信頼できる喜び 2019年4月28日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

7:11 神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。
7:12 ですから、あなたがたに手紙を送ったのは、不義を行った者のためでも、その被害者のためでもなく、わたしたちに対するあなたがたの熱心を、神の御前であなたがたに明らかにするためでした。
7:13 こういうわけでわたしたちは慰められたのです。この慰めに加えて、テトスの喜ぶさまを見て、わたしたちはいっそう喜びました。彼の心があなたがた一同のお陰で元気づけられたからです。
7:14 わたしはあなたがたのことをテトスに少し誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。それどころか、わたしたちはあなたがたにすべて真実を語ったように、テトスの前で誇ったことも真実となったのです。
7:15 テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せています。
7:16 わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。コリントの信徒への手紙二 7章11節~16節

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序 

 受難週、イースターと、コリントの信徒への手紙二から離れていましたが、今朝から再び、コリントの信徒への手紙二から御言葉の恵みにあずかりたいと思います。

1 パウロとコリント教会の関係

 今朝は、パウロとコリント教会の関係について振り返ることから始めたいと思います。使徒言行録の18章によれば、パウロは1年6か月の間コリントにとどまって、福音を宣べ伝えました。このパウロの働きによって、コリントにイエス・キリストを信じる神の教会がうまれたのです。コリントの教会はパウロによって開拓伝道された教会であったのです。しかし、コリントの教会には、パウロがイエス・キリストの使徒であることを疑い、中傷する者たちがおりました。また、第一コリント書の5章によれば、父の妻をわがものとしているみだらな者がおりました。パウロは、みだらな者を教会の交わりから除外するようにと、イエス・キリストの使徒として記しました。しかし、コリントの信徒たちは、みだらな者を教会の交わりから除外せず、そのままにしておいたのです。みだらな者はパウロを中傷する急先鋒(まさっきに立って勢いよく行動する人)となっていたようです。彼はパウロから遣わされたテモテを蔑ろにしました。テモテは不安の内に、パウロのいるエフェソに戻ってきました。それで、今度はパウロがコリントに行くのですが、みだらな者はパウロをも侮辱しました。パウロの心は傷ついたと思いますが、何よりもパウロを傷つけたのは、コリントの信徒たちがどっちつかずの態度を取っていることでした。コリントの信徒たちは、パウロがイエス・キリストの使徒として命じたことを実行していませんでした。このことは、コリントの信徒たちが、パウロをイエス・キリストの使徒として重んじていないことを意味します。パウロはエフェソに戻り、悩みと愁いに満ちた心で涙ながらに手紙を書きました。それは、コリントの信徒たちを悲しませるためではなく、パウロがコリントの信徒たちに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためであったのです(二コリント2:4参照)。

 この手紙は、コリントの信徒たちに悲しみをもたらしましたが、その悲しみは神の御心に適う悲しみでした。なぜなら、コリントの信徒たちは、ただ悲しんだだけではなく、悲しんで、悔い改めたからです。7章10節に「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ」るとあるように、コリントの信徒たちは、パウロの涙の手紙を読んで、神の御心に適って悲しみ、神様へと立ち帰ったのでした。

2 神の御心に適った悲しみ

 11節から13節前半までをお読みします。

 神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。ですから、あなたがたに手紙を送ったのは、不義を行った者のためでも、その被害者のためでもなく、わたしたちに対するあなたがたの熱心を、神の御前であなたがたに明らかにするためでした。こういうわけでわたしたちは慰められたのです。

 パウロは、神の御心に適った悲しみが、コリントの信徒たちにどれほどの熱心をもたらしたかを語り、さらに詳しく、弁明、憤り、恐れ、あごがれ、熱意、懲らしめをもたらしたと記します(新改訳参照)。「弁明」とはパウロを中傷する者に同調するような態度を取った罪に対する弁明でしょう。「憤り」も自らの罪に対する憤りのことです。「恐れ」とはパウロをイエス・キリストの使徒とされた神様への恐れのことです。「あこがれ」とは使徒パウロを慕う思いのことです。「熱意」とはパウロの言葉に従おうという熱い思いのことです。「懲らしめ」とは、パウロが使徒であることを疑い、中傷する者を教会の交わりから閉め出す教会訓練のことです。このようにして、コリントの教会は、救いに通じる悔い改めを表明したのです。

 「例の事件」とは、コリント教会のある者が、パウロを侮辱した事件のことです。そのとき、コリントの信徒たちは、パウロを弁護することなく、どっちつかずの態度を取りました。コリントの信徒たちは、パウロを侮辱した者に同調するかのような態度を取ったのです。しかし、コリントの信徒たちは、涙の手紙を読んで、パウロのあふれるほどの愛を知り、悲しんで悔い改めました。そして、パウロの言葉に従い、パウロを侮辱した者を教会の交わりから除外することによって、自分たちがすべての点で潔白であることを証明したのです。すなわち、自分たちがパウロをイエス・キリストの使徒であると認め、重んじていることを証明したのです。

