アブラハムの復活信仰 2018年7月29日(日曜 朝の礼拝)

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アブラハムの復活信仰

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 11章17節~22節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:17 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。
11:18 この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。
11:19 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
11:20 信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。
11:21 信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。
11:22 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。ヘブライ人への手紙 11章17節~22節

原稿のアイコンメッセージ

 ヘブライ人への手紙の11章には、信仰のゆえに神に認められた昔の人たちの名前が記されています。今朝は、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの信仰について、御一緒に学びたいと思います。

1 アブラハム

 17節から19節までをお読みします。

 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。

 アブラハムが受けた試練については、創世記の22章に記されています。旧約の31ページ。創世記22章1節から13節までをお読みします。

 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻って来る。」アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。

 長く読みましたが、ヘブライ人への手紙は、「アブラハム、イサクをささげる」という記事を背景にして、今朝の御言葉を記しているのです。では、今朝の御言葉に戻ります。新約の415ページです。

 17節に、「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたときに、イサクを献げました」と記されています。「試練を受けたときに」とありますが、アブラハムは、それが神様からの試練、試みであることを知りませんでした。彼が聞いた主の御言葉は、「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」という御言葉です。アブラハムは、信仰によって、この御言葉に従い、イサクを献げたのです。アブラハムは、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」という約束を受けていました。アブラハムは神様から、子孫を増やし、子孫にカナンの土地を与え、子孫によって全ての民を祝福するという約束を受けていました。そして、その約束は、アブラハムとサラとの間に産まれたイサクによって受け継がれると、神様は言われたのです(創世17:21「わたしの契約は、来年の今ごろ、サラがあなたとの間に産むイサクと立てる」参照)。ですから、イサクを焼き尽くす献げ物としてささげるならば、神様の約束は実現しないことになってしまうわけです。神様は御自分の約束を反故にするようなことを、アブラハムに命じられたのです。神様の約束と命令に矛盾があるわけですね。しかし、アブラハムは信仰によって、イサクを献げたのです。そして、その信仰とは、「神は人を死者の中から生き返らせることさえ、おできになる」という信仰であったのです。ヘブライ人への手紙は、アブラハムが復活信仰をもって、イサクを献げたと言うのですね。「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」という神様の約束と、「あなたの独り子イサクを、焼き尽くす献げ物としてささげよ」という神様の命令の矛盾を、アブラハムは復活信仰によって乗り越えたのです。アブラハムは、「自分がイサクを焼き尽くす献げ物としてささげても、神様はそのイサクを死者の中から復活させて、約束を実現してくださる」と信じたというのです。そのような望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する信仰よって、アブラハムはイサクをほふろうとしたのです。そのようなアブラハムの信仰を見て、神様は、「アブラハム、アブラハム」「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」と言われたわけです。神様は、アブラハムがイサクをささげたと見なしてくださいました。神様は、イサクを御自分への献げ物として受け入れられたのです。ですから、ヘブライ人への手紙は、アブラハムがイサクを返してもらったのは、死者の中から返してもらったも同然であると記したのです。

2 イサク

 20節をお読みします。

 信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。

 イサクが、ヤコブとエサウのために祝福を祈ったことは、創世記の27章に記されています。年をとり目がかすんで見えにくくなっていたイサクは、長男のエサウを祝福するつもりで、弟のヤコブを祝福します。その背後には、イサクの妻リベカの計略があるのですが、ここでは、イサクがヤコブを祝福した言葉だけを読みたいと思います。旧約の43ページ。創世記の27章27節から29節までをお読みします。

 ヤコブが近寄って口づけをすると、イサクは、ヤコブの着物の匂いをかいで、祝福して言った。「ああ、わたしの子の香りは、主が祝福された野の香りのようだ。どうか、神が/天の露と地の産み出す豊かなもの/穀物とぶどう酒を/お前に与えてくださるように。多くの民がお前に仕え/多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり/母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ/お前を祝福する者は/祝福されるように。」

 イサクも、アブラハムと同じように神様からの約束をいただいておりました。その約束を子供に受け継がせる行為が、祝福するという行為であったのです。イサクの祝福の最後に、「お前を呪う者は呪われ/お前を祝福する者は祝福される」とあります。これは、かつて神様がアブラハムを召し出された時に言われた言葉でもあります(12:3「あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」参照)。アブラハムへの神様の約束は、イサクへ受け継がれ、ヤコブへと受け継がれて行くわけです。そして、このような祝福の背後にある者は、神様の約束への信仰、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する信仰であるのです。

