喜びのための協力者 2018年12月30日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:23 神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。
1:24 わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。
2:1 そこでわたしは、そちらに行くことで再びあなたがたを悲しませるようなことはすまい、と決心しました。
2:2 もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませる人以外のいったいだれが、わたしを喜ばせてくれるでしょう。
2:3 あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。
2:4 わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。コリントの信徒への手紙二 1章23節~2章4節

原稿のアイコンメッセージ

 1章12節からこの手紙の本論が始まるのですが、そこでパウロが記したのは、弁明の言葉であります。コリント教会のある者は、パウロが不誠実であり、パウロの言葉は信用できないと中傷していたのです(中傷とは「根拠のないことを言って、他人の名誉を傷つけること」の意味)。そのような中傷に対して、パウロは、自分たちが、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきたと記しました(12節)。また、自分たちの言葉は、「然り、然り」が「否、否」となるようなものではなく、信頼できる言葉であると記しました(18節)。パウロの言葉を信用できないのであれば、パウロが宣べ伝えたイエス・キリストの福音も信用できないことになり、さらには、コリントの信徒たちに霊を与えてくださった神様を信用できないことになってしまうのです。このように、パウロは、自分たちが誠実な人間であり、自分たちの言葉は信頼できることを記したのですが、そもそも、なぜ、コリント教会のある者は、パウロを不誠実な人間であり、パウロの言葉は信用できないと中傷したのでしょうか。それは、パウロがコリントの訪問を延期していたからです。パウロの旅行計画については、1章15節、16節にこう記されていました。「このような確信に支えられて、わたしはあなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました。そして、そちらを経由してマケドニア州に赴き、マケドニア州から再びそちらに戻って、ユダヤへ送り出してもらおうと考えたのでした」。パウロは、コリントの信徒たちが二度恵みを受けられるように、コリントを経由してマケドニア州に行き、マケドニア州から再びコリントに行く計画を立てました。しかし、パウロは、再びコリントに行くことを延期していたのです。それで、コリント教会のある者は、パウロは不誠実な人間だ、パウロの言葉は信用できないと中傷していたのです。今朝の御言葉には、パウロが再びコリントに行くことを延期している、直接の理由が記されています。

1 喜びのための協力者

 1章23節、24節をお読みします。

 神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。

 パウロはこれまで、とても強い言い方で、自分が誠実であること、自分の言葉が信頼できることを記してきました(12、18節参照)。ここでも、大変強い言い方をして、自分がまだコリントに行かずにいる理由を記しています。「神を証人に立てて、命にかけて誓う」とは、「もし自分が偽りを述べているのであれば、神様に命を奪われてもよい」という大変強い言葉です。そのように言えるほどに、自分は真実を語っていると記すのです。パウロは、一度はコリントを訪問しました。しかし、その訪問は、パウロにとって苦い経験となったようです。そもそも、パウロがコリントに行くことにしたのは、テモテがないがしろにされ、不安な様子でエフェソにいるパウロのもとへ帰って来たからです。コリントの信徒への手紙一の4章を読むと、コリント教会には、パウロが使徒であることを疑い、非難する者たちがいました。そのような者たちに、パウロはキリストに結ばれた自分の生き方を思い起こさせようと、テモテを遣わしたのです(一コリント4:16、17参照)。第一コリント書の16章5節以下に記されているパウロの旅行計画では、マケドニア経由でコリントに行き、ユダヤへ送り出してもらうはずでした。しかし、第二コリント書の1章15節以下の旅行計画では、パウロはコリントを経由してマケドニアに行くと記しています。それは、テモテがないがしろにされて帰って来たことを受けて、パウロがコリントの教会を直接訪れる必要が生じたからです。このことは、パウロが第一コリント書の4章で記していたことでもありました。第一コリント書の4章14節から21節までをお読みします。新約の304ページです。

 こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。わたしがもう一度あなたがたのところへ行くことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです。しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。神の国は言葉ではなく力にあるのですから。あなたがたが望むのはどちらですか。わたしがあなたがたのところへ鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか。

 19節に、「主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう」とあるように、パウロは、自分が遣わしたテモテがないがしろにされて帰って来たことを受けて、コリントの信徒たちのところへ行くことにしたのです。 

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の328ページです。

 パウロの二度目のコリント訪問について詳しいことは分かりませんが、コリント教会のある者は、パウロを公の場で非難したようです。そして、他のコリントの信徒たちもパウロを弁護することなく、どっちつかずの態度を示したようです。おそらくパウロは、その場で弁明することなく、コリントを立ち去ってエフェソに戻ったのではないかと思います。それで、コリント教会のある者たちはますます勢いづいて、パウロが不誠実で信用できない人物であると中傷していたのです。そのようなことを念頭に置いて、パウロは、「神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです」と記すのです。自分のためではなくて、あなたがたへの思いやりからだ、と記すのです。もし、パウロが再びコリントに行くようなことがあれば、パウロはコリントの信徒たちに厳しい態度を取らなければならなくなってしまう。それは、パウロにとって避けたいことであったのです。なぜなら、パウロは、コリントの信徒たちの信仰を支配するつもりはないからです。むしろ、パウロは、コリントの信徒たちの喜びのために協力する者であるからですね(「協力する者」は口語訳では「共に働いている者」)。24節に、「わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく」とありますが、このようなことを、パウロを中傷する者たちは言っていたのでしょうね。「パウロは、自分たちの信仰を支配しようとしている」、そのように、パウロのことを中傷していたのでしょう。そのようなことを念頭において、「私たちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはない。むしろ、あなたがたの喜びのために共に働く者だ」とパウロは言うのです。さらには、「あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです」と記すのです。このように、パウロが記すのは、信仰が神様の御業であるからです。パウロは、21節、22節で、こう記していました。「わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に聖霊を与えてくださいました」。このことは、パウロたちだけではなく、コリントの信徒たちにも当てはまるわけです。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っている。だから、わたしがかつて記した言葉を、自分たちでよく考えてほしいとパウロは言うのです。

