イエスを見つめながら 2018年8月19日(日曜 朝の礼拝)

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イエスを見つめながら

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 12章1節~3節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:1 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、
12:2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。
12:3 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。ヘブライ人への手紙 12章1節~3節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝から、ヘブライ人への手紙の12章に入ります。今朝は、1節から3節より御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

1 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら

 1節から2節前半までをお読みします。

 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷やからみつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスを見つめながら。

 「こういうわけで」とありますように、今朝の御言葉は、前の11章の続きであります。ヘブライ人への手紙は、11章で、信仰のゆえに神に認められた昔の人たちの名前を記しておりました。その人たちのことを念頭に置いて、私たちは「おびただしい証人の群れに囲まれている」と記すのです。信仰のゆえに神に認められた昔の人たちが、ここでは「証人」と呼ばれています。彼らは、何の証人、証し人なのでしょうか。それは、神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要であることの証人であります(10:36参照)。また、「神様の正しい者は信仰によって生きる」ということの証人であります。私たちは、旧約聖書を開いて読めば、そのおびただしい証人たちの証言を聞くことができるのです。ここで、ヘブライ人への手紙は、昔の人たちも、イエス・キリストを信じて歩んだキリスト者であったことを教えています。なぜなら、昔の人たちに与えられた神様の約束は、イエス・キリストを指し示すものであったからです。2節に、「信仰の創始者また完成者であるイエス」とありますが、その「信仰」は、11章に名前が記されていた昔の人たちの信仰でもあります。イエス様は、昔の人たちの信仰の創始者であり、完成者であるのです。一つだけ具体例を挙げたいと思います。11章に名前が挙げられていたアブラハムは、神様から召し出されたとき、次のような約束を与えられました。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」。「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」(創世12:1~3)。この約束がアブラハムとサラとの間に産まれたイサクへと受け継がれ、さらには、ヤコブへと受け継がれたわけです。そして、この地上の氏族を祝福に入れるアブラハムの子孫こそが、イエス・キリストであるわけです。ですから、イエス様は、ヨハネによる福音書の8章56節で、ユダヤ人たちにこう言われたのです。「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」。神様がアブラハムに約束された子孫がおびただしく増え広がるという約束も、また、その子孫にカナンの土地を与えるという約束も、イエス・キリストにおいて完全に実現することになるのです。アブラハムと同じ信仰に生きるおびただしい数の人たちに、新しい天と新しい地が与えられるという仕方で、神様の約束は完全に実現するのです。その約束の実現を待ち望みながら、雲のように多くの証人たちが、私たちを取り囲んでいる。そうである以上、私たちも、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こう、とヘブライ人への手紙は記すのです。ここで、ヘブライ人への手紙は、信仰生活を長距離走に譬えています。長距離走を走るために必要なことは、重荷となるものを投げ捨てて身軽になることです。また、走りやすい服装に着替えることです。それと同じように、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てる」ことが、私たちにも求められています。この「すべての重荷」について、カルヴァンは、「現世への愛、この世の楽しみ、肉の欲、地上のわずらい、富や名誉」を挙げています。しかし、カルヴァンは、ただこれらのものを捨てろと言うのではなく、私たちの歩みを妨げているならば、捨てなければならない、と言うのです。これが重荷だというものがあるのではなく、私たちの信仰の歩みを妨げているものが重荷であるのです。その重荷を私たちは投げ捨てなくてはならないのです。また、「絡みつく罪」とありますが、これは足に絡みつく裾の長い服になぞらえたものです。私たちには内在する罪の問題があります。私たちは肉の欲望に負けて、しばしば罪を犯してしまうのです。その絡みつくような罪をも捨てなければならない。イエス様が、姦通の現場で捕らえられた女に、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われたように、その罪を犯さないようにしなければならないのです(ヨハネ8:11)。それが絡みつく罪を捨てるということです。私たちは捨てては拾って、また捨てるようなことの繰り返しかも知れません。しかし、信仰生活という長距離走を走り抜くためには、絡みつく罪を捨てることが必要であるのです。

 「自分に定められている競争」とありますが、元の言葉は、「自分の前に置かれている競争」と記されています。2節の中程に、「このイエスは、御自身の前にある喜び」とありますが、これとまったく同じ言葉が、ここで用いられています。「自分の前に置かれている競争」それは、神様によって置かれたものですから、「自分に定められている競争」と訳されているわけです。私たちの信仰生活は、神様によって私たち一人一人の前に置かれた、神様に定められたものである。こう考えて来ますと、どうも、私たちの信仰生活という長距離走は必ずしも同じコースではないようですね。私たち一人一人の生き方がそれぞれ違うように、私たち一人一人の信仰生活も違うようです。その自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうとヘブライ人への手紙は記すのです。この手紙の読者たちは、信仰生活という長距離走の良いスタートを切りました。彼らは、「自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです」(10:34)。しかし、彼らは信仰生活に疲れて、集会を怠り、イエス・キリストへの信仰さえ捨ててしまおうとしていたわけです。そのような者たちに、ヘブライ人への手紙は、自分もその長距離走を走る者として、忍耐強く走り抜こうと言うのです。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら、忍耐強く走り抜こうと言うのです。私たちが自分に定められている競争を走り抜く秘訣は、どうやらここにあるようです。信仰の創始者また完成者であるイエスから目を離さないならば、私たちは自分に定められた競争を忍耐強く走り抜くことができるのです(二テモテ4:7、8参照)。

