御子において語られた神 2018年1月07日(日曜 朝の礼拝)

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御子において語られた神

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 1章1節~4節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:1 神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、
1:2 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。
1:3 御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。
1:4 御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。
ヘブライ人への手紙 1章1節~4節

原稿のアイコンメッセージ

 週報の表紙に記されているように、今年、2018年の年間テーマは「大胆に恵みの座に近づこう!」、年間聖句は「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから・・・・・・憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ人への手紙4章14~16節)であります。この年間テーマと年間聖句にした一つの理由は、主の日の礼拝において、ヘブライ人への手紙を学び始めるからです。どうぞ、今年も私の説教準備のためにお祈りいただきたいと願います。

 今朝は最初ですので、ヘブライ人への手紙が誰によって、いつ、どこで、どのような教会に宛てて書かれた手紙であるのかをお話したいと思います。といいましても、実はヘブライ人への手紙は分からないことだらけであるのです。ヘブライ人への手紙は誰によって書かれたのか?伝統的には、使徒パウロとされてきましたが、今は、パウロであると考える研究者はほとんどおりません。ギリシャ語の文体や思想の内容からパウロ書簡とは大きく異なるからです。ある人はバルナバによって記されたと言っております(テルトゥリアヌス)。また、ある人はアポロによって記されたと言っております(ルター)。しかし、どれも推測の域を出ず、不明であるのです。誰によって記されたのか、その名前は分かりませんが、手紙の内容から、この手紙を記した人が、ギリシャ語に堪能な、ギリシャ語訳旧約聖書(七十人訳聖書)に親しんだヘレニストのユダヤ人キリスト者であることは分かります。ヘブライ人への手紙のギリシャ語は、新約聖書の中で最も美しい文体であるそうです。また、ヘブライ人への手紙は、聖書の言葉を、ギリシャ語訳旧約聖書、いわゆる七十人訳聖書から引用しております。それゆえ、この手紙の著者は、ギリシャ語を話すヘレニストのユダヤ人キリスト者であったと考えられるのです。また、この手紙の著者は、この手紙の宛先である教会を最初から知っており、その一員であったようです。13章18節、19節に、こう記されています。「わたしたちのために祈ってください。わたしたちは、明かな良心を持っていると確信しており、すべてのことにおいて、立派にふるまいたいと思っています。特にお願いします。どうか、わたしがあなたがたのところへ早く帰れるように、祈ってください」。ある研究者の想像によれば、この教会の指導者たちが、教会の現状に憂いを覚え、著者に帰ってもらいたいと願ったのだが帰ることができなかった。それで、著者はこの手紙を教会に宛てて記したのであると言うのです(13:17参照)。また、この手紙の著者は、地上を歩まれたイエス・キリストを直接は知らなかったようです。2章3節に、「この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され」と記されています。著者も教会も、主イエスから直接教えを受けたことはなく、その弟子たちによって信じた者たちであったのです。また、著者は、テモテの知り合いでありました。13章23節にこう記されています。「わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。もし彼が早く来れば、一緒にわたしはあなたがたに会えるでしょう」。このように著者と教会は、パウロの弟子であったテモテを知っていたのです。

 次に、いつ記されたのかをお話したいと思います。この手紙がいつ記されたのかについてもよく分かりません。しかし、96年に記されたローマのクレメンスの手紙の中で、ヘブライ人への手紙が引用されていることから、それ以前であると考えられております。また、手紙を読みますと、エルサレム神殿で動物犠牲がささげられていることを前提としていることから、70年にローマ帝国によってエルサレムが滅ぼされる前に記されたと考えられます。さらに、テモテが釈放されたという記述を考慮に入れると、60年代後半に記されたのではないかと思います。