 では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の415ページです。

3 ヤコブ

 21節をお読みします。

 信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。

 ヤコブがヨセフの息子たちのために祝福を祈ったことは、創世記の48章に記されています。旧約の87ページです。48章1節から16節までをお読みします。

 これらのことの後で、ヨセフに、「お父上が御病気です」との知らせが入ったので、ヨセフは二人の息子マナセとエフライムを連れて行った。ある人がヤコブに、「御子息のヨセフさまが、ただいまお見えになりました」と知らせると、イスラエルは力を奮い起こして、寝台の上に座った。ヤコブはヨセフに言った。「全能の神がカナン地方のルズでわたしに現れて、わたしを祝福してくださったとき、こう言われた。「あなたの子孫を繁栄させ、数を増やし/あなたを諸国民の群れとしよう。この土地をあなたに続く子孫に/永遠の所有地として与えよう。』今、わたしがエジプトのお前のところに来る前に、エジプトの国で生まれたお前の二人の息子をわたしの子供にしたい。エフライムとマナセは、ルベンやシメオンと同じように、わたしの子となるが、その後に生まれる者はお前のものとしてよい。しかし、彼らの嗣業の土地は兄たちの名で呼ばれるであろう。わたしはパダンから帰る途中、ラケルに死なれてしまった。あれはカナン地方で、エフラトまで行くには、まだかなりの道のりがある途中でのことだった。わたしはラケルを、エフラト、つまり今のベツレヘムへ向かう道のほとりに葬った。」イスラエルは、ヨセフの息子たちを見ながら、「これは誰か」と尋ねた。ヨセフが父に、「神が、ここで授けてくださったわたしの息子です」と答えると、父は、「ここへ連れて来なさい。彼らを祝福しよう」と言った。イスラエルの目は老齢のためかすんでよく見えなかったので、ヨセフが二人の息子を父のもとに近寄らせると、父は彼らに口づけをして抱き締めた。イスラエルはヨセフに言った。「お前の顔さえ見ることができようとは思わなかったのに、なんと、神はお前の子供たちをも見させてくださった。」ヨセフは彼らを父の膝から離し、地にひれ伏して拝した。ヨセフは二人の息子のうち、エフライムを自分の右手でイスラエルの左手に向かわせ、マナセを自分の左手でイスラエルの右手に向かわせ、二人を近寄らせた。イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。そして、ヨセフを祝福して言った。「わたしの先祖アブラハムとイサクがその御前を歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで/導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に/祝福をお与えください。どうか、わたしの名と/わたしの先祖アブラハム、イサクの名が/彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に/数多く増え続けますように。」

 15節に、「ヨセフを祝福して言った」とありますように、ヨセフの二人の息子を祝福することは、ヨセフを祝福することでもあったのです。ここに、親と子どもを同一視する考え方があります。ヤコブはヨセフの二人の息子を祝福することによって、ヨセフに他の兄弟よりも多い、二倍の分け前を与えたのです。そして、このことも神様の約束を信じる、信仰によってであったのです。ヤコブは、全能の神様が、子孫の数を増やして、カナンの土地を永遠の所有地として与えてくださることを信じて、ヨセフの二人の息子たちのために祝福を祈ったのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の415ページです。

4 ヨセフ

 22節をお読みします。

 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。

 このことについては、創世記の50章22節以下に記されています。旧約の93ページです。50章22節から26節までをお読みします。

 ヨセフは父の家族と共にエジプトに住み、百十歳まで生き、エフライムの三代の子孫を見ることができた。マナセの息子マキルの子供たちも生まれると、ヨセフの膝に抱かれた。ヨセフは兄弟たちに言った。「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたがたを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。」それから、ヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください。」ヨセフはこうして、百十歳で死んだ。人々はエジプトで彼のなきがらに薬を塗り、防腐処置をして、ひつぎに納めた。

 ヨセフが臨終の時に、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨についての指示を与えたことは、ヨセフが神様の約束を信じていたことを示しています。ヨセフは、その生涯のほとんどをエジプトで過ごしました。しかし、ヨセフにとって、エジプトは寄留の地であったのです。ヨセフは、神様がイスラエルの子らにカナンの土地を与えてくださるとの約束を信じていたので、エジプトからの脱出について語り、自分の遺骨をカナンの地に葬るよう誓わせたのです。自分の遺骨をカナンの地に葬らせることによって、自分もカナンの土地を受け継ぐ者であるとの信仰を表したのです。ここにあるのは、ヨセフの復活信仰であります。アブラハムだけではなくて、ヨセフも復活信仰を持っていたのです。前回も申しましたが、神様は、アブラハム、イサク、ヤコブに、「あなたとあなたの子孫に、カナンの土地を与える」と約束しておられました。「あなたとあなたの子孫に、カナンの土地を与える」と神様は約束されたのです。しかし、アブラハムが手にしたのは、妻サラを葬ったマクペラの畑だけでした。では、神様は、アブラハムとの約束を実現されなかったのでしょうか?そうではありません。神様は、アブラハムを復活させて、カナンの土地が指し示す、新しい天と新しい地を与えられるのです。そのことを、ヨセフも信じていたのです。ですから、ヨセフは、自分の遺骨を葬るのは、エジプトではなくて、約束の地カナンでなくてはならないと考えたのです。

 私たちが自分の遺骨をどこに葬るのか?そこに、私たちの信仰が表れると言えるのではないでしょうか?具体的に言えば、お寺のお墓ではなく、教会のお墓に葬ることによって、私たちの信仰を表されるのです。私たちの教会には、せんげん台教会と南越谷コイノニア教会と共有しているお墓、春日部栄光墓苑があります。その規定の第1条に、春日部栄光墓苑の目的が次のように記されています(『羽生栄光教会25年史』92ページ参照)。

1.御国に召された聖徒たちの遺骨を葬り、復活の希望と主イエス・キリストにあってひとつとされていることの信仰を世に証しし、神に栄光を帰する。

2.故人に与えられた神の恵みに感謝し、御国を瞑想し、死に至るまで主イエス・キリストに従う決意を新たにする場として用いる。

 春日部栄光墓苑の墓石には、十字架と「わたしはよみがえりであり、命である」とのイエス・キリストの御言葉が刻まれています。その墓誌に名前が刻まれている人々は、自分が復活信仰をもって死んだことを世に証ししているのです。私たちは、そのお墓の前で、自分も死に至るまでイエス・キリストに従う決意を新たにすることができるのです。

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