神の御心に適った悲しみ 2019年4月07日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

7:2 わたしたちに心を開いてください。わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。
7:3 あなたがたを、責めるつもりで、こう言っているのではありません。前にも言ったように、あなたがたはわたしたちの心の中にいて、わたしたちと生死を共にしているのです。
7:4 わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており、あなたがたについて大いに誇っています。わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています。
7:5 マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。
7:6 しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。
7:7 テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです。つまり、あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです。
7:8 あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、
7:9 今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。
7:10 神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。コリントの信徒への手紙二 7章2節~10節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝はコリントの信徒への手紙二の7章2節から10節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1 心を開いてください

 2節から4節までをお読みします。

 わたしたちに心を開いてください。わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。あなたがたを責めるつもりで、こう言っているのではありません。前にも言ったように、あなたがたはわたしたちの心の中にいて、私たちと生死を共にしているのです。わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており、あなたがたについて大いに誇っています。わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満たされています。

 パウロは、6章13節で「心を広くしてください」と記していましたが、今朝の御言葉でも「わたしたちに心を開いてください」と記します。コリントの教会には、パウロに対して自分で心を狭くしている人たちがいました。そのような人たちに対して、パウロは、「わたしたちに心を開いてください」と言うのです。コリントの教会のある者たちの心にはパウロたちの占める場所はありませんでした。その彼らに対して、「あなたがたの心に、私たちのための場所を作ってください」とパウロは願うのです。

 パウロは「わたしたちは不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした」と弁明の言葉を記しています。コリント教会のある者は、パウロが不義を行い、人を破滅させ、金銭をだましとっていると中傷していたようです。そのような中傷の言葉を念頭において、パウロは、「私たちはそのようなものではない」と記すのです。さらには、この言葉が、コリントの信徒たちを責めていると誤解されないように、「あなたがたを、責めるつもりで、こう言っているのではありません」と記すのです。

 3節後半に、「前にも言ったように、あなたがたはわたしたちの心の中にいて、わたしたちと生死を共にしているのです」と記されています。新共同訳聖書の翻訳では、「生死を共にしている」と記されていますが、元の言葉では、「共に死に、共に生きる」と記されています。「生きて死ぬ」のではなくて、「死んで生きる」のです。パウロは、コリントの信徒たちと共に死んで、共に復活することを、ここで考えているのです。ちなみに、新改訳聖書はこのところを次のように翻訳しています。「前にも言ったように、あなたがたは、私たちとともに死に、ともに生きるために、私たちの心のうちにあるのです」。コリント教会のある者たちの心には、パウロがいる場所がなくても、パウロの心には、コリントの信徒たちがいつもいるのです。そして、それは、パウロとコリントの信徒たちが共に死んで、共に復活するためであるのです。

 「前にも言ったように」とありますが、これはどこの箇所を指しているのでしょうか。おそらく、3章2節ではないかと思います。パウロは、3章2節でこう記していました。「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています」。パウロは、私たちの推薦状は、私たちから福音を聞いて信じたあなたがた自身だ。あなたがたは私の心に書かれているのだと記しておりました。そのことを踏まえて、「前にも言ったように、あなたがたは、私たちとともに死に、ともに生きるために、私たちの心のうちにあるのです」とパウロは記すのです(新改訳)。

 4節は、パウロとコリントの教会との関係が完全に修復されたことを示しています。これまでパウロは、自分が使徒であることを弁明してきました。しかし、ここでパウロは、「わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており、あなたがたについて大いに誇っています。わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています」と記すのです。なぜ、パウロは、このような言葉を記すことができたのでしょうか?その理由が5節以下に記されています。

2 気落ちした者を力づけてくださる神

 5節から7節までをお読みします。

 マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです。つまり、あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです。

 5節以下は、文脈としては2章12節、13節の続きであります。2章12節、13節にこう記されていました。新約の327ページです。

 わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていましたが、兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました。

