キリストの婚約者 2019年7月07日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

聖句のアイコン聖書の言葉

11:1 わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています。
11:2 あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。
11:3 ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。
11:4 なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。コリントの信徒への手紙二 11章1節~4節

原稿のアイコンメッセージ

 コリントの信徒への手紙二の10章から13章までは一つの大きなまとまりをなしています。その内容は論争的でありまして、偽使徒たちに惑わされているコリントの信徒たちに宛てて記されています。10章から13章までは、1章から9章までを記した後、しばらくしてから、書き送られたと考えられています。それが後に、一つの手紙として編集されて、私たちが手にしているかたちとなったと推測できるのです。

 今朝は、11章1節から4節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1 愚かさを我慢してほしい

 1節と2節前半をお読みします。

 わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています。あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。

 パウロは、「わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが」と記します。パウロは、10章12節でこう記していました。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。「自己推薦する者たち」とは、コリントの信徒たちを惑わせていた偽使徒たちのことです。パウロは、「偽使徒たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようとは思わない。それは愚かなことだ」と記していたのです。しかし、その愚かなことをパウロはこれからしようとするのです。11章16節以下を見ますと、パウロは偽使徒たちと同じようにアブラハムの子孫であること。キリストに仕える者としては、彼ら以上にそうであると記しています。そして、キリストの使徒として被った労苦を長々と記しています。パウロは自分を偽使徒たちと同列に置いたり、比較したりすることに先立って、11章1節で、「わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが」と前もって記しているのです。

 パウロは、続けて、「いや、あなたがたは我慢してくれています」と記します。ここでの「我慢」は、パウロの愚かさに対してではなく、偽使徒たちの愚かさに対する我慢のことです。パウロは、「あなたたちは偽使徒たちの愚かさを我慢しているのだから、わたしの少しばかりの愚かさをも我慢してくれるだろう」と記しているのです。

 パウロは、10章17節、18節で、「『誇る者は主を誇れ。』自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです」と記しました。そのパウロが、なぜ、自己推薦するという愚かなことを、あえてするのでしょうか。それは、2節にあるように、コリントの信徒たちに対して、神が抱いておられる熱い思いをパウロも抱いているからです。ここで「熱い思い」と訳されている言葉は「嫉妬」「ねたみ」とも訳すことができます。パウロは、神さまの抱いている熱い思い、ねたみから、愚かなことをあえてするのです。パウロが抱いているのは、偽使徒に対する、人間的なねたみではありません。パウロが抱いているのは、コリントの信徒たちに対して神さまが抱いている神のねたみであるのです。「神のねたみ」と聞いて、多くの方は、十戒の第二戒を思い起こされると思います。「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」(出エジプト20:4、5a)。「わたしは熱情の神である」は、口語訳聖書では「わたしは、ねたむ神である」と訳されています(聖書協会共同訳も参照)。旧約聖書において、主なる神と神の民イスラエルの関係は、夫婦に譬えられています。それゆえ、イスラエルの民が偽りの神々を崇めることは、霊的な姦淫であり、神さまにねたみを起こさせる行為であるのです。そのような神さまのねたみをパウロは抱いているゆえに、愚かなことをあえてするのです。

2 キリストの婚約者

 2節後半と3節をお読みします。

 なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。

 パウロは、「神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています」と記しました。それには、それなりの理由があります。それは、パウロがコリントの信徒たちを純潔な処女として、一人の夫、イエス・キリストと婚約させたからです。私たちキリスト者は、聖霊によって、「イエスは主である」と告白します。それは、「イエスはイスラエルの神、ヤハウェである」という告白でありますが、同時に、「イエスはわたしの主人、夫」であるという告白でもあるのですね(主人と僕だけではなく)。ですから、イエス・キリストを信じている私たちも、純潔な処女として、一人の夫、イエス・キリストと婚約させていただいた者たちであるのです。結婚の日は、イエス・キリストが再び来られる日でありますね。私たちは、キリストの婚約者として、花婿であるキリストが再び来られる日を待ち続けているのです。その私たちに求められていることは、花婿が来られる日まで貞潔を守るということです。しかし、コリントの信徒たちの貞潔は、偽使徒たちによって、汚されようとしていました。パウロは、エバが蛇に欺かれたように、コリントの信徒たちが欺かれてしまうのではないかと心配しているのです。パウロは、コリントの信徒たちをキリスト・イエスにおいてもうけた父親として、また、一人の夫、イエス・キリストに献げた父親として心配しているのです(仲人というよりも父親)。

 「エバが蛇の悪だくみで欺かれたこと」は、旧約の創世記の3章に記されています。そのところを読んで確認したいと思います。旧約の3ページです。創世記3章1節から6節までをお読みします。

 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。

 飛んで、13節をお読みします。

 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

 この蛇の背後には、神の敵である悪魔、サタンがいます。サタンは言葉巧みに、神さまが禁じられた善悪の木の実を食べるように誘惑するわけです。そして、女(エバ)は、その悪魔の言葉を真に受けて、禁じられた木の実を取って食べたのです。女は蛇にだまされて、神さまから禁じられた木の実を食べてしまった。このエバのように、コリントの信徒たちが偽使徒たちにだまされて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと、パウロは心配しているのです。

