あなたを助けるイエス 2018年2月18日(日曜 朝の礼拝)

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あなたを助けるイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 2章16節~18節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:16 確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。
2:17 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。
2:18 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。ヘブライ人への手紙 2章16節~18節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は、ヘブライ人への手紙2章5節から18節までをお読みしましたが、今朝は、16節から18節までをご一緒に学びたいと思います。

 16節をお読みします。

 確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。

 前々回、私たちは、神の御子であるイエス様が、血と肉を備えられたのは、私たちをご自分の兄弟とするためであったことを学びました。私たちは、イエス様の弟、あるいは妹とされることによって、神の子とされたわけです。また、前回、私たちは、神の御子であるイエス様が、血と肉を備えられたのは、死をつかさどる悪魔をご自分の死によって滅ぼし、私たちを悪魔の奴隷状態から解放するためであったことを学びました。私たちキリスト者の死は、罪の報酬としての死ではなく、内在する罪の絶滅と天国の入り口であることを学んだのであります。これらのことを受けて、ヘブライ人への手紙は、「確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです」と記すのです。ヘブライ人への手紙は、これまで天使たちのことを記してきました。御子イエスが天使たちよりも優れた者であること、また、天使たちを通して語られた律法よりも、御子を通して語られた福音にいっそう注意を払わねばならないと記してきたのです。しかし、ここでは、天使たちとアブラハムの子孫が並べられております。イエス様の関心は、天使たちではなく、アブラハムの子孫にあると、ヘブライ人への手紙は記すのです。このことは、悪魔が堕落した天使であることを思い起こすときに、意味深長であります(ユダ6参照)。イエスは堕落した天使である悪魔を助けるようなことはされませんでした。むしろ、悪魔をご自分の死によって滅ぼすことにより、アブラハムの子孫を助けられたのです。ここでの「アブラハムの子孫」とは、アブラハムと同じ復活信仰を持つ者たちのことであります。すなわち、神がイエス・キリストを死者の中から復活させたことを信じる私たちのことであるのです(ローマ4章参照)。「確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです」。この御言葉の背景には、イザヤ書41章の御言葉があると言われております。旧約の1126頁。イザヤ書41章8節から10節までをお読みします。

 わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。わたしはあなたを固くとらえ/地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕/わたしはあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。

 イエス様は、「わたしはあなたを選び、決して見捨てない」という思いをもって、「あなたを助け」るために、私たちと同じ人となってくださったのです。そして、十字架の死を死んでくださったのであります。

 では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の403頁です。

 17節をお読みします。

 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。

 ここで、初めて「大祭司」という言葉が出てきます。ヘブライ人への手紙は、イエス様が永遠の大祭司であることを教えていますが、ここで初めて、イエス様が大祭司であると記されています。ヘブライ人への手紙が執筆されたのが、エルサレム神殿が滅ぼされる前の60年代後半とすれば、エルサレム神殿には、大祭司がおりました。しかし、ヘブライ人への手紙は、エルサレム神殿にいる大祭司ではなく、十字架と復活の主であるイエスこそが、まことの大祭司であると記すのです。イエス・キリストの「キリスト」とは、ヘブライ語のメシアのギリシャ語訳で、「油を注がれた者」という意味であります。イスラエルでは、大祭司の職に人を就かせるとき、その人の頭に油を注ぐ儀式をしました(レビ8章参照)。また、王の職に人を就かせるときも、その人の頭に油を注ぐ儀式をしました(サムエル上10:1参照)。さらには、預言者の職に人を就かせるときも、その人の頭に油を注ぐ儀式をしました(列王上19:16参照)。イスラエルでは、大祭司、王、預言者が、メシア、油を注がれた者であったのです。イエス様の時代のユダヤにおいて、「メシア」と言えば、何よりも「王」でありました。なぜなら、ユダヤの国はローマ帝国の支配下に置かれており、自分たちの王を持つことが許されていなかったからです。イスラエルの人々は、自分たちをローマ帝国の支配から解放してくれる王、メシアを待ち望んでいたのです。また、現に、エルサレム神殿には、カイアファという大祭司がおりましたから、大祭司としてのメシアを待ち望む必要はなかったのです。エルサレム神殿には、聖なる油を注がれた大祭司がいる。このことは、ヘブライ人への手紙が記された頃も同じでありました。カイアファではありませんが、他の人が大祭司の職に就いていたのです。しかし、ヘブライ人への手紙は、エルサレムにいる大祭司ではなく、イエスこそが、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司であると記すのです。ヘブライ人の手紙が、イエス様は憐れみ深い大祭司であると記すとき、その憐れみは、何よりも私たちに対して憐れみ深いということであります。ルカによる福音書の7章に、イエス様がナインという町で、やもめの一人息子を生き返らせたお話が記されています。そこには、次のように記されています。

 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て憐れに思い、「もう泣かなくてもよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。

 主イエスは一人息子に先立たれた母親を憐れに思い、「もう泣かなくてもよい」と言われました。ここで、「憐れに思い」と訳されている言葉(スプラグクニゾマイ)は、「はらわたが千切れる思いに駆られる」とも訳すことができます。イエス様は、上から目線で、かわいそうだなぁと同情されたのではなくて、この母親と同じ思い、はらわたが千切れる思いに駆られたのです。イエス様は、はらわたが千切れる思いをもって、私たちを憐れんでくださるのです(マタイ14:14も参照)。

