和解のために奉仕する教会 2019年3月17日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

聖句のアイコン聖書の言葉

5:16 それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。
5:17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
5:18 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。
5:19 つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。
5:20 ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。
5:21 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。コリントの信徒への手紙二 5章16節~21節

原稿のアイコンメッセージ

序 年間聖句、年間テーマ

 週報の表紙に、今年の年間聖句と年間テーマが記されています。今年の年間聖句は、「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」コリントの信徒への手紙二5章18節です。また、年間テーマは「和解のために奉仕する教会」です。今朝の御言葉に、今年の年間聖句が記されています。また、今朝の説教題は、年間テーマと同じであります。そのようなことを念頭に置きつつ、説教に耳を傾けていただければと思います。

 先程は、コリントの信徒への手紙二5章16節から21節までをお読みしました。前回は、16節、17節を中心にして、お話ししましたので、今朝は、18節から21節を中心にして、お話しいたします。

1 和解のために奉仕する任務

 18節をお読みします。

 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

 「これら」とは、私たちが霊に従ってキリストを知る者とされたこと、また、私たちがキリストに結ばれて新しく創造されたことを指しています。これらはすべて神から出ること、神様がしてくださったことであるのです。では、その神様とは、どのような御方なのでしょうか。それは、キリストを通して私たちを御自分と和解させ、また和解のために奉仕する任務を私たちに授けられた御方であります。キリストを通して私たちを御自分と和解させ、また和解のために奉仕する任務を私たちに授けられた神様がこれらすべてのことをしてくださったのです。つまり、私たちが霊に従ってキリストを知ることができたのも、また、キリストに結ばれて新しく創造されたのも、神様の和解の御業に基づくことであるのです。「和解」とは、分かりやすく言うと、仲直りです。パウロは、「神様は、キリストを通して私たちを御自分と仲直りさせてくださった」と言うのです。このパウロの言葉は、神様と私たち人間が敵対関係にあることを前提としています。旧約聖書の創世記に、神様が力ある御言葉によって、天地万物を六つの日に渡って造られたことが記されています。神様は、第六の日に、人間を御自分のかたちに似せて、御自分との交わりに生きる者として造られました。はじめの人アダムは、エデンの園で、神様との親しい交わりに生きていたのです。では、どうして、人間は神様と敵対してに生きる者となってしまったのでしょうか。それは、はじめの人アダムが、神様の掟に背いて罪を犯したことによってでありました。はじめの人アダムは、神のようになろうとして、罪を犯し、エデンの園から追放されたのです。そのようにして、アダムを源とするすべての人が神様に背く者、神様に敵対して生きる者となってしまったのです。旧約聖書を読むと、人間が神様を礼拝する際に、必ずいけにえが献げられます。人間が神様を礼拝する際に、動物の血が流されるのです。そのことは、神様と人間が敵対関係にあることを教えています。人間は、動物の血を流すことによって、神様に罪を赦していただき、一時的に和解して、神様を礼拝したのです。しかし、神様は、動物の血ではなく、イエス・キリストの血潮によって、私たちと永遠の和解をしてくださいました。そして、和解のために奉仕する任務をパウロたちに、私たち教会に授けられたのです。この地上には、様々な団体がありますが、神様が和解のために奉仕する任務を授けられたのは、キリストの教会に対してだけであります。私たちが、神様から委ねられている働きは、和解のための奉仕であるのです。

2 和解の言葉

 19節をお読みします。

 つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。

 ここには、「和解のための奉仕」が具体的に記されています。とは言っても、このパウロの言葉だけを読んでもよく分からないと思います。パウロの言葉を正しく理解するために、その背景にある、旧約聖書の御言葉を読みたいと思います。それは、イザヤ書の53章の御言葉です。旧約聖書の1149ページ。イザヤ書52章13節から53章12節までをお読みします。

 見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように/彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見/一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。わたしたちの聞いたことを、だれが信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影もなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。