 では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の337ページです。

3 異なったイエス

 4節をお読みします。

 なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受け入れたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。

 パウロは、コリントの信徒たちの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔からそれてしまうのではないかと心配していました。それは、外から来た偽使徒たちが、パウロたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝え、あるいはコリントの信徒たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を宣べ伝えていたからです。そのことに対して、コリントの信徒たちが「よく我慢している」からです。これは、パウロの皮肉ですね。我慢してはいけないのに、コリントの信徒たちは我慢して聞いていたのです。「だれかがやって来て、パウロたちが宣べ伝えたイエスとは異なったイエスを宣べ伝える」。このことの実例を、私たちはガラテヤの信徒への手紙とヨハネの手紙の中に見ることができます。

 ガラテヤの信徒への手紙1章6節から9節までをお読みします。新約の342ページです。

 キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、私たちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。

 ここで、パウロはガラテヤの信徒たちが他の福音に乗り換えてしまったことに驚いています。ガラテヤの信徒たちは、偽教師たちに惑わされて、福音の恵みから落ちようとしていたのです。ガラテヤ書全体を読みますと、ガラテヤの教会を惑わせていた偽教師たちが、イエス・キリストを信じるだけではなく、律法を守ることを教えていたことが分かります。偽教師たちは、「イエス・キリストを信じるだけではなく、律法を守られなければ救われない」と教えていたのです。そのような偽教師たちに惑わされていたガラテヤの信徒たちに、パウロは、「イエス・キリストを信じるだけで救われる」という福音を改めて書き送ったのです。

 次にヨハネの手紙一の4章1節から3節までをお読みします。新約の445ページです。

 愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。

 ヨハネの教会を惑わせていた偽預言者たちは、イエス・キリストが肉となったことを否定していました。偽預言者の教えの背後にあるのは、ギリシャ的な霊肉二元論です(霊を善、肉を悪とする考え方)。彼らは、イエス・キリストが肉体を取ったように見えただけであると主張したのです。このような偽預言者たちが宣べ伝えるイエスは、使徒たちの教えと異なったイエスであります。そして、その背後には、神から出た霊ではない、反キリストの霊(悪の諸霊)が働いているのです。

 今朝の御言葉に戻りましょう。新約の337ページです。

 ガラテヤ教会の偽教師たちは、イエス・キリストへの信仰だけではなく、律法を守らなければ救われないという異なった福音を宣べ伝えました。また、ヨハネの教会の偽預言者たちは、イエス・キリストが肉となったことを否定して、異なったイエスを宣べ伝えました。では、コリント教会の偽使徒たちは、どのようなイエスを宣べ伝えていたのでしょうか。残念ながら、よく分かりません。一つ推測できることは、彼らがキリストの苦難を軽んじて、キリストの栄光を強調していたということです。ともかく、偽使徒たちが教えていたのは、パウロが宣べ伝え、コリントの信徒たちが受け入れたのとは異なったイエスであり、異なった霊であり、異なった福音であったのです。偽使徒たちの教えは、使徒的な教えから逸脱した、間違った教え、異端であったのです。

 今朝は、最後に、私たちの周りにある間違った教え、異端である「エホバの証人」についてお話したいと思います。参考資料として、『新キリスト教辞典』の「エホバの証人」の項目を印刷して、週報に挟んでおきました。エホバの証人は、自分たちを「クリスチャン」であると言いますが、イエス・キリストが父なる神と同質である子なる神であることを認めません。よって、彼らは三位一体の神を認めません。エホバの証人は、イエス・キリストの神性を否定し、三位一体の神を否定する間違った教えを信じ、広めているのです(エホバの証人の教えの源流は、325年のニケア公会議で異端と断罪されたアリウス主義)。エホバの証人のホームページを見ると、そのことがはっきりと記されています。

 「イエス・キリストの教えと模範に従い、救い主また神の子としてイエスに敬意を抱いています。(マタイ20:28。使徒5:31)ですから、わたしたちはクリスチャンです。(使徒11:26)。とはいえ、イエスが全能の神ではないこと、三位一体の教理には聖書的な根拠がないことを、聖書を通して学びました。(ヨハネ14:28)」

 このように、エホバの証人は、イエス・キリストが神であることを否定し、三位一体の神を否定しているのです。しかも、それが聖書の教えであると宣べ伝えているのです。この現実を、私たちは今朝はっきりと認識したいと思います。使徒たちの教えと異なったイエスが宣べ伝えられているのは、昔の話ではありません。今も、エホバの証人たちは、異なったイエスを活発に宣べ伝えているのです。けれども、そこに救いはありません。なぜなら、救いは、父と子と聖霊なる三位一体の神の御業であるからです。イエス・キリストが神であられるからこそ、私たち人間の罪の贖いは成り立つからです。

 私たちは、間違った教えに惑わされることなく、使徒たちの教えに立って、まことの神であるイエス・キリストによって成し遂げられた救いを大胆に宣べ伝えていきたいと願います。三位一体の神によって成し遂げられた救いを、大胆に宣べ伝えていきたいと願います。

関連する説教を探す関連する説教を探す