神の安息にあずかる約束 2018年3月11日(日曜 朝の礼拝)

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神の安息にあずかる約束

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 4章1節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:1 だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。
4:2 というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。
4:3 信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。「わたしは怒って誓ったように、/『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』」と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。
4:4 なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。
4:5 そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。
4:6 そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、
4:7 再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、/「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。
4:8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。
4:9 それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。
4:10 なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。
4:11 だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。
4:12 というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。
4:13 更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。ヘブライ人への手紙 4章1節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、モーセに率いられてエジプトを出たすべての者が、神の声を聞いたのに反抗したことを学びました。イスラエルの民は、不信仰のせいで神の安息にあずかることはできませんでした。それゆえ、神の安息にあずかる約束はまだ続いているとヘブライ人への手紙は記すのです。

 4章1節から3節前半までをお読みします。

 だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように気をつけましょう。というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。「わたしは怒って誓ったように、『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』」と言われたとおりです。

 1節で、「気をつけましょう」と訳されている言葉は、「恐れようではないか」とも訳すことができます。新改訳聖書は、「恐れる心を持とうではありませんか」と訳しています。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての民が不信仰のゆえに、神の安息にあずかることができなかった。このことは、他人事ではありません。使徒パウロの言葉を用いるならば、「これらのことは前例として彼らに起こったのであり、それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためである」のです(一コリント10:11参照)。エジプトの奴隷状態から導き出されたすべての民が約束の地カナンに入ることができなかった。そうであれば、罪の奴隷状態から導き出された私たちは約束の天の国に入ることができるだろうか。そのように自分のこととして聞かなくてはならないのです。また、自分だけではなくて、共に礼拝をささげている兄弟姉妹の中から、神の安息にあずかる約束から取り残されてしまう者が出ないように、気をつけなければならないのです。

 ヘブライ人への手紙は、モーセに率いられてエジプトから出たイスラエルの民と同様に、私たちにも福音が告げ知らされていると記します。この福音とは、「神の安息にあずかることができる」という福音、良き知らせであります。イスラエルの民にとって、神の安息にあずかるとは、神様が約束してくださった乳と蜜の流れる土地カナンに入り、そこに住み着くことでありました。神様は、モーセを通して、そのことをイスラエルの民に告げ知らせておられたのです。出エジプト記の23章20節から33節までをお読みします。旧約の133頁です。

 見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる。あなたは彼に心を留め、その声に聞き従い、彼に逆らってはならない。彼はあなたたちの背きを赦さないであろう。彼はわたしの名を帯びているからである。しかし、もしあなたが彼の声に聞き従い、わたしの語ることをすべて行うならば、わたしはあなたの敵に敵対し、仇に仇を報いる。わたしの使いがあなたの前を行き、あなたをアモリ人、ヘト人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人のところに導くとき、わたしは彼らを絶やす。あなたは彼らの神々にひれ伏し仕えてはならない。そのならわしを行ってはならない。あなたは彼らを滅ぼし、その石柱を打ち砕かねばならない。あなたたちは、あなたたちの神、主に仕えねばならない。主はあなたのパンと水を祝福するであろう。わたしはあなたの中から病を取り除く。あなたの国には流産する女も不妊の女もいなくなる。わたしはあなたの天寿を全うさせる。わたしは、あなたの前にわたしの恐れを送り、あなたが入って行く土地の民をすべて混乱に陥れ、あなたの敵をすべて敗走させる。わたしはまた、あなたの前に恐怖を送り、あなたの前からヒビ人、カナン人、ヘト人を追い出す。しかし、一年間は彼らをあなたの前から追い出さない。さもないと、国土は荒れ果て、野獣の数が増し、あなたに向かって来る。わたしは彼らをあなたの前から徐々に追い出すので、あなたは子を産み、国土を受け継ぐに至る。わたしは葦の海からペリシテ人の海まで、また荒れ野から大河までをあなたの領地と定める。わたしはその土地の住民をあなたの手に渡すから、あなたは彼らを自分の前から追い出す。あなたは彼らおよび彼らの神々と契約を結んではならない。彼らはあなたの国に住むことはできない。彼らがあなたに、わたしに対する罪を侵させないためである。さもないと、あなたは彼らの神々を拝み、それは、あなたにとって罠となるからである。

