今や、恵みの時 2019年3月24日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

6:1 わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。
6:2 なぜなら、/「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。
6:3 わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、
6:4 あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、
6:5 鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、
6:6 純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、
6:7 真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、
6:8 栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、
6:9 人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、
6:10 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。
6:11 コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。
6:12 わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。
6:13 子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。コリントの信徒への手紙二 6章1節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、コリントの信徒への手紙二の6章1節から13節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1 今や、恵みの時

 1節、2節をお読みします。

 わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。

 パウロは、5章20節で、自分たちのことを「キリストの使者」と記していましたが、今朝の御言葉では、「神の協力者」と記しています。「神の協力者」と訳されている言葉は、「神と共に働く者」とも訳すことができます(新改訳参照)。パウロは、神様と共に働く者であるのです。なぜなら、神様は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうとお考えになったからです(一コリント1:21参照)。パウロは、その神様の御心によって、イエス・キリストの使徒とされ、福音を宣べ伝えたのです。そして、コリントの信徒たちは、そのパウロから福音を聞いて信じたのでありました。しかし、今朝の御言葉でパウロは、神様と共に働く者として、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」と勧めるのです。どうやら、コリントの信徒たちの中に、神様からいただいた恵みを無駄にしている者たちがいたようです。彼らは、パウロが使徒であることを疑うことによって、パウロから聞いた福音をも不確かなものとし、神様からいただいた恵みを無駄にしようとしていたのです。

 パウロが、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」と勧めるのは、今が、恵みの時であり、救いの日であるからです。「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」。この御言葉は、旧約聖書のイザヤ書49章8節からの引用であります。開いて、確認したいと思います。旧約の1142ページです。

 8節に、「主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え/救いの日にあなたを助けた」とありますが、文脈を理解するために、49章1節から9節までを読みたいと思います。

 島々よ、わたしに聞け/遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にあるわたしを呼び/母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き/わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して/わたしに言われた/あなたはわたしの僕、イスラエル/あなたによってわたしの輝きは現れる、と。わたしは思った/わたしはいたずらに骨折り/うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり/働きに報いてくださるのもわたしの神である。主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせ/イスラエルを集めるために/母の胎にあったわたしを御自分の僕として形づくられた主は/こう言われる。わたしはあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。イスラエルを贖う聖なる神、主は/人に侮られ、国々に忌むべき者とされ/支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。王たちは見て立ち上がり、君公はひれ伏す。真実にいますイスラエルの聖なる神、主が/あなたを選ばれたのを見て。主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え/救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて/民の契約とし、国を再興して/荒廃した嗣業の地を継がせる。捕らわれ人には、出でよと。闇に住む者には身を現せ、と命じる。

 このように読むと、8節の「主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え/救いの日にあなたを助けた」という御言葉が、イスラエルの民をバビロンの地から連れ戻し、カナンの地を継がせて、再興するという文脈で語られていることが分かります。そして、そのイスラエルとは、神様が国々の光とし、神様の救いを地の果てまでもたらす者であるのです。3節に、「あなたはわたしの僕、イスラエル」とありますが、主の僕、イスラエルこそ、イエス・キリストであり、また、イエス・キリストの教会であるのです。パウロは、そのような認識をもって、神の救いを地の果てまでもたらしたのです(使徒13:47参照)。ですから、パウロが、8節の御言葉を引用するとき、恵みの時とは、何よりも、イエス・キリストの恵みにあずかる時であり、救いの日とは、イエス・キリストの救いにあずかる日であるのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の331ページです。

 パウロは、イザヤを通して神様が預言された、恵みの時、救いの日こそ、自分たちが福音を宣べ伝えている今であると理解しておりました。神様の救いの歴史を振り返るならば、今は、恵みの時であり、救いの日であるのです。パウロは、5章21節でこう記しました。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」。「罪と何のかかわりもない方」とは、神の御子イエス・キリストのことであります。罪のないイエス・キリストが、私たちの身代わりになって、罪に定められた。私たちに代わって、罪の刑罰としての死を、律法違反者としての呪いの死を、十字架に磔にされて死んでくださったのです。それは、私たちが、イエス・キリストを信じて、神様に正しい者とされるためです。ですから、イエス・キリストを信じるならば、あなたは神様の恵みをいただくことができる。神様の救いをいただくことができるのです。今は、そのような恵みの時、救いの日であるのです。パウロの時代から2000年ほど経っている、今も同じです。主の日の礼拝ごとに、キリストの教会において、福音が語られている。その福音を聞いて信じるだけで、あなたは救われるのです。ですから、説教者は、イエス・キリストを信じていない人には、「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」と語るのです。また、イエス・キリストを信じて洗礼を受けたけれども、礼拝から遠のいている人には、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」と勧めるのですね。