 パウロは、「わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく」と言っていますが、信仰を支配するとは、具体的にはどのようなことでしょうか。考えられる一つのことは、教会訓練、いわゆる戒規のことです。パウロは、第一コリント書の5章で、みだらな行いをしている者を教会の交わりから除外するように記しています。そのことが、どうやら背景にあるようなのです。第一コリント書の5章1節から8節までをお読みします。新約の304ページです。

 現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ、悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪なパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。

 ここでパウロは、みだらな者を教会の交わりから除外すべきであると記しています。そのことをパウロは命じておりませんが、主イエスの名と力によって、自分たちとコリント信徒たちが集まって決めた事柄として、その実行を促しています(4節、5節参照)。私たちは、このようなパウロの言葉を読みますと、速やかに、コリントの教会は、みだらな者を除外したのだろうと考えます。しかし、実際はそうではなかったようです。パウロがコリントを訪問したとき、このみだらな者は教会の交わりの中にいたのです。そして、この者が、パウロを中傷する者たちの急先鋒(先頭に立って勢いよく行動したり、主張する人)となっていたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の326ページです。

 コリント信徒たちは、第一コリント書を読んでいたにもかかわらず、みだらな者を教会の交わりから除外しませんでした。そのことは、パウロがイエス・キリストの使徒であることを否定することでもあったのです。パウロが、みだらな者を教会の交わりから除外するようにと記したのは、コリント教会の信仰を支配するためではありません。そうではなくて、コリントの信徒たちの喜びのために共に労する者であるからです。そのことを、信仰に基づいてしっかり立っている者として、よく考えて欲しいとパウロは記すのです。

2 涙の手紙

 2章1節から4節までをお読みします。

 そこでわたしは、そちらに行くことで再びあなたがたを悲しませるようなことはすまい、と決心しました。もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませる人以外のいったいだれが、わたしを喜ばせてくれるでしょう。あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。

 パウロのコリント訪問は、コリントの信徒たちに悲しみをもたらしたようです。それで、パウロは再びコリントの信徒たちを悲しませることはすまいと決心して、エフェソに留まっていたのです。しかし、パウロは何もせずにいたのではありません。パウロは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書き送ったのです。それは、コリントの信徒たちを悲しませるためではなく、パウロが抱いている溢れるほどの愛を、コリントの信徒たちに知ってもうらためであったのです。

 この涙の手紙は、失われてしまって読むことができません。しかし、2節、3節の御言葉からその内容を推測することができます。2節に、「もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませる人以外のいったいだれが、わたしを喜ばせてくれるでしょう」とあります。「わたしが悲しませる人」とは誰のことでしょうか。それは、パウロから、教会の交わりから除外するように言われた当人のことです。つまり、みだらな行いをし、パウロを中傷していた人です。パウロは、みだらな行いをしている者を、教会の交わりから除外するようにと記しました。しかし、それは「主の日に彼の霊が救われるため」であったのです(一コリント5:5参照)。パウロは、教会の交わりから除外された人が、悔い改めて、教会の交わりに復帰することを願っているのです。「わたしが悲しませる人以外のいったいだれが、わたしを喜ばしてくれるでしょう」とはそういう意味です。

 また、3節に、「あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです」とあります。「喜ばせてもらえるはずの人たち」とは、コリントの信徒たちのことです。パウロは、コリントの信徒たちが、みだらな者を教会の交わりから除外することによって、喜ばせてもらえると期待していました。そのようにして、パウロを、イエス・キリストの使徒として重んじてくれるはずだと期待していたのです。しかし、実際は、コリントの信徒たちは、みだらな者をそのままにしていたわけです。そのようなコリントの信徒たちに、今度、訪問するときは、そのようなことがないように、パウロは涙ながらに手紙を書いたのです。そして、それはパウロだけではなくて、コリントの信徒たちのすべての喜びのためなのですね。私たちの教会において、教会訓練の権能は、牧師と長老たちの会議である小会に与えられています(『政治規準』第76条(小会の議会権能の任務)4項「訓練規定に従って戒規を執行すること」参照)。教会員を教会の交わりから除外することは、牧師と長老たちにとっても、他の教会員にとっても、大きな悲しみです。しかし、その教会員が悔い改めて、教会の交わりに復帰するならば、牧師と長老たちにとっても、教会員にとっても大きな喜びとなるのです。その大きな喜びのために、パウロは、悩みと愁いの心で涙ながらに手紙を書いたのです。

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