 次に、どこで記されたのかですが、これにもいろいろな説があります。著者が主イエスから直接教えを受けたことがないこと、神殿ではなく幕屋について記されていることから、エルサレムではないと考えられています。この手紙がどこで記されたかを知る一つの手がかりは、13章24節であります。「あなたがたのすべての指導者たち、またすべての聖なる者たちによろしく。イタリア出身の人たちが、あなたがたによろしくと言っています」。この「イタリア出身の人たちが、あなたがたによろしくと言っています」という言葉から、著者はイタリア、すなわちローマにいたと考えられるのです。また、この手紙がローマのクレメンスの手紙の中で引用されていることも、この手紙がローマで記されたことを支持します。私としては、ローマで記されたとする説をとりたいと思います。

 また、この手紙の宛先ですが、「ヘブライ人への手紙」という名称は、著者が付けたものではなく、後の時代の人が、他の手紙と区別するために付けたものであります。ヘブライ人とは旧約聖書の伝統に生きるユダヤ人のことです。手紙の内容から、後の人が、この手紙をユダヤ人キリスト者に宛てて記された手紙と考え、「ヘブライ人への手紙」と名付けたのでしょう。ただ、先程から言っておりますように、この手紙の著者も読者も、ギリシャ語を話す、七十人訳聖書に親しんだヘレニストのユダヤ人キリスト者であります。この手紙の宛先である教会がどこにあったのかもよく分かりません。エルサレムとローマ以外の地中海世界のどこかということぐらいしか言えないのです。ある研究者は、この手紙の宛先の教会は、ステファノの迫害によって散らされたヘレニストのユダヤ人キリスト者によって造られた群れであったと想像しております。

 このようによく分からないことだらけであるのは、パウロのように、手紙のはじめに、差出人、受取人、挨拶の言葉が記されていないからです。そもそも、ヘブライ人への手紙は、手紙ではなく説教であるという意見もあるのです。といいますのも、13章22節にこう記されているからです。「兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください、実際、わたしは手短に書いたのですから」。ここで「勧めの言葉」とありますが、これは聖書の説き明かしである説教のことであります(使徒13:15参照)。ヘブライ人への手紙は、結びの言葉をつけた説教であるとも言えるのです。よって、私は、ヘブライ人への手紙の著者を「説教者」と呼びたいと思います。

 説教者は、御子イエスが天使たちよりも、モーセよりも、ヨシュアよりも偉大な御方であること。イエス・キリストが大祭司であり、いけにえであること。イエス・キリストが新しい契約の仲保者であることを教えております。この手紙の内容から、宛先の教会の中から、イエス・キリストへの信仰を捨てて、ユダヤ人の会堂に戻ろうしていた人たちがいたことが分かります。なぜ、彼らはユダヤ人の会堂に戻り、神殿祭儀との繫がることを求めたのでしょうか?ある研究者は、「彼らが洗礼を受けた後に犯した罪について良心を痛めていたからである」と記しております。洗礼を受ける前の罪については、イエス・キリストにおいて赦された。しかし、イエス・キリストを信じた後に犯した罪の赦しについて、彼らは平安を得ることができなかった。それで、彼らは、旧約の動物犠牲の規定との繫がりを求めたと言うのです。そのような教会に対して、説教者は、旧約聖書からイエス・キリストが偉大な大祭司であり、御自身を永遠に効力のあるいけにえとしてささげらられたことを説き明かすのです。また、イエス・キリストにおいて、新しい契約の祝福が実現していることを説き明かすのであります。

 さて、緒論的なことはこれぐらいにしまして、今朝の御言葉、1章1節から4節までを見ていきたいと思います。

 1節から2節前半までをお読みします。

 神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くの仕方で先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。

 聖書は旧約と新約の大きく二つに分けられますが、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くの仕方で先祖に語られた」とは旧約時代を、「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」は新約時代を指しております。旧約聖書を読みますと、神様が預言者たちによって、多くのかたちで、また多くの仕方でイスラエルの民に語られたことが記されています。その同じ神様が、この終わりの時代には、御子イエス・キリストによって、わたしたちに語られたのです。「この終わりの時代」は、御子イエス・キリストにおいて神様が歴史に介入されたことによって到来しました。この手紙は60年代後半に記されたと申しましたが、それから2000年近くたつ現在も、「終わりの時代」であるのです。「神は、・・・・・・この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」。この御言葉は、現代の私たちにおいても、そのまま当てはまるのです。神様は、御子イエスによって、最終的に、また究極的に私たちに語られたのです。なぜなら、御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであるからです。

