのです。なぜ、神さまは、パウロにそのような神秘的な体験をさせたのでしょうか。ある研究者は、パウロがキリストための苦難を耐えることができるようにするためであると説明しています(ヴェントラント)。パウロは、この手紙の4章17節で、「わたしたちの一時の軽い患難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」と記しました。なぜ、パウロは、そのようなことを確信を持って記すことができたのか。それは、パウロが、第三の天にまで引き上げられるという神秘的な体験をしていたからであるのです。けれども、私たちが注意したいことは、パウロは、偽使徒たちとの自慢争いがなければ、このことを口にすることはなかったということです。パウロは、十四年前の神秘的な体験を大切にしていたとしても、それを自慢して、誇るようなことはありませんでした。誇ることがないように、パウロの身に一つのとげが与えられていたのです。

2 サタンから送られた使い

 7節の後半から9節までをお読みします。

 それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

 パウロは、啓示されたことがあまりにもすばらしいので、思い上げることがないように、自分の身に一つのとげが与えられたと記しています。これは、後からの解釈ですね。パウロは、自分の身に一つのとげが与えられたとき、これは神秘的な体験のことで思い上がることのないように、神さまからの教育的な配慮で与えられたものだとは考えなかったはずです。この「とげ」についてはさまざまな解釈があります。私は肉体の慢性的な病であると思います。ガラテヤ書の4章の記述によれば、パウロは眼病を患っていたのかも知れません(ガラテヤ4:15参照)。いずれにしても、パウロにとって、このとげは「サタンから送られた使い」であり、福音宣教の妨げになるものでした。ですから、パウロは、この使いについて離れ去らせてくださるように、三度主に願ったのです。ここでパウロは、「サタンに願った」のではありません。サタンの使いを離れ去らせてくださいと主に願ったのです。それは、サタンも主なる神の御許しの中で活動しているからです。旧約のヨブ記の2章を読むと、サタンがヨブをひどい皮膚病にかからせたことが記されています。そのときも、サタンは神さまに許可を得ているわけです。サタンは、主の言葉、「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな」という言葉を受けて、ヨブをひどい皮膚病にかからせたのです(ヨブ2:6)。パウロもそのことを知っておりました。ですから、パウロは、主に、サタンの使いを離れさせてくださいと三度願ったのです。

 パウロが三度主に願ったことについては、二つの解釈があります。一つは「何度も祈った」という解釈です。三という数字は完全数ですから、パウロは主に何度も願ったと解釈するのです。もう一つは「文字通り三度祈った」という解釈です。この解釈にも心惹かれます。といいますのも、ここでパウロが願っている主イエス御自身が、ゲツセマネの園で三度祈られたからです。主イエスは、十字架につけられる前夜に、ゲツセマネの園で、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と三度祈られました(マルコ14:36)。そして、三度祈られて、「人の子が罪人たちの手に引き渡される」という神の御心を受け入れられたのです。その主イエスに、パウロも三度願ったのです。そして、その祈りの中で、主イエスはパウロに、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるだ」と言われたのです。この主の言葉を聞いて、パウロはそれ以上祈るのをやめたのです。そして、サタンから送られた使いが、思い上がることのないように、主から与えられたものであることを悟ったのです。

 私たちにも、「これさえなければ」と思うとげがあると思います。そして、私たちも三度、三度どころではない何度でも祈るのです。しかし、そのとき、私たちに与えられる一つの答えは、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という御言葉であるのです。私たちキリスト者は誰でも、「わたしの恵みはあなたに十分である」と言っていただけるほどの恵みをキリストからいただいているのです。「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」。新共同訳聖書は「十分に発揮される」と翻訳していますが、他の聖書を見ますと「完全に現れる」と翻訳しています(口語訳、新改訳、新改訳2017、聖書協会共同訳)。「力は弱さの中で完全に現れる」とキリストが言われる時、その「力」とはキリストの力であり、その「弱さ」とはパウロの弱さ、私たちの弱さのことです。キリストの力は私たちの弱さの中で完全に現れる。私たちはどのような状態のときに弱いと言えるでしょうか。それは、自分のうちに誇るものが何一つないことを実感するときです。自分は無力な存在だということを心底実感するときです。そのとき、私たちは生きていかれないと思う。けれども、その私たちのうちに、キリストの力は十分に発揮される。キリストが私たちの誇りとなり、私たちを立ち上がらせ、生かす力となるのです(二コリント1:8、9参照)。ですから、パウロは、「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と記すのです。なぜ、パウロは自分の弱さを誇るのか。それは、弱い自分にこそ、キリストの力が宿ってくださるからです。弱い自分の中にこそ、キリストの力は完全に現れるのです。

3 弱いときにこそ強い

 10節をお読みします。

 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

 パウロは、弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足していると記します。ここで大切なのは、「キリストのために」という言葉です。パウロは、自分が弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりの状態にあっても、キリストのためならば、満足していると言うのです。そして、その理由を、「なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」と記すのです。この言葉だけを切り取って読むならば、意味をなさない矛盾している言葉です。しかし、前の文章との繋がりから言えば、「わたしは弱いときにこそ強い」と言えるのが、弱い自分にキリストの力が十分に発揮されるからであることが分かります。「わたしは弱いときにこそ強い」。そのように言えるのは、パウロだけではありません。すべてのキリスト者は、「わたしは弱いときにこそ強い」と言うことができるのです。そして、それゆえに、自分の弱さを受け入れて、キリストにあって満足することができるのです。「わたしの恵みはあなたに十分である」という主イエスの御言葉を、私たちは弱さの中でこそ、聞くことができるのです。

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