永遠の契約の血による大牧者 2018年10月21日(日曜 朝の礼拝)

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永遠の契約の血による大牧者

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 13章20節~25節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:20 永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、
13:21 御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。
13:22 兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください、実際、わたしは手短に書いたのですから。
13:23 わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。もし彼が早く来れば、一緒にわたしはあなたがたに会えるでしょう。
13:24 あなたがたのすべての指導者たち、またすべての聖なる者たちによろしく。イタリア出身の人たちが、あなたがたによろしくと言っています。
13:25 恵みがあなたがた一同と共にあるように。
ヘブライ人への手紙 13章20節~25節

原稿のアイコンメッセージ

 今年、2018年の1月7日から、ヘブライ人への手紙を読み続けてきました。今朝は、その最後の説教となります。

 

1 勧めの言葉

 今朝の御言葉は、祝福の言葉(20~21節)と、手紙の結びの言葉(22~25節)との大きく二つからなっています。今朝は、手紙の結びの言葉から見ていきたいと思います。

 22節から25節までをお読みします。

 兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください、実際、わたしは手短に書いたのですから。わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。もし彼が早く来れば、一緒にわたしはあなたがたに会えるでしょう。

 あなたがたのすべての指導者たち、またすべての聖なる者たちによろしく。イタリア出身の人たちが、あなたがたによろしくと言っています。恵みがあなたがた一同と共にあるように。

 22節に、「兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください」とあります。ここで「勧め」と訳されている元の言葉(パラクレセオース)は、「説教」とも訳すことができます(使徒13:35参照)。ヘブライ人への手紙は、礼拝で朗読されるために記された説教であるのです。ヘブライ人への手紙の著者は、宛先である教会の兄弟姉妹に、自分が書き記した手紙を、説教として、すなわち神の言葉として受け入れてほしいと記しているのです(一テサロニケ2:13参照)。

 「実際、わたしは手短に書いたのですから」とあります。実際、ヘブライ人への手紙を声に出して朗読しても、一時間ほどです。そのぐらいの文量であるならば、当時としては短い説教であったのかも知れません。また、「手短に」という言葉は、「簡潔に」とも訳すことができます。ヘブライ人への手紙は、話が広がっていかないように、簡潔に書くことを心がけました。例えば、9章5節で、こう記していました。「また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。こういうことについては、今はいちいち語ることはできません」。また、11章32節で、こう記していました。「これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう」。このように、ヘブライ人への手紙の著者は、この説教を簡潔に記してきたのです。そのような短い、簡潔な説教を、私たちは10ヶ月に渡って、学んできたわけです。

 23節の「兄弟テモテ」は、使徒パウロと共に働いたテモテであるようです。テモテは投獄されていましたが、釈放されたようです。ヘブライ人への手紙の著者は、宛先の教会の指導者の一人であり、今は、他の地におりました。彼は何らかの理由があって、教会に戻ることができず、この手紙を書き記したわけです。その彼が、テモテと一緒に帰ることができるかも知れないと告げるのです。ヘブライ人への手紙の著者が、パウロの弟子であるテモテと知り合いであったことは、ヘブライ人への手紙の著者がパウロの教えを知っていたことを示しています。ヘブライ人への手紙の教えが、パウロの教えに似ているのは、そのためであったのかも知れません。

 24節は、挨拶の言葉です。ヘブライ人への手紙の著者は、すべての指導者たちと、すべての教会員に挨拶を記します。それだけではなく、イタリア出身の人たちからの挨拶をも記します。ここから、ヘブライ人への手紙が記されたは、ローマではないかと推測されるのですね。しかし、これだけでは、執筆場所を確定することはできません。と言いますのも、手紙の宛先の教会がローマにあって、著者がいる所に、イタリア出身の人がいたとも考えられるからです。

 25節の「恵み」は、イエス・キリストを通して与えられる神の恵みのことです。「恵みがあなたがた一同と共にあるように」という言葉をもって、この手紙は閉じられます。しかし、今朝は、この御言葉ではなく、20節、21節に記されている祝福の言葉をもって、説教を閉じたいと思います。

2 永遠の契約の血による羊の大牧者

 20節、21節をお読みします。

 永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによって、わたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。

 ここでは、「神」が「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神」と言われています。さらに見ていくと、「わたしたちの主イエス」が「永遠の契約の血による羊の大牧者」と言われています。さらにさらに見ていくと、「わたしたち」が「永遠の契約の血による羊」と言われています。ここからお話したいと思います。

 私たちは、「永遠の契約の血による羊たち」である。このことは何を意味しているのでしょうか。「永遠の契約」とは、預言者エレミヤを通して、約束しておられた「新しい契約」のことです(エレミヤ32:40参照)。ヘブライ人への手紙は、8章で、エレミヤ書の31章の御言葉を長々と引用して、新しい契約が、イエス・キリストにおいて実現したと記しました。また、ヘブライ人への手紙は9章で、新しい契約が、イエス・キリストの血によって結ばれたと記しました。私たちは、十字架と復活の主イエス・キリストを信じて、新しい契約の祝福にあずかっている者たちですが、それは言い換えれば、「永遠の契約の血による羊とされた者たち」であるのです。ここでの羊は、イエス・キリストを信じる私たちのことです。詩編23編に、「主は、わたしの羊飼い」とありますように、私たちは主イエスの羊であるのです。ヨハネによる福音書の10章で、主イエスはこう言われています。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。私たちの大牧者こそ、主イエス・キリストであるのです。

