天にある永遠の住みか 2019年2月24日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

聖句のアイコン聖書の言葉

5:1 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。
5:2 わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。
5:3 それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。
5:4 この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。
5:5 わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。
5:6 それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。
5:7 目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。
5:8 わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。
5:9 だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。
5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。コリントの信徒への手紙二 5章1節~10節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、コリントの信徒への手紙二5章1節から10節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1 天にある永遠の住みか

 1節から5節までをお読みします。

 わたしたちは地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として霊を与えてくださったのです。

 1節に、「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」とあります。ここでパウロは、たとえを用いて、死と復活について記しています。パウロは、4章14節でこう記していました。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」。主イエスを復活させた神様は、主イエスを信じる私たちをも、主イエスと同じように栄光の体で復活させてくださるのです。そのような信仰を前提にして、今朝の御言葉は記されているのです。「わたしたちの地上の住みかである幕屋」とは、地上に生きている私たちの体のことです。パウロが私たちの体を「幕屋」にたとえているのは、意味のあることだと思います。幕屋(テント)は、壊れやすく、一時的なものです。使徒ペトロは、その第一の手紙で、私たちキリスト者は旅人であり、仮住まいの身であると記しました(一ペトロ2:11参照)。そのような私たちの体そのものを、パウロは幕屋にたとえるのです。また、「神によって備えられている建物」とは、神様によって与えられる復活の体のことであります。パウロは、第一コリント書の15章で、復活について教えています。その42節、43節で、こう記していました。「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです」。私たちの地上の体は朽ちる、卑しい、弱いものですが、復活のときに与えられる天上の体は、朽ちない、輝かしい、力強いものであるのです。そして、これこそ、復活されたイエス・キリストの体であったのです。その復活の体が、今朝の御言葉では、「神によって備えられている建物」、「人の手で造られたものではない天にある永遠の住みか」と言われているのです。

 2節に、「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」とあります。ここでは、住まいのたとえに、衣服のたとえが加えられています。ここで注意したいことは、地上の幕屋を脱ぎ捨てて、裸になって、天から与えられる住みかを着たいとは記していないことです。パウロが切に願っていることは、重ね着をすること。地上の幕屋の上に天から与えられる住みかを着ることです。ここでパウロは、どのようなことを考えているのでしょうか。おそらく、パウロは、自分が生きている間に、栄光のイエス・キリストが再び来られることによって、死を経験しないで、地上の体が天上の体に変えられることを言っているのだと思います。第一コリント書の15章50節から52節で、パウロはこう記しています。新約の322ページです。

 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。私たちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。

 このように、栄光のイエス様が来られるときに、生きている者たちは、死を経験せずに、一瞬のうちに復活の体に変えられるのです。パウロは、そのことを切に願いながら、苦しみに耐えて、福音を宣べ伝えたのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の330ページです。

 3節に、「それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません」とあります。この御言葉は、偽使徒たちの間違った教えを背景にしているようです(二コリント11:4「なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです」参照)。パウロは、「地上の幕屋を脱いでも、わたしたちは裸のままではいない」と記していますが、「裸のまま」とは、肉体を着ない魂だけの状態のことです。コリントはギリシャの都市ですが、ギリシャ哲学において、救いは肉体という牢獄から魂が解き放たれることと考えられていました。そのような考え方が偽使徒たちによって福音として宣べ伝えられていたのかも知れません。しかし、パウロは、「地上の幕屋を脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません」と記すのです。このパウロの言葉は、復活の体を待ち望む魂だけの期間があることを否定するものではありません(ウ小教理問37「信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光に入ります。信者の体は、依然としてキリストに結び付けられたまま、復活まで墓の中で休みます」参照)。ここでパウロが言いたいことは、私たちが魂だけの状態であり続けることはないということです。イエス・キリストの救いは魂の救いだけではなく、体と魂からなるトータルなわたしの救いであるのです(ウ小教理問38「信者は、復活の時、栄光あるものによみがえらせられて、審判の日に、公に受け入れられ無罪と宣告され、永遠に、全く神を喜ぶことにおいて完全に祝福された状態にされます」参照)。