 私たちが今朝、御一緒に確認したことは、今の時がどのような時であるかという時の認識です。イエス様が「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われて以来、今や、恵みの時、今こそ、救いの日であります(マルコ1:15)。しかし、その恵みの時、救いの日は、いつまでも続くわけではありせん。イエス・キリストが再び来られる日までの期間限定であるのです。私たちは、いつ、イエス様が来られるかを知りません。また、私たちがいつ地上の生涯を終えるのかも分かりません。ですから、私たちは、福音を聞いた、今という時に、イエス・キリストを信じるべきであるのです。神の恵みを無駄にしないように、礼拝を第一として歩むべきであるのです。

2 神に仕える者

 3節から10節までをお読みします。

 わたしたちは、この奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

 パウロは、5章18節で、「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」と記しました。パウロは、和解のために奉仕する務め、和解の言葉であるイエス・キリストの福音を宣べ伝える務めを神様から授けられたのです。そのような者として、パウロは、その奉仕の務めが非難されないように、人に罪の機会(つまずき)を与えないように、あらゆる場合において、神に仕える者として、自分自身を推薦してきたのです。4節には、あらゆる場合のリストが記されています。このリストは、元の言葉を見ますと、「何々において」(英語でいうとイン)と「何々によって」(英語でいうとスルー)という前置詞に着目して大きく二つに分けられます。今朝の週報に、参考資料として、岩波書店から出ている新約聖書を抜き書きしておきましたので、そちらをお読みします。

 むしろすべてのことにおいて私たちは、神の奉仕者として己れを示している。〔すなわち、〕多くの忍耐において、患難において、行き詰まりにおいて、鞭打ち〔の刑〕において、牢獄において、騒乱において、労苦において、不眠において、飢餓において、慈愛において、聖霊において、偽りのない愛において、真理の言葉において、神の力において、左右の〔の手〕の義の武具によって、栄光と恥辱によって、悪評と好評とによって〔、己れを示している〕。

 このように、「何々において」と「何々によって」という前置詞から大きく二つに分けられるのです。さらに「何々において」も、福音宣教者の労苦と聖霊の賜物という大きく二つに分けることができます。このことは、パウロが福音を宣べ伝える者をどのような者として理解していたかを端的に教えています。コリントの教会のある者たちは、パウロがイエス・キリストの使徒であることを疑っておりました。しかし、パウロは、福音のための苦難の中で、聖霊の結ぶ実によって、自分がイエス・キリストの使徒であることを示したのです。パウロは、苦難の中にあっても、偽りのない愛をもって真理の言葉を語ることによって、使徒としての務めを果たしたのです。

 8節に、「栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときも」とあるように、人々はパウロについて全く異なった評価をしました。それは、パウロの外なる人を見て評価する人と、パウロの内なる人を見て評価する人がいたからです。イエス・キリストを信じない人は、パウロは人々を欺いていると評価しました。しかし、イエス・キリストを信じる人は、パウロは誠実であると評価するのです。そして、イエス・キリストを信じる人の評価こそ、神様の評価であり、パウロの本当の姿であるのです。そして、これは、パウロだけではなくて、私たちキリスト者の姿でもあるのです。私たちは悲しんでいるようで、常に喜んでいます。私たちは自分と他人の罪に悲しんでいますが、主イエスによって罪を赦された者として常に喜んでいるのです。また、経済的には貧しくても、福音を宣べ伝えることによって、多くの人を霊的に富ませているのです。私たちは何も持っていないようでありながら、キリストにあって、すべてのものを所有しています。私たちは、キリストにあって、新しい天と新しい地を受け継ぐ者とされているのです。

3 心を広くしてください

 11節から13節までをお読みします。

 コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。

 パウロは感極まって、「コリントの人たち」と直接、呼びかけています。パウロは、自分たちがコリントの信徒たちを広い心で受け入れているように、コリントの信徒たちも広い心で自分たちを受け入れてほしいと記すのです。パウロは、コリントの信徒たちが、自分で心を狭くしていると記しています。コリントの信徒たちがパウロを正しく理解することができないのは、コリントの信徒たちが自分で心を狭くしているからなのです。彼らは自分で心を狭くしているので、パウロの一部しか見えず、全体を見ることができないのです。それで、彼らは、パウロを誤解してしまうのです。では、パウロのように心を広くするにはどうすればよいのでしょうか。それは、自分を中心にして物事を判断しないで、神様を中心にして物事を見ることです。私たち改革派教会の創立宣言の主張の第一点は、「有神的人生観乃至世界観こそ新日本建設の唯一の確かなる基礎なり」ですが、キリスト教有神的人生観乃至世界観こそ、私たちの心を広く開いてくれる物の考え方であるのです。

 コリントの教会ばかりでなく、現代の教会にもしばしば争いが起こります。牧師と長老が争ったり、長老と長老が争ったり、信徒と信徒が争ったりします。その原因は、両方が、あるいはどちらかが、心を狭くしていることにあるのです。けれども、神様がイエス・キリストによって私たちと和解してくださったことに思いを向けるとき、私たちの心は広く開かれるのではないでしょうか。そのとき、私たちは、互いの言葉に耳を傾け、理解し合い、赦し合うことができるのです(コロサイ3:13参照)。

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