今日、神の声を聞くなら 2018年3月04日(日曜 朝の礼拝)

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今日、神の声を聞くなら

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 3章7節~19節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:7 だから、聖霊がこう言われるとおりです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
3:8 荒れ野で試練を受けたころ、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。
3:9 -10荒れ野であなたたちの先祖は/わたしを試み、験し、/四十年の間わたしの業を見た。だから、わたしは、その時代の者たちに対して/憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、/わたしの道を認めなかった。』
3:11 そのため、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』と。」
3:12 兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。
3:13 あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。――
3:14 わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。――
3:15 それについては、次のように言われています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。」
3:16 いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。
3:17 いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。
3:18 いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。
3:19 このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。
ヘブライ人への手紙 3章7節~19節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、キリストがモーセより大きな栄光を受けるにふさわしいお方であることを学びました。モーセは神の家の一員として忠実に仕える者でありましたが、キリストは神の子として神の家を忠実に治められるのです。神の家とは、イエス・キリストを主と告白する私たちのことであります。確信と希望に満ちた誇りを持ち続ける私たちこそ神の家、神の家族であるのです。今朝の御言葉はその続きであります。

 7節から11節までをお読みします。

 だから、聖霊がこう言われるとおりです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。荒れ野であなたたちの先祖は/わたしを試み、験し、四十年の間わたしの業を見た。だから、わたしは、その時代の者たちに対して/憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、わたしの道を認めなかった。』そのため、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』と。」

 ヘブライ人への手紙は、「だから、聖霊がこう言われるとおりです」と記し、詩編95編を引用しています。ここで、ヘブライ人への手紙は、聖書が神の霊に導かれた人たちによって記された神の言葉であることを前提としています。使徒パウロは、テモテへの手紙二の3章16節で、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」た書物であると記しています。また、使徒ペトロも、第二の手紙の1章21節で、聖書の「預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです」と記しています。聖書は、神の霊に導かれた人たちによって記された、神の言葉である。この信仰をヘブライ人への手紙の著者も、そして読者たちも共有していたのです。聖書はいろいろな人の手によって記された書物であります。しかし、聖書の究極的な著者は、神の霊、聖霊であるのです。聖書の究極的な著者が聖霊であること。それは何を意味しているのでしょうか?それは、聖書が過去に記された書物であっても、現在の私たちに語りかける書物であるということです。神様は、時間を造られたお方、時間を超越しておられるお方であります。神様は過去、現在、未来といった時間の枠組みに縛られることはありません。ある神学者が言っておりますように、神様にとっては、「永遠の今」があるだけなのです。ですから、私たちは聖書を、私たちに語りかけておられる神の言葉として読むべきであるのです。そのことを共同体として、公に行っているのが、礼拝における御言葉の朗読と説教であるのです。

 ヘブライ人への手紙は、詩編95編を引用しておりますが、私たちが手にしている新共同訳聖書の翻訳とは少し違います。それは、ヘブライ人への手紙がヘブライ語旧約聖書のギリシャ語訳聖書、いわゆる七十人訳聖書から引用しているからです。私たちが用いている新共同訳の旧約聖書は、ヘブライ語聖書を日本語に翻訳したものです。しかし、ヘブライ人への手紙は、七十人訳聖書から引用しており、それを日本語に翻訳しているので、少し違うのです。初代教会において、聖書といえば、七十人訳聖書でありました。キリストの福音が、ユダヤ人以外の民族、いわゆる異邦人に急速に広まったのは、ヘブライ語旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳聖書があったからです。初代教会において、ヘブライ語旧約聖書からのギリシャ語訳である七十人訳聖書も、聖霊によって記された神の言葉でありました。ですから、私たちも、日本語に翻訳された聖書を神の言葉として読むことができるし、また読むべきであるのです(ウ告白1章8節も参照)。