 この続きが今朝の7章5節以下に記されているのです。ここで、パウロとコリントの教会の関係について整理しておきたいと思います。第一コリント書の5章を読むと分かるように、コリントの教会には、父の妻をわがものとしている、みだらな者がいました。パウロは、そのみだらな者を教会の交わりから閉め出すようにと手紙を記しました。しかし、コリントの信徒たちは、そのみだらな者を交わりから閉め出さずに放置していたのです。みだらな者は自分を教会の交わりから閉め出そうとするパウロを中傷します。彼は、パウロが遣わしたテモテを蔑ろにし、不安の内パウロのもとに送り返しました。また、パウロがコリントを訪問した際には、パウロを公然と侮辱したのです。パウロの心は、彼の侮辱によって傷ついたと思いますが、それよりもパウロが問題としたのは、コリントの信徒たちが、その者をいさめることなく、どっちつかずの態度を取ったことです。パウロが問題にしたことは、みだらな者を教会の交わりから閉め出すように、イエス・キリストの使徒として命じていたにも関わらず、コリントの信徒たちがそのことを実践していなかったことです。このことは、みだらな者だけではなく、コリントの信徒たち全体が、パウロをイエス・キリストの使徒であると認めていないことを意味します。それで、パウロは、エフェソに戻って、涙ながらに手紙を書いたのです。2章4節にこう記されていました。

 わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。

 パウロは涙の手紙を誰かに届けさせた後で、コリントの信徒たちがどのような反応を示すのか不安になりました。それで、パウロはテトスを遣わしたのです。パウロはテトスとトロアスで会う予定であったようですが、会えませんでした。それで、パウロはテトスに会うために、マケドニア州へ出発したのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の332ページです。

 パウロは、マケドニア州に着いたとき、自分たちの身に全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいたと記しています。外には信仰の戦いがあり、内にはコリントの教会が頑なになってしまうのではないかという恐れがあったのです。

しかし、気落ちしている者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってパウロたちを慰めてくださいました(「力づける」と訳されている言葉は、「慰める」「励ます」とも訳されるパラカレオー)。「気落ちしている者を力づけてくださる神」。この言葉は、イザヤ書49章13節を背景にしています。そこには、「主は御自分の民を慰め、その貧しい人々を憐れんでくださった」とあります。私たちが気落ちしているとき、その私たちを力づけてくださる方がいるとすれば、それは神様であるのです。気落ちしている私たちを力づける事柄の背後には、神様が働いてくださっているのです。少なくとも、パウロはそのように理解していました。パウロは、テトスの到着によって自分たちを慰めてくださったのは、あらゆる慰めの神であると言うのです。

 パウロは、テトスに会うことによって、また、テトスがコリントの信徒たちから受けた慰めによって慰められました。つまり、コリントの信徒たちが、パウロを慕い、パウロのために嘆き悲しみ、パウロに対して熱心であることを伝え聞いて、パウロたちは慰められ、いっそう喜んだのです。

 パウロは、コリントの信徒たちを悲しませるためではなく、コリントの信徒たちに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうために、涙の手紙を書きました。そのパウロの意図は、コリントの信徒たちにちゃんと通じたのです。それゆえ、コリントの信徒たちはパウロを慕い、パウロのために嘆き悲しみ、パウロに対して熱心な者となったのです。このように、神様はパウロの願いを聞き届けてくださり、気落ちしていたパウロを力づけてくださったのです。

3 神の御心に適った悲しみ

 8節から10節までをお読みします。

 あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。

 ここで、パウロは、悲しみには二つの悲しみがあると記します。一つは、神の御心に適った悲しみであり、もう一つは世の悲しみです。パウロは自分が書いた手紙によって、コリントの信徒たちが悲しんだことを知っていましたが、その悲しみは神の御心に適う悲しみであったので、今は喜んでいると記すのです。では、神の御心に適った悲しみとは、どのような悲しみを言うのでしょうか?それは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせる悲しみです。パウロが「神の御心に適った悲しみ」について記すとき、その「神の御心」とは、エゼキエル書18章32節に記されている神様の御心であります。主はエゼキエルを通して次のように言われます。「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」。悔い改めとは神様に立ち帰ることです。私たちが悲しんで、神様に立ち帰るならば、その悲しみは神様の御心に適った悲しみであるのです。

 では、世の悲しみとは、どのような悲しみを言うのでしょうか?パウロは、「世の悲しみは死をもたらす」と記します。神様を抜きにした悲しみ、絶望してし、死んでしまうような悲しみ、それが世の悲しみであるのです。