 小見出しに「主の僕の苦難と死」とありますが、ここには、主の僕が復活して栄光を受けることも記されています。11節に「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する」とあります。死んだ者が自らの苦しみの実りを見ることはできませんから、ここでは復活が前提とされています。苦難の死を死んで復活した僕は、52章13節にあるように、「はるかに高く上げられ、崇められる」栄光を受けるのです。私たちは、この主の僕を、イエス・キリストのことであると理解いたします。私たちはここに、イエス・キリストが苦難の死を死なれ、復活され、天へと上げられて栄光を受けることが預言されていると読むのです。そして、それは私たちが霊に従って、この所を読んでいるからです。イエス・キリストを信じていないユダヤ人は、この主の僕を、自分たちイスラエルのことであると読むのです。主の僕が、なぜ、苦しみを受け、死ななければならなかったのか。そのことにも、二つの理解があります。一つは、主の僕が、彼自身の罪のために、神の手にかかり、打たれて苦しんでいるという理解です。このように理解する人は、パウロの言葉で言えば、肉に従ってキリストを知っていると言えます。二つ目は、主の僕が、彼自身の罪のためではなく、私たちの罪のために、神の手にかかり、打たれて苦しんでいるという理解です。このように理解する人は、パウロの言葉で言えば、霊に従ってキリストを知っていると言えます。このように、主の僕の苦難の死について、二つの理解があるのですが、ここで注意したいことは、最初から主の僕の苦しみが、私たちの罪のためであったと理解した人は、誰もいなかったということです。4節に、「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と」とありますように、主の僕が私たちの痛みを負って苦しんでいると理解する人も、最初は、主の僕が彼自身の罪のために、神の手にかかり、打たれて苦しんでいると思っていたのです。分かりやすく言えば、イエス様が、「ユダヤ人の王(メシア)」として、十字架に磔にされたときに、周りで見ていた人の中に、イエス様が、私たちの罪のために苦しんでいると考えた人は、誰もいなかったのです。イエス様から、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と聞いていた弟子たちも、イエス様が、自分たちの罪のために、十字架に磔にされて死のうとしておられるとは考えなかったのです(マルコ10:45参照)。弟子たちが、イエス様の苦難の死の意味を、本当に理解したのは、復活のイエス様に出会い、イエス様から聖霊を与えられた後です。このことは、パウロも同じです。パウロも、復活されたイエス様に出会い、聖霊を与えられて、イエス様の苦難の死が、私たちの罪のためであった。イザヤ書53章に記されている主の僕こそ、イエス様であると悟ることができたのです。そして、イザヤ書53章からイエス様の死の意味を理解することができたのです。5節にこう記されています。「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された」。ここには、「和解」という言葉はありませんが、その意味するところが記されています。主の僕が私たちの咎のために懲らしめを受けたことによって、私たちに平和が与えられたのです。パウロが、「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちに委ねられた」と記すことができたのは、イエス様が、多くの人の罪の責任を担って苦難の死を死んでくださり、復活してくださったからです。もし、イエス様が、御自分の罪のために苦難の死を死なれたのであれば、神様はイエス様を復活させられなかったでしょう。しかし、神様は、イエス様を復活させられ、はるかに高く上げられました。そして、多くの人がイエス様を崇めるようにされたのです。それは、イエス様がイザヤ書53章に記されている、多くの人を正しい者とするために、彼らの罪を自ら負った主の僕であるからです。イエス様は、多くの人の罪を担って、懲らしめとしての苦難の死を死んでくださいました。そして、御自分を信じる者たちが、すべての罪を赦され、正しい者とされることを確証するために、復活してくださったのです。さらには、その和解の言葉を、使徒パウロに、また、私たちに委ねられたのです。和解のために奉仕するとは、和解の言葉を宣べ伝えて行くことであります。そうであれば、和解の言葉が公に語られる礼拝こそ、和解のための奉仕の最たるものと言えるのです。

 今朝の御言葉に戻りましょう。新約の331ページです。

3 キリストの使者の務め

 20節、21節をお読みします。

 ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。

 パウロは、和解の言葉であるイエス・キリストの福音を宣べ伝えておりましたが、それは、神様の思い、御意志によることでありました。パウロは、神様の御心によって、イエス・キリストの使徒とされ、キリストの使者としての務めを果たしているのです。このことは、使徒的な教会である私たちにも言えることです(ニケア信条参照)。私たちの福音宣教は神様の御意志によるものであり、私たちはキリストの使者の務めとして、和解の言葉を宣べ伝えているのです。キリストに代わって、「神と和解させていただきなさい」と願っているのです。罪を知らないイエス・キリストを、神様は私たちのために罪とされました。それは、私たちがキリストによって神の義となるためであったのです。私たちは、神様の懲らしめを恐れる必要はありません。私たちの罪の懲らしめは、イエス・キリストが十字架の死によって受けてくださいました。そのことを信じるだけでよいのです。そのとき、私たちは神様の御前に正しい者とされるのです。神様は、敵であったあなたと和解するために、愛する御子イエス・キリストを十字架の死に引き渡されました。その神様の愛を、どうか無駄にしないでほしい。無駄にしないで、イエス・キリストを信じて、神様と和解してほしい。そのことを、神様は願っておられます。私たちが願っている以上に、神様がそのことを願っておられるのです。その神様の願いがあるからこそ、私たちは和解の言葉を宣べ伝えているのです。キリストを通して、神様と和解させていただいた者たちとして、和解の言葉を宣べ伝えているのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す