モーセの信仰 2018年8月05日(日曜 朝の礼拝)

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モーセの信仰

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 11章23節~31節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:23 信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。
11:24 信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、
11:25 はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、
11:26 キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。
11:27 信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。
11:28 信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。
11:29 信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。
11:30 信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。
11:31 信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。ヘブライ人への手紙 11章23節~31節

原稿のアイコンメッセージ

 ヘブライ人への手紙の11章には、信仰のゆえに神に認められた昔の人たちの名前が記されています。今朝は、モーセの信仰とイスラエルの人々の信仰とラハブの信仰についてご一緒に学びたいと思います。

1 モーセの信仰

 23節から28節までをお読みします。

 信仰によって、モーセは生まれてから三ヶ月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。信仰によってモーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。

 「信仰によって、モーセは生まれてから三ヶ月間、両親によって隠されました」とありますが、この「信仰」は、モーセというよりも、その両親の信仰であります。エジプトの王、ファラオは、「ヘブライ人の生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め」と全国民に命じておりました。しかし、両親は、産まれた男の子の美しさを見て、王の命令を恐れることなく、信仰によって、三ヶ月間、隠しておいたのです。この信仰とは、11章1節にありますように、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する信仰」のことであります。では、モーセの両親は、産まれた男の子を見て、どのようなことを確信し、また確認したのでしょうか?それは、この男の子が神様から特別な使命を与えられているということです。両親は、産まれてきた男の子が、神様から特別な使命を与えられた子であると信じて、王の命令を恐れず、三ヶ月間隠しておいたのです。

 神様のくすしき導きにより、モーセはファラオの王女の養子となりました。しかし、モーセは自分がヘブライ人であることを忘れたことはなかったようです。モーセは自分の実の母を、乳母(うば)として育ちました。当時は、3歳まで母乳で育てたといいますから、モーセは3歳までヘブライ人である両親のもとで育てられたのです。そのとき、モーセは、先祖たちに対する約束、アブラハム、イサク、ヤコブに対する神様の約束について聞いていたはずです。「三つ子の魂、百まで」と言いますが、モーセのヘブライ人としてのアイデンティティー(自己同一性)は、このとき形成されたと思われます。そのモーセのヘブライ人としてのアイデンティティーが明らかとなったのが、ヘブライ人を虐待しているエジプト人を殺してしまうという出来事であったわけです。そのことを背景にして、24節は記されているのです。「信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです」。モーセは、ヘブライ人を虐待していたエジプト人を殺してしまったわけですが、その理由がここに記されています。これは、ヘブライ人への手紙の著者の解釈ですね。モーセはファラオの王女の息子として、人生を歩むこともできました。しかし、モーセは信仰によって、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えたのです。26節に、「キリストのゆえに受けるあざけり」とあります。この「キリスト」が「イエス・キリスト」であるとすれば、この文は、時代錯誤のように思えます。それで、ある人は、「キリスト」とは「油注がれた者」であり、神の民イスラエルを指すと解釈します(詩89:52参照)。モーセは、「神の民と共に虐待される方を選び、神の民のゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えた」と読むのです。ヘブライ人は重労働を課せられ、虐待されておりました。彼らは奴隷のように扱われていたのです。しかし、その奴隷である彼らをモーセは神の民と認め、その神の民の一員として虐待されること、あざけられることをエジプトの財宝よりまさる富と考えたのです。なぜですか。それは、モーセが与えられる報いに目を向けていたからです。モーセは、神様が御自分の民に与えられた約束の実現を待ち望む者であったのです。モーセも、アブラハムやイサクやヤコブと同じように、天の故郷を熱望する者であったのです。

 先程、私は、26節の「キリスト」を「イエス・キリスト」と読むならば、時代錯誤の印象を受けると言いました。しかし、ヘブライ人への手紙が説教であることを思い起こすならば、この「キリスト」は「イエス・キリスト」のことであると読んで、少しもおかしくありません。なぜなら、ヘブライ人への手紙の読者たちは、信仰生活に疲れて、イエス・キリストへの信仰を捨ててしまいかねない者たちであったからです。彼らは、イエス・キリストゆえに受ける嘲りよりも、この世の富の方がまさると考えて、信仰を捨ててしまおうとしていたのです。そのような彼らに、ヘブライ人への手紙の著者は、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えたモーセの信仰を語るのです。その心は、「あなたたちも与えられる報いに目を向けて、イエス・キリストのゆえに受けるあざけりを地上の財宝よりまさる富と考えなさい」ということです(10:34も参照)。「キリストのゆえに受けるあざけりが、どれほど大きな報いをもたらすか」。このことは、イエス様御自身が教えられたことです。イエス様は弟子たちにこう言われました。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」(マタイ5:11、12)。使徒言行録の5章を読みますと、福音を宣べ伝えたゆえに、牢に入れられ、鞭打たれた使徒たちが、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜」んだと記されています(使徒5:40〜42参照)。使徒たちが、イエスの名のための迫害を喜ぶことができたのは、彼らが与えられる報いに目を向けていたからです。そのような信仰をもって、私たちもキリストのために受けるあざけりを地上の財宝にまさる富と考えることが求められているのです。過ぎ去る地上のことにではなくて、いつまでも続く天の故郷へと私たちの心の目を向けるべきであるのです。