 ここで「大牧者」と言われているのは、教会員の魂に責任を負っている指導者たちを踏まえてのことです。指導者たち、牧師たちは、いわば「小牧者」と言えるのです。彼らは大牧者であるイエス様から、羊の群れの世話を託された者たちであるのです。そのことが、ヨハネによる福音書の21章15節以下に記されています。新約の211ページ。ヨハネによる福音書21章15節から17節までをお読みします。

 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい」。

 ここで、イエス様は、ペトロに三度、「わたしを愛しているか」と問われました。かつてペトロが、三度、イエス様との関係を否定したことを覆うように、イエス様は、ペトロに三度、「わたしを愛しているか」と問われたのです。このようなイエス様の問いに、ペトロは、「わたしが、あなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。これは、かつてのペトロでは考えられない、謙虚な答え方ですね。かつてのペトロは、「わたしは他の誰よりもあなたを愛しています。あなたのためなら捕らえられても、死んでもよいと思っています」と語る者でした。しかし、ペトロは、イエス様との関係を三度否定した者として、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えたのです。そのペトロに、イエス様は、三度、「わたしの羊の世話をしなさい」と命じられました。このことは、ペトロのイエス様への愛が、イエス様の羊の世話をするという仕方で表されることを教えています。牧師は、イエス様を愛する者でなくてはならない。そのイエス様に対する愛から、イエス様の羊を愛する者でなくてはならないのです。

 このようにイエス様から、羊の世話を託されたペトロが、その第一の手紙の中で、次のように記しています。新約の434ページです。ペトロの手紙一5章1節から4節までをお読みします。

 さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。

 ここで、ペトロは、長老たちに、「神の羊の群れを牧しなさい」と命じています。牧会をするのは、牧師だけではなくて、長老たちであるのです。4節で、ペトロは、イエス様のことを「大牧者」と言っています。イエス様から、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた者として、イエス様のことを「大牧者」と呼んでいるのです。

 では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の419ページです。

 「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエス」については、お話しましたので、次に、「主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神」について、お話したいと思います。実は、ヘブライ人への手紙の中で、イエス・キリストの復活について、はっきりと語っているのは、ここだけです。ヘブライ人への手紙は、その冒頭から、イエス・キリストの贖いと昇天と着座について記しました。1章3節には、こう記されていました。「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」。このように、贖いと昇天と着座については書いてあるのですが、復活については書いてないのです。復活は、昇天の前提として、言及されていないのです。あるいは、復活は昇天の中に含まれているのかも知れません。ヘブライ人への手紙は、イエス・キリストが永遠の大祭司であることを教えてきましたが、その教えも復活を前提にしています。その前提であるイエス・キリストの復活が、「主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神」という言葉で、言い表されているのです。それで、今朝は、神様が主イエスを、死者の中から復活させられたことの意味を、ヘブライ人への手紙の教えに則して、考えてみたいと思います。ヘブライ人への手紙において、イエス・キリストの十字架の死は、汚れた者を聖なる者とする贖いの死でした。イエス様は、ただ一度、御自分の体を献げられたことにより、私たちを聖なる者としてくださいました。そして、そのように断言できる根拠が、神様がイエス様を栄光の体で復活させられたことにあるわけです。神様は、イエス様を復活させることによって、罪と不法の赦しを宣言されたのです。また、イエス様を復活させることによって、イエス様をメルキゼデクと同じような永遠の大祭司とされたのです。復活されたイエス様は、「常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできにな」るのです(7:25参照)。復活させられ、常に生きておられるイエス様によって、結ばれた契約だからこそ、「新しい契約」は「永遠の契約」と言えるのです。また、何よりも、神様は、主イエスを復活させられることによって、御自分が平和の神であることを示されました。神様は、御子イエスを、私たちの永遠の大祭司として復活させ、永遠の契約を結んでくださいました。それは神様が「平和の神」であるからです。私たちが、永遠の大祭司イエス・キリストを通して近づく神様は、私たちとの間に平和を打ち立ててくださった平和の神であるのです。

3 御心を行うために

 このような平和の神に、ヘブライ人への手紙は、何を願うのでしょうか。「平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように」。この願いの背後には、私たちが神様の御心を行うためには、神様に私たちの内に働いていただく必要があるという考え方があります(フィリピ2:12、13参照)。「御心に適うこと」とありますが、元の言葉ですと、「彼の前に喜ばれること」と記されています。また、「わたしたちにしてくださり」は、元の言葉ですと、「わたしたちの内に行ってくださり」となります。「神様が御自分の前に喜ばれることを、イエス・キリストによって、私たちの内に行ってくださるように」と記されているのです。神様が御自分の前に喜ばれることを、イエス・キリストによって、私たちの内に行ってくださる。このことが先ずあって、私たちが神様の御意志を行おうと意志することができるわけです。神様の御心を自分の心とすることができるわけです。しかし、神様の御心を行うためには、神様の助けが必要であります。ですから、ヘブライ人への手紙は、続けて、「すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように」と願うのです。「すべての良いもの」とは、神様の御心を行うために必要な聖霊の賜物のことです(2:4参照)。パウロは、ガラテヤの信徒への手紙で、「聖霊の結び実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と記しています(ガラテヤ5:22)。しかし、ヘブライ人への手紙において、良いものの代表は、忍耐強い信仰であります。私たちが御心を行うために、神様から忍耐強い信仰をいただかなくてならないのです。

 ヘブライ人への手紙は、最後に、キリストに栄光を帰して終わります。「栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン」。神様が死者の中から導き出された大祭司イエス・キリストをほめたたえることこそ、神様が私たちの内にしてくださった御心に適うことであり、私たちが行うべき御心であります。私たちは神様から与えられる忍耐強い信仰をもって、私たちの主イエス・キリストの御名を、生涯、ほめたたえていきたいと願います。

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