 この23章20節から33節の御言葉は、20章22節以下から記されている「契約の書」の最後の言葉であります(出エジプト24:7参照)。小見出しには「違反に対する警告」とありますが、ここには、神がイスラエルにカナンの地を受け継がせてくださるという福音が記されています。イスラエルの民は、この福音を聞いて、続く24章で、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と誓い、契約を結ぶのです。しかし、前回学びましたように、イスラエルの民は、カナンの地の手前まで来ておりながら、偵察隊の悪いうわさに惑わされ、頭(かしら)を立てて、エジプトへ帰ろうとしたのです。彼らは、神様が「カナンの地で、自分たちを殺そうとしている」とさえ言ったのです。なぜこのようなことになってしまったのでしょうか?ヘブライ人への手紙は、聞いた言葉が役に立たなかったのは、聞いた人々と信仰によって結びつかなかったためであると記します。イスラエルの民は、シナイ山のふもとで神の約束の言葉を聞きました。しかし、カナンの地の手前に来ると、神の約束など無かったかのように、アナク人を恐れ、神様に反抗したのです。イスラエルの民は神の約束を聞いていながら、自分たちに必ず実現する神の約束として聞くことができなかったのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の404頁です。

 神の言葉は信仰をもって自分と結びつけて聞かなければ、役に立たない。このことは、私たちにも当てはまります。「主イエス・キリストは、すべての人の罪を償うために十字架の死を死んでくださった。また、主イエス・キリストは、ご自分を信じる者たちを正しい者とするために復活してくださった」と神様は聖書を通して、語っておられます。また、「イエス・キリストを信じる者は罪に定められることなく、永遠の命を持つことができる」とも語っておられます。その神の言葉を、信仰をもって聞く、信仰をもって自分と結びつけて、自分のうえに必ず実現する言葉として聞くのです。イエス様は、わたしの罪のために十字架で死んでくださった。イエス・キリストは、わたしを正しい者とするために死から三日目に復活してくださった。イエス・キリストを信じるわたしは、すべての罪が赦されており、神様との永遠の愛の交わりに生きることができる。その祝福を今与えられている。そのように、信仰をもって自分と結びつけて聞かなくては、役に立たないのです。しかし、信仰をもって自分と結びつけて聞くならば、私たちは神の安息にあずかることができるのです。

 3節に、「『わたしは怒って誓ったように、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」』と言われているとおりです」とあります。これは、1節の「神の安息にあずかる約束がまだ続いている」ことの証拠聖句であります。神の安息にあずかる約束が続いていることは、聖霊が私たちに神の安息について語っていることからも分かります。しかし、聖霊が私たちに約束しておられる神の安息は、約束の地カナンに住まわせるというものではありません。そのことを示すために、ヘブライ人への手紙は、創世記の御言葉を引用するのです。

 3節後半から11節までをお読みします。

 もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。そして、この個所でも改めて、「彼らは決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。そこで、この安息にあずかる人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。

 ヘブライ人への手紙は、神が天地創造の業を終えて休まれたことを記すことにより、私たちがあずかる神の安息が、今、神様が憩うておられる安息であることを教えています。なぜなら、聖書は、第七の日について、「夕べがあり、朝があった」と記していないからです。創世記の2章1節から3節にこう記されています。「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」。このように、第七の日については、「夕べがあり、朝があった」という記述がないのです。それゆえ、第七の日は終わっておらず、神様は今も安息しておられると解釈することができるのです。聖霊が「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われたのは、創造の業を終えて休まれた神の安息であるのです。

