主はわたしの助け手 2018年9月23日(日曜 朝の礼拝)

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主はわたしの助け手

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 13章4節~6節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:4 結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。
13:5 金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。
13:6 だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」ヘブライ人への手紙 13章4節~6節

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序 

 先程は、ヘブライ人への手紙の13章1節から6節までを読んでいただきました。前回は、1節から3節までを学びましたので、今朝は4節から6節までを御一緒に学びたいと思います。

1 夫婦の関係を汚してはならない

 4節をお読みします。

 結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係を汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。

 ヘブライ人への手紙は、「結婚はすべての人に尊ばれるべきである」と記します。当時の社会(紀元1世紀のローマ・ギリシャ世界)において、結婚を軽んじる風潮があったのかも知れません。しかし、聖書は、「結婚はすべての人に尊ばれるべきである」と教えているのです。ここでの「すべての人」とは、既婚者か独身者かに関わらず、あるいは、自由な身分の者か奴隷の身分の者であるかに関わらず、文字通りの「すべての人」のことです。なぜ、結婚はすべての人に尊ばれるべきであるのか。それは、結婚が神様によって定められた制度であるからです。創世記2章を開いて読んでみたいと思います。旧約の3ページです。創世記2章18節から24節までをお読みします。

 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶかを見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。

 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イッシュ)から取られたものだから。」

 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

 このようにして、神様は、結婚という制度を定められたのです。1章27節に、神様はご自分にかたどって人を造られたこと、男と女に造られたことが記されています。そして、1章28節で、神様は男と女を祝福してこう言われたのです。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」。神様の「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という祝福は、二人は一体となるという結婚関係において実現していくのです。新しい命が愛し合う夫婦の交わりによって、愛し合う夫婦の交わりの中へと生まれてくること。これが神様の祝福であるのです。

 次に、イエス様が結婚について教えているところを開いて読んでみたいと思います。新約36ページです。マタイによる福音書19章3節から6節までをお読みします。

 ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

 ここで、イエス様は、創世記2章を背景にして、結婚について教えています。二人は一体となるという結婚関係は、神様が結び合わせてくださったものであるのです。実際、結婚は神様を証人として結ぶ契約であるのです(マラキ2:14参照)キリスト教会で行われる結婚式において、新郎と新婦は、互いを伴侶とすることを神様に誓うわけです。

 では、キリスト教会で結婚式を挙げなかった夫婦、あるいは、伴侶が未信者である夫婦は、神様が結び合わせてくださったのではないのでしょうか。そんなことはありません。コリントの信徒への手紙一7章を開いて読みたいと思います。新約の307ページ。コリントの信徒への手紙一7章13節、14節をお読みします。

 また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。

 ここでパウロは、妻だけがキリスト者である場合、あるいは夫だけがキリスト者である場合の結婚関係について教えています。どうやら、コリントの信徒たちから「伴侶が未信者である場合、離縁すべきでしょうか」という質問があったようですね。それに対して、パウロは伴侶が未信者であっても離縁してはいけないと記します。なぜなら、その未信者である伴侶は、信者であるあなたのゆえに聖なる者とされているからだと言うのです。ここでの「聖なる者」とは、「神様があなたの伴侶として備えてくださった者」ということです。キリスト教会で結婚式を挙げなくても、また、伴侶が未信者であっても、その人は、神様が結び合わせてくださった人生のパートナーであるのです。未信者の伴侶との間に生まれた子供が神様からの授かりものであるならば、未信者の伴侶も神様からの授かりもの、神様があなたの備えてくださった人生のパートナーであるのです。

 では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の418ページです。

 4節に、「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係を汚してはなりません」とあります。ここで「夫婦の関係」と訳されている言葉を直訳すると「寝床」となります。「夫婦の寝床を汚してはならない」。この御言葉は、「夫婦の寝床は聖なるものである」ことを前提としています。夫婦の寝床が聖なるものであるのは、夫婦を結びつけてくださったのが神様であるからです。「夫婦の寝床」は「二人は一体となる」という結婚関係の頂点、冠であるのです。

 その夫婦の寝床を汚す罪が、みだらな行いと姦淫であるのです。ですから、ヘブライ人への手紙は続けてこう記します。「神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです」。

 ここでの「みだらな者」とは、伴侶がおりながら、他の異性と関係を持つ者のことです。コリントの信徒への手紙一6章に、教会の中に娼婦と交わる者がいたと記されています。伴侶がおりながら、他の異性と関係を持つならば、それは夫婦の関係を汚す罪であるのです。

 また、姦淫する者とは、他の人の伴侶と男女の関係を持つ者のことです。いわゆる不倫ですね。姦淫は、離縁の正当な理由となります。姦淫は他人の結婚関係を汚すだけでなく、破壊してしまう罪であるのです。