 実際に、詩編95編を開いて、読みたいと思います。旧約の933頁です。

 主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。御前に進み、感謝をささげ/楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。主は大いなる神/すべての神を越えて大いなる王。深い地の底も御手の内にあり/山々の頂きも主のもの。海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる羊の群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように/心を頑なにしてはならない。あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。四十年の間、わたしはその世代をいとい/心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。わたしは怒り/彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」

 ヘブライ人への手紙は、7節後半から11節までを引用しております。8節に、「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように/心を頑なにしてはならない」とあります。ここで「メリバ」も「マサ」も、地名として記されています。しかし、ヘブライ人への手紙が引用した七十人訳聖書には、メリバやマサといった地名は記されていません。メリバは「争い」という意味であり、マサは「試(ため)し」という意味であります。その元々の意味が、七十人訳聖書には反映されて、「荒れ野で試練(マサ)を受けたころ、神に反抗(メリバ)したときのように、心をかたくなにしてはならない」と記されているのです。では、イスラエルの民は、メリバとマサで、どのように心を頑なにしたのでしょうか?このところも開いて、読みたいと思います。出エジプト記の17章1節から7節までをお読みします。旧約の122頁です。

 主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で撃ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。

 ここに、荒れ野において、イスラエルの民が心を頑なにした代表的な出来事が記されています。イスラエルの民は、意気揚々と、エジプトの国を脱出しました。しかし、喉が渇いたり、お腹が空いたりすると、すぐに不平を言い、モーセと争い、主を試したのです。そのようなイスラエルの民を、主は養い、導かれました。主は、天からのパン・マナによってイスラエルの民を養い、雲の柱、火の柱によってイスラエル民を導かれたのです。イスラエルの民は、シナイ山における契約の締結や金の子牛の罪などを経て、約束の地カナンの手前までたどり着きました。しかし、そこでも、彼らは心を頑なにして、主に反抗するのです。そして、そのことが、イスラエルの民に取り返しのつかない裁きを招くことになるのです。民数記の13章25節から14章38節までをお読みします。旧約の235頁です。

 少し文脈を説明しておきますと、主はカナンの地に入るに先立ち、偵察隊を送ることを命じられました。12部族の代表者1名からなる12人の偵察隊がカナンの地に遣わされました。その偵察隊が帰って来たところ、13章25節から14章38節までをお読みします。