 聖霊が「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われた安息が、約束の地カナンに住まわせることを意味していないことは、この言葉がダビデを通して語られたことからも分かります。ダビデは、紀元前1000年頃に活躍したイスラエルの王であり、詩人でありました。ダビデの時代、イスラエルの民は約束の地カナンに住んでおりました。イスラエルの民は、荒れ野において主に逆らった世代が死に絶えた後、ヨシュアに率いられ、カナンの地に入ったのです。イスラエルの民は、ヨシュアによって、安息を与えられたのです。しかし、神様は、ヨシュアの時代からかなりの時が経った後、ダビデを通して「今日、あなたたちが神の子を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」と言われたのです。つまり、神様がダビデを通して語られた「わたしの安息」とは、ヨシュアが与えたのとは別の安息、創造の御業を終えて、神様が憩うておられる安息であるのです。この神の安息こそ、約束の地カナンが指し示してきたものであり、イエス・キリストを信じる私たちが入る天の国であるのです。約束の地カナンであずかる安息は、天国であずかる神の安息を指し示すもの、その予型であったのです。10節に、「なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです」とあります。ここでの「神の安息にあずかった者」とは、イエス・キリストを信じて、地上の生涯を終えた者たちのことであります。イエス・キリストを信じて、地上の生涯を終えた者たちは、天の国に入れられ、神の永遠の安息にあずかっているのです。ですから、地上の人生を歩んでいる私たちは、天の安息にあずかれるように努力しようとヘブライ人への手紙は記すのです。そのために私たちは、主イエス・キリストを信じ続けなければならないのです。なぜなら、神の約束は、イエス・キリストにおいてことごとく実現したからです。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙二の1章20節でこう記しています。「神の約束は、ことごとくこの方(イエス・キリスト)において『然り』となったからです。それで、わたしたちは神をほめたたえるために、この方を通して『アーメン』と唱えます」。神様の約束は、イエス・キリストにおいてことごとく実現しました。それゆえ、神の約束を信じ続けるとは、イエス・キリストを信じ続けることであるのです。では、イエス・キリストを信じ続けて、神の安息に入るために、私たちは何を努力すればよいのでしょうか?そのヒントが、ウェストミンスター小教理問答の問88に記されています。そこにはこう記されています。「キリストがあがないの祝福を私たちに伝えるために用いられる外的な普通の手段とは、キリストの規定、特に御言葉、礼典、祈祷です。このすべてが、選民にとって救いのために有効とされます」。私たちが神の安息にあずかるために、どのような努力をしたらよいのか?それは、キリストがあがないの祝福を私たちに伝えるために用いられる恵みの外的手段、御言葉と礼典と祈りを勤勉に用いるということです。御言葉と礼典と祈りが行われる主の日の礼拝に、努力して出席する。ということです。日ごとに、御言葉を読み、祈る努力をするということです。そうではないと、私たちもイスラエルの民と同じように不従順となり、堕落してしまうかもしれないのです。

 12節、13節をお読みします。

 というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほど刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。

 ここでの「神の言葉」は聖書において聖霊が語っておられる神の言葉のことです。神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、私たちの心の思いや考えを見分けることができます。更に、神の目にはすべてのものが裸であり、さらけ出されているのです。そのような神様の御前に、私たちは自分が、神の約束を信じて生きてきた。イエス・キリストを信じて生きてきたと申し述べることになるのです。このことは一朝一夕でできることではありません。私たちが今日という日の連続である人生の中で、造り上げていくものであります。そして、それは、恵みの手段である御言葉と礼典と祈りを用いて、私たちの内で神様が成し遂げてくださる御業であるのです。私たちに、神の約束を信じさせ、イエス・キリストを信じさせてくださるのは、神様であります。ですから、私たちは、神の御前に立って、自分のことを申し述べることができるのです。私たちがいただいた神の恵みを、感謝をもって申し述べることができるのです。

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