新しい契約に仕える者 2019年1月20日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:1 わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。
3:2 わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。
3:3 あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。
3:4 わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。
3:5 もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。
3:6 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。コリントの信徒への手紙二 3章1節~6節

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 今朝は、コリントの信徒への手紙二の3章1節から6節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1 キリストの手紙

 3章1節から3節までをお読みします。

 わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。

 パウロは、直前の2章17節で、こう記していました。「わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています」。このように記した後で、パウロは、「わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか」と問うのです。おそらく、コリントの信徒たちのある人々が、「パウロは、自分のことを推薦ばかりしている」と非難していたのでしょう。そのような非難を先回りして、そうではないと記しているのです。続けて、パウロは、こう記します。「それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、私たちに必要なのでしょうか」。元の言葉を見ると、この疑問文は否定の答えを期待する疑問文として記されています。パウロは、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状は、私たちには必要ない」と記しているのです。ここでの「ある人々」とは、パウロを非難していた、偽使徒たちのことであります。この偽使徒たちについては、10章から13章までに詳しく記されています。彼らは律法を重んじるユダヤ人キリスト者で、エルサレム教会からの推薦状を持っていたようです。パウロも、その手紙の中で、他の人を推薦する言葉を記しています。例えば、第一コリント書の16章10節で、パウロは、テモテについて、こう記しておりました。「テモテがそちらに着いたら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようお世話ください。わたしと同様彼は主の仕事をしているのです」。また、第二コリント書の8章10節で、テトスに同伴させる兄弟について、次のように記しています。「わたしたちは一人の兄弟を同伴させます。福音のことで至るところの教会で評判の高い人です」。このように、パウロも、手紙の中で、他の人を推薦する言葉を記しているのです。また、パウロが記した推薦状としては、フィレモンへの手紙を挙げることができます。フィレモンへの手紙は、フィレモンのもとから逃亡した奴隷であるオネシモを、奴隷以上の者として、つまり、愛する兄弟として受け入れてほしいという推薦状であるのです。このように、当時、推薦状を持って、教会を訪れるということがあったのです。ある人々はエルサレム教会からの推薦状を持っていましたが、パウロは持っていなかったようです。それで、ある人々は、パウロが使徒であることを疑っていたのですね。また、コリントの信徒たちも、福音宣教者のために、推薦状を書くことがあったようです。ある人々は、コリント教会からの推薦状をも、手にしていたのかも知れません。しかし、パウロは、自分にはそのような推薦状は必要ない。なぜなら、わたしたちの推薦状は、あなたがた自身であるからだ、と記すのです。このパウロの言葉は、第一コリント書の9章1節、2節を背景にして読むとよく分かると思います。パウロは、そこで次のように記していました。「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです」。パウロは、「わたしが使徒であることの推薦状は、わたしの福音宣教によって、イエス・キリストを信じたあなたがた自身だ」と言うのです。そして、それは、パウロの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれているのです。コリントの信徒たちという推薦状が、パウロの心に書かれているとは、どういうことでしょうか。このことを理解する手がかりとなるのは、7章3節の御言葉であると思います。そこにはこう記されています。「あなたがたを、責めるつもりで、こう言っているのではありません。前にも言ったように、あなたがたはわたしたちの心の中にいて、わたしたちと生死を共にしているのです」。コリントの信徒たちという推薦状が、パウロの心に書かれているとは、彼らがいつも心の中にいるということです。また、「すべての人々から知られ、読まれています」とは、コリントに、神の教会があることが、すべての人々に知られているということです。

 パウロは、3節で、「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています」と記しています。このことは、私たちにも当てはまります。私たちは、キリストが福音宣教者を用いてお書きになった手紙として公にされているのです。そして、それは、「墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙」であるのです。当時は、羊皮紙に、墨(インク)で、手紙を書きました。ですから、「墨ではなく生ける神の霊によって、羊皮紙ではなく、人の心の板に、書きつけられた手紙です」と記した方が、対応する言葉としては整っていると思います。しかし、パウロは、「墨」に対応する言葉として、「羊皮紙」ではなく、「石の板」と記しました。それは、律法の基本法とも言える、十戒が石の板に刻まれて、イスラエルの民に与えられたからです。ここで、「人の心の板」とありますが、元の言葉を直訳すると「肉の心の板」となります。この「肉の心」とは、石のような堅い心に対して、肉のようなやわらかな心という意味です。そして、そのような肉の心を与えると、神様は、エゼキエルを通して預言しておられました。エゼキエル書36章25節から27節までをお読みします。旧約の1356ページです。

 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。

 26節後半に、「わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」と記されています。パウロは、この「肉の心」という言葉を用いて、「あなたがたは、生ける神の霊によって、肉の心の板に書きつけられた、キリストの手紙である」と記しているのです。エゼキエルの預言、石の心を取り除き、肉の心を与えるという預言は、キリストにあって、コリントの信徒たちに、また、私たちに実現しているのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の328ページです。