 27節に、「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んだからです」とあります。モーセがエジプト人を殺したことを知ったファラオはモーセを殺そうと尋ね求めます。しかし、モーセはファラオの手を逃れてミディアン地方に行きました。このことは、王の怒りを恐れてのことではなく、信仰によってである、とヘブライ人への手紙は記すのです。では、それはどのような信仰であったのでしょうか?それは、目に見えない神様が自分と共にいてくださるという信仰です。モーセは、目に見えない方を見ているようにして、ミディアンの地での寄留者としての生活を耐え忍んだのです。

 28節に、「信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました」とあります。これは、エジプトでの最後の災い、「エジプト中の初子が死んでしまう」という災いを背景にして記されています。その最後の災いについて、主はモーセとアロンに次のように言われました。「その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない」(出エジプト12:12、13)。神様は、その夜、イスラエルの民に、自分たちのいる家の鴨居と二本の柱に、小羊の血を塗るように命じられました。そして、その血を見るならば、滅ぼす者はあなたたちを過ぎ越すと約束されたのです。イスラエルの民は、この主の約束を信じて、小羊を屠り、その血を家の入口に塗ったのです。そのような信仰によって、モーセとイスラエルの民は主の裁きから救われたのです。

2 イスラエルの人々の信仰

 29節、30節をお読みします。

 信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。信仰によってエリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。

 23節から28節までは、モーセの信仰について記していましたが、29節、30節は、神の民であるイスラエルの人々の信仰について記しています。出エジプト記の14章に、「葦の海の奇跡」が記されています。そこには、「モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は渇いた地に変わり、水は分かれた」こと。「イスラエルの人々は海の中の渇いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった」ことが記されています。このようにして、イスラエルの人々は、エジプト軍から逃れたのです。エジプト軍も、イスラエルの人々を追って、海の中の渇いた所を進もうとするのですが、火と雲の柱によってかき乱されて進めません。そして、モーセが手を海に向かって再び差し伸べると、海の元の場所へ流れ、エジプト軍は溺れ死んでしまったのです。主はエジプト軍を破り御栄光を現され、イスラエルの人々を救われたのです。このように出エジプト記の記述ですと、主の大いなる御業が語られているのですが、ヘブライ人への手紙は、イスラエルの人々の信仰について語ります。なぜ、イスラエルの人々は陸地を通るように紅海を渡ることができたのか?それは、信仰によってであると言うのです。それゆえ、信仰のないエジプト人たちは渡ろうとしてもおぼれてしまったのです。イスラエルの人々の信仰、それは神様が、自分たちを約束の地へと導いてくださるという信仰であります。そのような望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する信仰によって、イスラエルの人々は、陸地を通るように紅海を渡ることができたのです。エジプト人はそうではありません。彼らはイスラエルの人々が渡っているのだから、自分たちも渡れるだろうという予想によって渡ろうとして、溺れ死んだのです。

 ヘブライ人への手紙は、3章、4章で、荒れ野でのイスラエルの不信仰を記しましたが、ここではそのことに触れません。モーセの後継者であるヨシュアに導かれた次の世代の人々の信仰について記しています。ヨシュア記の6章に、イスラエルの人々がカナンの町、エリコを占領するお話が記されています。エリコは、城壁に囲まれた町でありました。エリコを占領するには、城壁を崩さなければならないわけです。そのとき、主はヨシュアにこう言われたのです。「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。あなたたちの兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ御羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい」(ヨシュア6:2~5)。この神様の御言葉のとおりに、イスラエルの人々はしたわけです。彼らは、六日間町を一周して、七日目は町を七周して鬨の声をあげても、エリコの城壁は崩れないとは考えませんでした。神様の御言葉、神様の約束を信じて、神様が命じられるとおりにしたのです。そして、そして神様が言われたとおりに、エリコの城壁は崩れ、イスラエルの人々はエリコを占領することができたのです。

3 ラハブの信仰

 31節をお読みします。

 信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。

 ラハブについては、ヨシュア記の2章に記されています。ヨシュアはエリコとその周辺を探らせるために、二人の斥候を送りました。その二人の斥候を穏やかに迎え入れたのがラハブであったのです。ラハブは色々な意味で、これまでの人物たちとは違います。ラハブは血筋から言えばアブラハムの子孫ではなく、異邦人でした。また、女であり、しかも娼婦でありました。ラハブは罪深い女であったのです。しかし、ラハブは主を信じる者であったことが、ヨシュア記の2章に記されているラハブの言葉から分かります。旧約の341ページ。ヨシュア記の2章8節から11節までをお読みします。

 二人がまだ寝てしまわないうちに、ラハブは屋上に上って来て、言った。「主がこの土地をあたに与えられたこと、またそのことで、わたしたちが恐怖に襲われ、この辺りの住民は皆、おじけづいていることを、わたしは知っています。あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。」

 このように娼婦ラハブも、神様がカナンの土地をイスラエルに与えられること、イスラエルの神、主こそがまことの神であることを信じていました。そして、このような信仰によって、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎入れ、自分と家族の命を救ったのです。そればかりか、彼女はイスラエルの一員となり、約束の地、さらには天の故郷を受け継ぐ者になるのです。遊女ラハブこそ、異邦人でイエス・キリストを信じて神の民とされ、天の故郷を熱望する私たちの先駆けであると言えるのです。ヘブライ人への手紙は、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセと並べて、遊女ラハブの信仰について記しました。このことは、信仰によってのみ私たちが神の民イスラエルとされること、信仰によってのみ天の故郷を受け継ぐ者となることを、はっきりと教えているのです。

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