 4節に、「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです」とあります。パウロが、「この幕屋に住む私たちは重荷を負ってうめいている」と記すとき、その重荷は何よりも福音宣教の重荷のことです。パウロが福音宣教の重荷を負ってうめいているのはなぜか?それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。ここでも、パウロの願いは、自分が生きている間に、栄光のイエス・キリストが来られることにより、死を体験せずに、栄光の体に変えられることです。パウロは、自分が福音を宣べ伝えることによって、イエス・キリストの再臨を早めることができると考えていたようです(二ペトロ3:12参照)。そして、それは根拠のないことではありません。なぜなら、イエス様は、「御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」と言われていたからです(マタイ24:14)。栄光のイエス様が天から再び来られるのは、福音が全世界に宣べ伝えられた後であります。それゆえ、パウロは、天から与えられる住みかを上に着たいとうめきつつ、全世界に福音を宣べ伝えたのです。

 5節に、「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として霊を与えてくださったのです」とあります。「このようになる」とは、「天から与えられる住みかを上に着ること」、すなわち、朽ちることのない、栄光の体に変えられることを指しています。そして、それは神様が私たちに恵みとしてしてくださることであるのです。神様は、その保証として、聖霊を与えてくださいました。ここでの聖霊は、主イエスを復活させた神の霊であります。主イエスを復活させた神の霊が、私たちに与えられている。それゆえに、主イエスを信じる私たちも、主イエスと同じように復活させていただけるのです。このことは、第二コリント書の後に、パウロが記したローマ書の8章に記されています。ローマ書の8章11節にこう記されています。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」。「イエスは主である」と信じ、告白する私たちには、神の霊、聖霊が宿っています。そして、聖霊はイエスを復活させた神の霊でもあるのです。その聖霊が私たちをもイエス様と同じ栄光の体で復活させてくださるのです。そのような意味で、聖霊は、私たちが栄光の体で復活することの保証であるのです。

2 ひたすら主に喜ばれる者でありたい

 6節から10節までをお読みします。

 それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。

 私たちには、復活の保証としての聖霊が与えられています。それで、私たちはいつも心強いのです。しかし、パウロは、「体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです」と記します。復活されたイエス・キリストは、弟子たちに、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われました(マタイ28:20)。しかし、それは聖霊において共にいるということであって、イエス様は天におられるわけです。ですから、私たちは、イエス様を目で見ることなく、信仰によって歩んでいるのです。しかし、信仰によって歩むということは、不確かな心もとないことではなくて、心強いことであるのですね。信仰も聖霊の御業ですから、信仰によって歩むことは心強いことであるのです(二コリント4:6参照)。

 8節の後半に、「そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」とあります。これは、これまでとは少し違いますね。パウロが切に願っていたことは、死を経験しないで栄光の体に変えられて、主と共にあることでした。しかし、ここでは、体を離れて、魂の状態で主のもとにいることを望んでいると記すのです。そして、このことは、体を住みかとして、主から離れていることよりも望ましいことなのです。このことを、パウロは、フィリピの信徒への手紙で、はっきりと記しています。新約の362ページ。フィリピの信徒への手紙1章21節から24節までをお読みします。

 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。

 このように、パウロにとって、体を住みかとして、主から離れているよりも、体を離れて魂の状態で主と共にいる方がはるかに望ましいことであるのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の330ページです。

 9節に、「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」とあります。私たちの体である地上の幕屋はいつか滅びますが、それは、神様が定められた時に起こることです。体を離れて、主のもとに住むことが望ましいからといって、自殺するようなことは許されません(列王上19:4参照)。「あなたは殺してはならない」という神様の掟は、私たち自身の命においても当てはまるのです。「体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」。この願いは、「主のもとに住む」という願いと一体的な関係にあります。私たちは、主のもとに住むことを望むゆえに、ひたすら主に喜ばれる者でありたいと願うのです。

 10節に、「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」とあります。このパウロの言葉も、偽使徒たちの間違った教えを背景にしているようです。偽教師たちは、救いとは、肉体という牢獄からの魂の解放であって、肉体の行いは魂の救いに関係ないと教えていたようです。そのような間違いを正すために、パウロは、「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない」と記すのです。ここで、パウロは人間一般の裁きについてではなく、キリスト者の裁きについて教えています。イエス・キリストを信じる者は、神様の御前に正しい者とされます。ですから、私たちは滅びに定められることはありません。しかし、私たちは救われた者たちとして、キリストの裁きの座の前に立つことになるのです。救われた者たちとして、どのように生きたかが問われるのです。そのような者たちとして、私たちは、ひたすら主に喜ばれる歩みをしていきたいと願います。

関連する説教を探す関連する説教を探す