 12節で、パウロは涙の手紙を書き送った目的を記しています。「不義を行った者」とは、みだらな行いをし、パウロを侮辱した者のことです。また、「その被害者」とは、パウロ自身のことです。パウロが涙の手紙を送った目的は、不義を行った者を罰するためでも、被害者の名誉を回復するためでもなく、パウロたちに対するコリントの信徒たちの熱心を神様の御前で明らかにするためであったのです。この目的は、コリントの信徒たちがパウロをイエス・キリストの使徒として重んじ、パウロの言葉に従って、教会訓練を行うことによって明らかとなりました。それゆえ、パウロたちは慰められ、励まされ、力づけられたのです。

3 信頼できる喜び

 13節の後半から16節までをお読みします。

 この慰めに加えて、テトスの喜ぶさまを見て、わたしたちはいっそう喜びました。彼の心があなたがた一同のお陰で元気づけられたからです。わたしはあなたがたのことをテトスに少し誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。それどころか、わたしたちはあなたがたにすべて真実を語ったように、テトスの前で誇ったことも真実となったのです。テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せています。わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。

 パウロは、涙の手紙を読んだコリントの信徒たちの反応を知るために、テトスを遣わしました。かつてパウロはテモテをコリントに遣わしました。しかし、テモテはコリント教会のある者に蔑ろにされ、不安のうちにパウロのもとに戻ってきました。しかし、テトスは、涙の手紙が神の御心に適った悲しみをコリントの信徒たちにもたらしていたゆえに、従順に、恐れおののいて歓迎されたのです。パウロから遣わされたテトスは、まるでパウロであるかのように、歓迎されたのです。パウロは、コリントの信徒たちが、テトスを「恐れおののいて」歓迎したと記しています。「恐れおののく」とは旧約聖書において、神様に対して用いられる言葉です。コリントの信徒たちが、テトスを歓迎したその背後には、神様に対する恐れおののきがあったのです。それは、テトスを遣わしたパウロが、神様によってイエス・キリストの使徒とされたからであるのです(二コリント1:1参照)。

 パウロは、テトスの心がコリントの信徒たちによって元気づけられたと記していますが、ここで「元気づけられた」と訳されている言葉は、「安らぎが与えられた」とも訳すことができます(新改訳参照)。パウロは、7章5節で、「マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなかった」と記していました。このことはテトスも同じであったのでしょう。パウロよりも若いテトスにとって、コリントに行くことは気が重いことでありました。しかし、コリントの信徒たちが従順に恐れおののいて、テトスを歓迎してくれたことにより、彼の心に安らぎが与えられたのです。

 パウロは、14節で、自分がコリントの信徒たちのことをテトスに誇ったと打ち明けています。心配するテトスに、コリントの信徒たちは、私から福音を聞いて信じた立派な信仰者たちであると誇ったのでしょう。聖書において、「誇る」とは「拠り所とする」ことです。パウロは、コリント教会こそ、わたしが使徒であることの拠り所であると、誇ったのでしょう。そして、神様は、そのパウロの言葉どおりにしてくださったのです。神様は、パウロが書き送った涙の手紙を用いて、コリントの信徒たちを悲しませ、救いに至る悔い改めを与えてくださったのです。そのようにして、テトスを喜ばせ、パウロをも喜ばせてくださったのです。

 16節に、「わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます」とあります。ここに牧師と教会員のあるべき姿が記されています。そして、その信頼関係は、神様の御前に、主イエス・キリストに結ばれてのものであるのです。私たちは互いのことをそれほど知っているわけではありません。牧師と教会員も、教会員と教会員も、互いのことをそれほど知っているわけではないのです。そのような私たちが信頼し合うことができるのはなぜか。それは、私たちが神様の御前に、イエス・キリストに結ばれて生きているからです。以前にも申しましたが、私がこの教会に赴任したとき、他の教会のある長老に、次のような質問をしました。「わたしのような若い牧師が、教会員から信頼されるためにはどうすればよいのでしょうか」。すると、その長老はこう答えられたのです。「御言葉を真実に語ることです」と。若くても御言葉を真実に語ろうと取り組んでいるならば、教会員から信頼されると言うのです。わたしはそれは本当だと思います。なぜなら、牧師と教会員の関係は、神様の御前に、イエス・キリストに結ばれている者としての信頼関係であるからです(二コリント2:17参照)。教会員と教会員との信頼関係も同じだと思います。神様の御前に、主イエス・キリストに結ばれて生きている。イエス・キリストの御名によって集まり、共に礼拝をささげている。ここに、私たちが互いのことを信頼できる根拠があるのです。私たちは礼拝においてこそ、互いを信頼できる喜びにあずかることができるのです。

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