 四十日の後、彼らは土地の偵察から帰って来た。パランの荒れ野のカディシュにいるモーセ、アロンおよびイスラエルの人々の共同体全体のもとに来ると、彼らと共同体全体に報告をし、その土地の果物を見せた。彼らはモーセに説明して言った。「わたしたちは、あなたが遣わされた地方に行ってきました。そこは乳と蜜の流れる所でした。これがそこの果物です。しかし、その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえ見かけました。ネゲブ地方にはアマレク人、山地にはヘト人、エブス人、アモリ人、海岸地方およびヨルダン沿岸地方にはカナン人が住んでいます。」カレブは民を静め、モーセに向かって進言した。「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」しかし、彼と一緒に行った者たちは反対し、「いや、あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」と言い、イスラエルの人々の間に、偵察して来た土地について悪い情報を流した。「我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない。」共同体全体は声をあげて叫び、民は夜通し泣き言を言った。イスラエルの人々は一斉にモーセとアロンに対して不平を言い、共同体全体で彼らに言った。「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだ。どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ。」そして、互いに言い合った。「さあ、一人の頭(かしら)を立てて、エジプトへ帰ろう。」モーセとアロンは、イスラエルの人々の共同体の全会衆の前でひれ伏していた。土地を偵察して来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは、衣を引き裂き、イスラエルの人々の共同体全体に訴えた。「我々が偵察して来た土地は、とてもすばらしい土地だった。もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。ただ、主に背いてはならない。あなたたちは、そこに住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない。」しかし、共同体全体は、彼らを石で打ち殺せと言った。主の栄光はそのとき、臨在の幕屋でイスラエルの人々すべてに現れた。主はモーセに言われた。「この民は、いつまでわたしを侮るのか。彼らの間で行ったすべてのしるしを無視し、いつまでわたしを信じないのか。わたしは、疫病で彼らを撃ち、彼らを捨て、あなたを彼らよりも強大な国民としよう。」モーセは主に訴えた。「エジプト人は、あなたが御力をもって、彼らのうちからこの民を導き上られたことを聞いて、この地方に住む者に伝えます。彼らは、主よ、あなたがこの民のただ中におられ、主よ、あなたが目の当たりに現れられること、また、あなたの雲が民の上にあり、あなたが昼は雲の柱、夜は火の柱のうちにあって先頭に進まれることを聞いています。もし、あなたがこの民を一挙に滅ぼされるならば、あなたの名声を聞いた諸国民は言うことでしょう。主は、与えると誓われた土地にこの民を連れて行くことができないので、荒れ野で彼らを殺したのだ、と。今、わが主の力を大いに現してください。あなたはこう約束されました。『主は、忍耐強く、慈しみに満ち、罪と背きを赦す方。しかし、罰すべき者を罰せずにはおかれず、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問われる方である』と。どうか、あなたの大きな慈しみのゆえに、また、エジプトからここに至るまで、この民を赦してこられたように、この民の罪を赦してください。」主は言われた。「あなたの言葉のゆえに、わたしは赦そう。しかし、わたしは生きており、主の栄光は全地に満ちている。わたしの栄光、わたしがエジプトと荒れ野で行ったしるしを見ながら、十度(とたび)もわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者はだれ一人として、わたしが彼らの先祖に誓った土地を見ることはない。わたしをないがしろにする者はだれ一人としてそれを見ることはない。しかし、わたしの僕カレブは、別の思いを持ち、わたしに従い通したので、わたしは彼が見て来た土地に連れて行く。彼の子孫はそれを継ぐ。しかし、今はアマレク人とカナン人があの平野に住んでいるから、向きを変え、明日、葦の海の道を通って、荒れ野に向けて出発しなさい。」主はモーセとアロンに仰せになった。「この悪い共同体は、いつまで、わたしに対して不平を言うのか。わたしは、イスラエルの人々がわたしに対して言う不平を十分聞いた。彼らに言うがよい。『主は言われる。わたしは生きている。わたしは、お前たちが言っていることを耳にしたが、そのとおり、お前たちに対して必ず行う。お前たちは死体となってこの荒れ野に倒れるであろう。わたしに対して不平を言った者、つまり戸籍に登録された二十歳以上の者はだれ一人、わたしが手を上げて誓い、あなたたちを住まわせると言った土地に入ることはない。ただし、エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアは別だ。お前たちは、子供たちが奪われると言ったが、わたしは彼らを導き入れ、彼らは、お前たちの拒んだ土地を知るようになる。しかし、お前たちは死体となってこの荒れ野で倒れる。お前たちの子供は、荒れ野で四十年の間羊飼いとなり、お前たちの最後の一人が荒れ野で死体となるまで、お前たちの背信の罪を負う。あの土地を偵察した四十日という日数に応じて、一日を一年とする四十年間、お前たちの罪を負わねばならない。お前たちは、わたしに抵抗するとどうなるかを知るであろう。主であるわたしは断言する。わたしに逆らって集まったこの悪い共同体全体に対して、わたしはこのことを行う。彼らはこの荒れ野で死に絶える。』」モーセが遣わした男たちは、土地の偵察から帰ると、その土地について悪い情報を流し、共同体全体が彼に向かって不平を言うようにしたが、土地について悪い情報を流した者は、主の御前で疫病にかかって死んだ。しかし、土地を偵察に行った者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブだけは生き残った。