 また、ヘブライ人への手紙が「イエスは忠実な大祭司である」と記すとき、その忠実は何より神様への忠実であります。イエス様が神様に対して忠実であることは、イエス様が神様の御心である十字架の死を死なれたことによって証明されました。イエス様は、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、父なる神のご意思に従い抜かれたのです。イエス様は十字架の死に至るまで忠実であられたのです。

 イエス様は、私たちを助けるために、神の御前に憐れみ深い、忠実な大祭司となってくださいました。大祭司の務め、それはいけにえをささげて、神と民との間に平和をもたらすことです。エルサレム神殿にいる大祭司は、民の罪を償うために、動物をいけにえとしてささげていました。では、まことの大祭司であるイエス様は、民の罪を償うために、何をささげられたのでしょうか?それは御自分の命でありました。イエス様は、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司として、ご自分の命を、私たちの罪の償いとしてささげてくださったのです。そのために、イエス様は、すべての点で兄弟たち(私たち)と同じようにならねばならなかったのです。ヘブライ人への手紙は、イエス様は「すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかった」と記しておりますが、実は、一つだけ私たちと違う点があります。それは、イエス様には生まれながらの罪、いわゆる原罪がなかったということであります。ウェストミンスター小教理問答は、罪は罪責と腐敗の2つからなると教えています。イエス様は、第二のアダム、最後のアダムでありますから、最初の人アダムの罪責を受け継いでおりません。また、聖霊によっておとめマリアの胎に宿ることによって、腐敗を受け継ぐこともありませんでした。イエス様が腐敗を受け継ぐことがなかったのは、マリアに罪がなかったからではなく、聖霊によって守られたからです。このように、イエス様は、罪を別にして、私たちと同じ者となってくださったのです。イエス様は罪のない人間としてお生まれになった、唯一のお方であるのです(一ヨハネ3:5参照)。そして、それは私たちの罪を担って、十字架の死を死ぬためであったのです。神の御子イエスが、罪を別にして、私たちと同じ人となってくださったのは、憐れみ深い忠実な大祭司として、ご自分の命をささげ、私たちを助けるためであったのです。

 今朝の説教題を「あなたを助けるイエス」と付けました。私たちは、苦しいことがあると助けを求めます。「助けてください」と心の中で叫びます。イエス様は、そのあなたを助けてくださるお方であるのです。イエス様は、あなたを深く憐れんで、救いの右の手で支えてくださる助け主であるのです(一ヨハネ2:1口語訳参照)。

 18節をお読みします。

 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

 ここで、ヘブライ人への手紙は、大切なことを私たちに教えています。イエス様が試練を受けている私たちを助けることができるのは、御自身も試練を受けて苦しまれたからであると言うのです。ここで「試練」と訳されている言葉(ペイラスモス)は「誘惑」とも訳すことができます。「試練」は「誘惑」でもあるのです。私たちは、イエス様によって悪魔の奴隷状態、罪の奴隷状態から解放されました。しかし、私たちの体には、罪の残滓、罪の残り滓があるのです。そして、私たちは日々、罪を犯してしまうのです。誘惑に負けて罪を犯し、「これでも自分はキリスト者であろうか」と惨めな思いを抱くのです。しかし、誘惑は、私たちを神の子として鍛えるための試練でもあります。ヘブライ人への手紙が12章10節で記しているように、「霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです」。私たちが試練を受けて苦しむとき、私たちはイエス様が試練を受けて苦しまれたことを思い起こすべきであります。イエス様は私たちの誰よりも厳しい試練を受けて苦しまれました。十字架につけられたイエス様に対して、人々は頭をふり、ののしってこう言いました。「神殿を打ち倒し、3日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」。同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエス様を侮辱してこう言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」。マタイによる福音書によれば、一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエス様をののしったのです。イエス様は、神の子ですから、十字架から降りることがおできになります。そのようなイエス様にとって、「十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」という言葉は、大きな誘惑でありました。そして、この誘惑は、神の子としての最大の試練であったのです。イエス様は、神の御心に従う神の子であるゆえに、十字架から降りませんでした。十字架の上で、私たちの罪を償うための死を死んでくださったのです。イエス様は、試練を受けている私たちを助けることがおできになる。それは、イエス様も試練を受けて苦しまれたからであります。しかし、それだけではありません。イエス様が試練を受けている私たちを助けることができるのは、御自分も試練を受けて苦しまれ、なおかつ、その試練に打ち勝たれたお方であるからです。イエス様は、十字架から降りるという試練に打ち勝たれました。それゆえ、神様はイエス様を栄光の体で復活させられ、御自分の右の座へと上げられたのです。試練を受けて苦しまれ、なおかつ試練に打ち勝たれたイエス様こそ、試練を受けている私たちを助けることができるのです。私たちが試練に負けて罪を犯そうとも、「わたしがあなたの罪を償うために、十字架で死んだではないか。そして、復活して、今も生きているではないか」と声をかけてくださるのです。そのようにイエス様は、私たちを強め、助けてくださるのです。

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