 先程、私は、イエス様が始められ、完成された信仰を、11章の昔の人たちの信仰によってお話しました。しかし、もっと私たちに引き寄せて、新しい契約に生かされている私たちの信仰のことを考えると分かりやすいと思います。イエス様が、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と言われたように(ヨハネ6:29)、また、使徒パウロが、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」と記しているように(一コリント12:3)、私たちのイエス様への信仰は、イエス様が私たちの内に始めてくださった神の御業であるのです。そして、私たちの信仰を完成してくださるのも、やがて来られるイエス様であるのです。ここで、「創始者」と訳されている言葉(アルケーゴス)は、「導き手」とも訳されます(使徒3:15「命への導き手」参照)。イエス様は、私たちのうちに信仰を始められただけではなく、その信仰の歩みを導いてくださるお方であるということです。この信仰の創始者(導き手)であり、完成者であるイエス様に目を注ぎ続けるために、私たちは、主の日の朝ごとに、礼拝に集っているのです。私たちが、主の日ごとに礼拝をささげているのは、信仰の創始者であり完成者であるイエス様を見つめて、自分に定められている信仰生活を忍耐強く走り抜くためであるのです。

2 気力を失い疲れ果ててしまわないために

 2節後半から3節までをお読みします。

 このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

 「このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て」とありますが、ここで「捨て」と訳されている言葉(アンティ)は、「ゆえに」とも訳すことができます。口語訳聖書、新改訳聖書では、「喜びのゆえに」と翻訳されています。ですから、私も「喜びのゆえに」という解釈を取りたいと思います。イエス様は、御自身の前にある喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍ばれたのです。では、「御自身の前にある喜び」とは、何でしょうか。それは、御自分の死によって、多くの子らを栄光へと導く喜びであります(2:10参照)。御自分をいけにえとしてささげ、父なる神の右に座する大祭司として、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言える喜びです(2:13参照)。その喜びのゆえに、イエス様は、自分が恥ずかしい思いをされることを軽く見て、十字架の死を耐え忍ばれたのです。そのようにイエス様は信仰において完全な者となられたのです(2:10参照)。ヘブライ人への手紙は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することです」と記しましたけれども、イエス様は、この信仰において完全な者となられたのです。それゆえ、神様は、イエス様を死から三日目に復活させられ、御自分の右にあげられたのです。イエス様が、信じておられたとおり、とこしえの祭司、メルキゼデク(わたしの正しい王)とされたのです。

 ヘブライ人への手紙は、イエス様のことを、「御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方」と言い換えています。イエス様が耐え忍ばれた十字架の死は、メシアであるイエス様に対する罪人たちの反抗であったのです。イエス様は、すべての人からあざけられて、苦しく、恥ずかしい、呪いの死を死なれました。しかし、イエス様はその罪人たちの反抗を忍耐なされた。それは、その罪人たちが救われるためであったのです。その罪人たちが、悔い改めて、御自分を信じて、洗礼を受け、命を得るためであったのです。この罪人の中に、ヘブライ人への手紙の読者も、そして、私たちも含まれているのです。そのイエス様のことを、よく考えなさい。そのイエス様の信仰の歩みと、あなたがたの信仰の歩みを比較して、よく考えてみなさい。そうすれば、あなたがたが気力を失い、疲れ果ててしまうことはないはずだ、とヘブライ人への手紙は語るのです。なぜなら、イエス様は苦難を通して、栄光へと入られたからです。十字架の死を耐え忍ばれたお方は、今や、神の玉座の右に座っておられるのです。

3 私たちにとっての喜び

 イエス様は、御自分に反抗する私たちを救う喜びのゆえに、十字架の死を耐え忍ばれました。それでは、私たちにとっての喜びとは何でしょうか。私たちが信仰生活という長距離走を忍耐して走り抜くことができる喜びとは何でしょうか。それは、おびただしい数の主にある兄弟姉妹と共に、新しい天と新しい地で、神様とイエス・キリストを礼拝することができるということです。その私たちの前に置かれている喜びを確認して、今朝は、終わりたいと思います。新約の461ページです。ヨハネの黙示録7章9節から17節までをお読みします。

 この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。」すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」

 ここに、イエス・キリストを信じる私たちの前に置かれている喜びがあります。その喜びを、私たちは信仰によって、この地上の礼拝で喜ぶことができるのです。その喜びにあずかりながら、信仰生活という長距離走を忍耐して走り抜きたいと願います。

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