2 新しい契約に仕える者

 4節から6節までをお読みします。

 わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。もちろん、一人で何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。

 4節の「このような確信」とは、「コリント信徒たちは、キリストが自分たちを用いて書かれた手紙である」という確信のことでしょう。このように記すと、ある人々は、パウロが傲慢であると非難するかも知れません。そのような誤解をされないように、パウロは、続けて、「もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません」と記します。「独りで」とは「キリスト抜きで」ということでしょう。パウロは、自分自身に、キリストの福音を宣べ伝える資格がないことをよく知っているのです。では、なぜ、パウロはイエス・キリストの福音を宣べ伝えているのでしょうか。それは、神様がパウロにその資格を与えてくださったからです。

 パウロは、2章16節で、「このような務めにだれがふさわしいでしょうか」と問いましたが、その答えが、3章4節から6節に記されています。ここには、「資格」という言葉が4回記されています(元の言葉では3回)。そして、この「資格」と訳されている言葉は、2章16節で、「ふさわしい者」と訳されていたのと同じ言葉であるのです(イカノス)。ですから、「神から資格を与えられた」とは、「神からふさわしい者とされた」と言うことです。だれがこのような務めにふさわしいか。それは、神様からふさわしいとされた者であると言うのです。神様は、パウロに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。パウロだけではなくて、神様は、私たちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださったのです。「新しい契約」とは、どのような契約を言うのでしょうか。そのことが、エレミヤ書31章に記されています。旧約の1237ページ。エレミヤ書31章31節から34節までをお読みします。

 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない。

 主はエレミヤを通して、「新しい契約を結ぶ日が来る」と預言されました。新しい契約の特徴は、旧い契約と比較するとき、よく分かります。神様は、契約として、守るべき掟、律法を、イスラエルの民に与えられました。律法は、神様の御意志ですから、新しい契約も旧い契約も同じです。違うのは、その与え方であります。旧い契約では、律法は石の板に刻まれて与えられました。しかし、新しい契約では、律法が彼らの胸の中に授けられるのです。先程のエゼキエルの預言で言えば、肉の心の板に記されるのです。それは、ただ暗記するというようなことではありません。神様の掟を守れるようにしてくださるということです。また、旧い契約では、罪の赦しは約束されていませんでした。ですから、旧い契約では、罪を贖ういけにえとして、動物を繰り返し献げねばならなかったのです。しかし、新しい契約では、罪の赦しが約束されています。それは、新しい契約が、世の罪を取り除く神の小羊であるイエス・キリストの血潮によって結ばれるからです。イエス様御自身、最後の晩餐の席において、こう言われました。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(ルカ22:20)。そして、このキリストの御言葉を、パウロは、コリントの信徒たちに既に伝えていたのです。第一コリント書11章には、パウロが主から受けた、主の晩餐の制定の御言葉が記されています。そこで、パウロは、コリントの信徒たちに、キリストの血によって新しい契約が実現したと告げていたのです(一コリント11:25参照)。そのことを思い起こさせるように、パウロは、自分たちは新しい契約に仕える資格を神様から与えられたのだと記すのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の328ページです。

 6節で、パウロは、「新しい契約に仕える資格」を「文字ではなく霊に仕える資格」と言い換えています。ここでの「文字」は旧い契約の象徴である「律法」のことです。また、「霊」とは新しい契約の象徴である「神の霊、聖霊」のことです。新しい契約に仕える資格が、聖霊に仕える資格と言い換えられていることは、新しい契約の主体が聖霊であることを表しています。人は、イエス・キリストを信じて、新しい契約の祝福にあずかるわけですが、その主体は、人の心に信仰を与えられる聖霊であるのです。

 今朝の御言葉の最後に、「文字は殺しますが、霊は生かします」とあります。「律法は殺しますが、聖霊は生かします」と記すのです。これは、どのような意味でしょうか。なぜ、律法は人を殺してしまうのでしょうか。それは、イエス・キリストを除くすべての人が、律法を完全には守ることができないからです。ですから、律法は、罪人である私たちに命ではなく、死をもたらすのですね。けれども、新しい契約において与えられる聖霊は、私たちに罪の赦しと、神様の掟に従う心を与えてくださるのです。それは、新しい契約において与えられる聖霊が、イエス・キリストを通して、私たちに注がれるからです。新しい契約において注がれる聖霊は、父なる神の霊であり、イエス・キリストの霊でもあるからです。私たちは、イエス・キリストの聖霊を与えられて、すべての罪を赦され、神様を父として愛し、神様に従いたいと願う心を与えられたのです。そして、ここに、神様と共に生きる命、永遠の命があるのです(ローマ7:5、6参照)。

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