 大変長く読みましたが、ここには、イスラエルの民が、カナンの地を前にして、40年間荒れ野をさまよわなければならないことが記されています。よく「荒れ野の四十年」と言いますが、それはイスラエル民がカナンの地に着くまで40年かかったということではありません。イスラエルの民は、主に背いた世代が死に絶えるまでの40年間、荒れ野をさまよわねばならなかったのです。この民数記14章に記されている出来事を背景として、詩編95編は、主がイスラエルの民に対して憤り、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と誓われたと記しているのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の404頁です。ヘブライ人への手紙3章12節から19節までをお読みします。

 兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。―わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。―それについては、次のように言われています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。

 ヘブライ人への手紙は、聖霊の言葉として、詩編95編を引用し、それを読者に適用しております。ヘブライ人へ手紙の著者は、この手紙を「勧めの言葉」と呼んでおりますが、まさしく、ヘブライ人への手紙は「説教」であるのです(13:22参照)。イスラエルの民は信仰のない悪い心を抱いて、生ける神に背きました。しかし、兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい、とヘブライ人への手紙は記すのです。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさいと記すのです。ここでの「今日」は、詩編95編で、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら」と言われている「今日」であります。私たちが、礼拝において、神の御声を聞いている「今日」のことであります。その「今日」と呼ばれている間、私たちは日々、励まし合うことが求められているのです(新改訳参照)。最初の確信を最後までしっかりと持つ続けようと慰め、励まし、力づけ合うのです(パラカレオー)。14節の「確信」と訳されている言葉は、3章6節で「確信」と訳されていた言葉とは違う言葉です。4章14節で「確信」と訳されている言葉は、1章3節で「本質」と訳されていた言葉(ヒュポスターシス)であります。ですから、4章14節の「確信」は、本質とも言える、根底にある確信であるのです。私たちのキリスト者の本質とも言える最初の確信とは、何でしょうか?それは、私たちにとって、洗礼の時に言い表した、あるいは信仰告白の時に言い表した確信であります。私たちは、それぞれ、①わたしは、天地の造り主、唯一の生けるまことの神のみを信じます。②わたしは、自分が神の御前に罪人であり、神の憐れみによらなければ望みのないことを、認めます。③わたしは、主イエス・キリストを神の御子また罪人の救い主と信じ、救いのために福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼みます。④わたしは今、聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストの僕としてふさわしく生きることを、決心し約束します、と公に告白しました。その最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるならば、私たちはキリストの連なる者となることができるのです。

 イスラエルの民は、神に反抗して、約束の地カナンに入ることができませんでした。何人かの人が入ることができなかったのではありません。ヨシュアとカレブを除く20歳以上のすべての者は、約束の地カナンに入ることができず、荒れ野で死なねばならなかったのです。なぜ、そのようなことになったのでしょうか?ヘブライ人への手紙は、彼らが不信仰であったからだと記します。ヘブライ人への手紙は、他人事ではなく、私たちに対する警告としてこのように記しているのです。私たちも、主イエス・キリストによって、罪の奴隷状態から開放され、神の民とされました。私たちにも主の安息が約束されております。それは天の都、新しいエルサレム、義の宿る新しい天と新しい地であります。しかし、私たちが最初の確信を捨ててしまうならば、かつてのイスラエルの民のように、神の安息にあずかることはできないのです。ここで警告されていることは、「良い始まりは、良い終わりを必ずしも保証するものではない」ということです。洗礼を受けてキリスト者となった。感激して、熱心に教会生活を始めた。しかし、今は礼拝に出席していない。そのようなことがないように、私たちは今日という日に、御言葉に聞き従わなければならないのです。また、互いに励まし合いわなければならないのです。

 互いに励まし合うとは、具体的にはどういうことでしょうか?「がんばろう」と声をかけ合うことでしょうか?それもあるかも知れません。しかし、私たちが励ましを受けるのは、御言葉を聞くために礼拝に集う、互いの姿を通してではないでしょうか?私たちは、礼拝に集う兄弟姉妹の姿を見て、その人のうちにおられる聖霊のお働きを見て、励ましを受けるのです。

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