 もし、そのような罪を犯している人、あるいは犯してしまった人がいるならば、悔い改めて、罪を告白し、赦しを乞うべきです。そのとき、イエス様は、「わたしはあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もうその罪を犯してはならない」と言われるのです(ヨハネ8:11参照)。

2 金銭に執着しない生活

 5節、6節をお読みします。

 金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」

 ヘブライ人への手紙は、「金銭に執着しない生活をしなさい」と勧めています。「執着」とは「心を強くひかれ、それにとらわれること」です(『広辞苑』)。「金銭に執着しない生活をしなさい」と勧めているのは、私たちが金銭に執着して生活しやすいからです。また、ヘブライ人への手紙は、「今持っているもので満足しなさい」とも勧めています。これも私たちが、今持っているもので満足できないからです。なぜ、私たちは、金銭に執着してしまうのでしょうか。また、今持っているもので満足できないのでしょうか。それは、私たちが神様が共におられることを忘れてしまうからです。そのことを思い出させるように、ヘブライ人への手紙は、「神御自身、『わたしは、決してあなたから離れず、決して置き去りにはしない」と記すのです。ヘブライ人への手紙は、神様が「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われているのだから、金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさいと記すのです。「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにしない」。この神様の御言葉は、旧約聖書からの引用であります。どこからの引用かをご一緒に確認したいと思います。旧約の330ページです。申命記の31章を開いていただきたいと思います。申命記の31章6節をお読みします。

 強く雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。

 また、8節にもこのように記されています。

 主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。

 6節は、これからカナンの地に入ろうとしているイスラエルの民に対して語られた御言葉です。そして、8節は、モーセが自分に代わって指導者となるヨシュアに対して語った御言葉であります。そのような御言葉を、ヘブライ人への手紙は引用して、神様御自身が、「わたしは決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにしない」と言われている。だから、金銭に執着しない生活をしなさい。今持っているもの、今神様から与えられているもので満足しなさい、と言うのです。これは、少し大げさなように思えるのではないでしょうか。しかし、そうではないのです。今朝の御言葉の少し先の、13章12節から14節にこう記されています。新約の419ページ。ヘブライ人への手紙13章12節から14節をお読みします。

 それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありません。わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来たるべき都を探し求めているのです。

 ヘブライ人への手紙は、「イエスを辱めを担って、宿営の外に出て、みもとに赴こう」と記しています。宿営というのは、言わば「安全地帯」です。神殿祭儀に連なるユダヤ人の会堂に留まる限り、彼らはユダヤ人からもローマ帝国からも迫害されることはありませんでした。しかし、ヘブライ人への手紙は、イエスの辱めを担って、宿営の外に出て、御もとに赴こうというのです。このことを踏まえて、ヘブライ人への手紙は「神御自身、『わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにしない」と言われました」と記すのです。考えて見ますと、ヘブライ人への手紙の読者たちは、捕らえられた人たちと苦しみを共にし、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだ人たちでありました(10:34参照)。しかし、その彼らが、今朝の御言葉では、「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい」と勧告されているわけです。彼らはイエス様の辱めを担うことに疲れて、宿営に戻っていた。動物犠牲に象徴される旧い契約の営みに戻っていたわけです。ですから、ヘブライ人への手紙は、申命記の御言葉を、これから約束の地へと入るイスラエルの民に語られた主の御言葉を引用するのです。「主は決してあなたから離れない。主は決してあなたを見捨てることはない。主はいつもあなたと共にいてくださる」。この主の御言葉は、新しい契約の仲介者であるイエス・キリストにおいて、私たちに実現したものですね。マタイによる福音書の終わりで、復活されたイエス・キリストは弟子たちにこう言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:18~20)。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。そのように言われて、イエス様は、弟子たちを世界宣教へと遣わされるのです。イエス・キリストにおいて、神が私たちと共にいてくださる。「神、我らと共にいます」というインマヌエルの祝福は、イエス・キリストにおいて実現しているのです。ですから、イエス・キリストを信じる私たちこそが、「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう」と確信をもって言うことができるのです。

3 主はわたしの助け手

 「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう」。この御言葉も旧約聖書からの引用であります。このところも開いてみたいと思います。旧約の957ページ。詩編118編の6節です。

 主はわたしの見方。わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう。

 この詩編の御言葉を引用して、ヘブライ人への手紙は、私たちは確信をもって、「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう」と語ることができると言うのです。主イエス・キリストにあって、神がいつも共にいてくださる。そのような祝福に生きている私たちこそ、「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう」と大胆に語ることができるのです。金銭によって命を確保しようとするのではなく、物質によって満足を得ようとするのでもなく、いつも共にいてくださる神様を助け手として、恐れないで歩んで行くことができるのです。

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