 今朝は、最後に、神の御心に適った悲しみの具体例としてペトロを、また、世の悲しみの具体例としてイスカリオテのユダについてお話して終わりたいと思います。

 ペトロは、イエス様のことを、「わたしはあの人を知らない」と三度も言いました。ペトロは、「イエス様のためならば、牢に入っても、死んでもかまわない」と言っていましたが、実際は、わが身かわいさに、イエス様との関係を三度も否定したのです。マタイ福音書によれば、呪いの言葉さえ口にしてイエス様との関係を否定したのです。そして、ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエス様の言葉を思い出して、外に出て激しく泣いたのです(マタイ26:75参照)。これはペトロにとって大きな悲しみです。しかし、ペトロは絶望して死んでしまうことはありませんでした。それは、イエス様がペトロのために、信仰が無くならないように祈ってくださったからです。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」(ルカ22:32)。このイエス様の御言葉が悲しみの中にあったペトロを支えたのです。復活されたイエス様は、誰よりも先にペトロに現れてくださいました。そして、ペトロに対して、「あなたはわたしを愛するか」と三度問うてくださったのです(ヨハネ21:15~19参照)。そのように、イエス様はペトロとの関係を回復してくださったのです。さらには、ペトロを主イエスの羊を飼う者としてくださったのです。これが、聖書が教える神様の御心に適った悲しみの具体例です。

 では、次に死をもたらす世の悲しみの具体例であるイスカリオテのユダについてお話したいと思います。

 イスカリオテのユダは、12人の一人でありながら、イエス様を銀貨三十枚で、祭司長たちに引き渡しました。なぜ、イスカリオテのユダはイエス様を引き渡したのか?これには諸説がありますが、一つの有力な説は、イエス様がユダの思い描いていたメシア、王ではなかったからです。マタイ福音書を読むと、ユダが裏切りを企てる前に、ベタニアで、イエス様が香油を注がれたお話が記されています。一人の女が極めて高価な香油をイエス様の頭に注ぎかけました。これは、女の信仰を表す行為です。女はイエス様の頭に香油を注ぎかけることによって、「あなたは油を注がれた方、メシア、王です」と言い表したのです。しかし、イエス様は何と言われたか。イエス様はこう言われたのです。「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」。イエス様は、「このことはわたしの葬りの準備だ」と言ったのです。それを聞いて、イスカリオテのユダは、イエス様を祭司長たちに引き渡すことを決断するのです。ユダは、イエス様を見限って、30枚の銀貨を手にする方を選ぶのです。このユダの手引きによって、イエス様は、ゲツセマネの園で捕らえられます。そして、ユダは、祭司長たちから、銀貨三十枚を手に入れるのです。しかし、イエス様に有罪の判決が下ったことを知ったユダは、イエス様を引き渡したことを後悔するのです。この所は聖書を開いて読みたいと思います。新約の56ページ。マタイによる福音書27章3節から5節までをお読みします。

 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし、彼らは「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。

 ユダは、自分の考えでイエス様を偽メシアと判断し、祭司長たちに売り渡しました。しかし、イエス様に有罪の判決が下ったことを知ると、ユダは後悔して、銀貨三十枚を祭司長たちに返そうとするのです。しかし、そのようなユダを祭司長たちは「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と突き放します。そして、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだのです。まさしく、ユダの悲しみは死をもたらしたのです。ここで、私たちが注意したいことは、ユダは後悔したが、悔い改めはしなかったということです。ユダは後悔しましたが、悔い改めはしませんでした。ユダも悲しんだと思います。そして、その悲しみはユダに死をもたらしたのです。ユダは神様に立ち帰ることなく、自分で自分を裁いたのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の333ページです。

 最後にもう一度10節をお読みします。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」。このパウロの言葉が、ペトロと、イスカリオテのユダのうえに、それぞれ実現しました。そして、神の御心に適った悲しみが、コリントの信徒たちのうえにも実現したのです。コリントの信徒たちだけではなありません。悲しみによって神様に立ち帰らせていただいた私たちの悲しみも、神様の御心に適う悲しみであったのです。

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