 2節後半から4節までをお読みします。

 神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。御子は、天使たちより優れた名を受け継がれたからです。

ヨハネによる福音書は、その冒頭で、人となる前のイエス・キリストを「言」(ことば)と言い表しましたが、ヘブライ人への手紙は、そのような区分をしておりません。人となられる前のイエス・キリストも、人となられた後のイエス・キリストも「御子」という言葉によって言い表しています。そして、事実、イエス・キリストは、人となる前も、そして人となられた後も御子であるのです。「神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました」。ここで説教者は、神様が御子イエスのために世界を造られたこと、また、御子イエスによって世界を造られたことを教えています(コロサイ1:16参照)。「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって」とありますが、ここには、神様が御子によって最終的に、究極的に語られたと言える根拠が記されています。ここで「反映」と訳されている言葉は、「輝き」とも訳すことができます。私たちは、神様の栄光の輝き、その反映を御子において見ることができるのです。また、「現れ」と訳されている言葉は、「刻印」とも訳すことができます。当時の貨幣には、ローマ皇帝の肖像が描かれていました。そのような貨幣は、ローマ皇帝の肖像の刻印を、柔らかくした金属に打ちつけることによって造られました。それと同じように、御子は神様の本質をあらわす完全な刻印であるのです。このことは、イエス様御自身が教えておられることでもあります。ヨハネによる福音書の14章8節以下で、「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うフィリポに対して、イエス様はこう言われました。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っているのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」。御子が神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであることは、イエス様御自身が語っておられることでもあるのです。

 「万物を御自分の力ある言葉によって支えておられます」。御子はこの世界を造られた御方であると同時に、この世界を力ある言葉によって支えておられる御方でもあります(コロサイ1:17参照)。御子は父なる神と力において等しい御方であるのです(ウェストミンスター小教理問6「神には、三つの位格があります。御父と、御子と、聖霊です。この三位は実体が同じで力と栄光において等しい、ひとりの神です」参照)。この御子が私たちの罪を清めるために、十字架について死んでくださり、復活して、天へと上げられたイエス・キリストであるのです。説教者が「人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」と記すとき、その御子は人とられた神の御子イエス・キリストのことであります。人となられた神の御子イエス・キリストが神様の右の座にお着きになったのです。古代の世界において、王の右の座は、王と共に支配する皇太子や大臣の座る座でありました。人となられた神の御子イエス・キリストは、その右の座にお座りになったのです。そのようにして、御子イエス・キリストは、天使たちよりも優れた名、御子という名を受け継がれたのです。

 今朝は最後に、1節、2節に戻って、その意味するところを確認して終わりたいと思います。ここで言われていることは、御子は最終的で、究極的な神様の啓示であるということです。このことは、実は福音書の中に記されていることであります。マタイによる福音書の17章に、山の上で、イエス様が栄光の姿に代わり、モーセとエリヤと語り合うという、いわゆる山上の変貌の場面が記されています。ペトロはその光景を見て感激のあまりイエス様にこう言いました。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆いました。そして、次のような声が雲の中から聞こえたのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。ペトロは、イエス様をモーセとエリヤと同じように扱おうとしました。しかし、神様は、モーセでもエリヤでもなく、独り子であるイエス・キリストに聞くようにと言われたのです。「神は、・・・・・・この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」。これは、かつて預言者たちによって、先祖に語られた言葉を、私たちが聞かなくてよいということでは決してありません。そうではなくて、かつて預言者たちによって語られた言葉を、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れである御子イエス・キリストに導かれて読まなければならないということであります。言い方を変えるならば、旧約聖書をイエス・キリストを証しする書物として、イエス・キリストにおいて成就する書物として読まなければならないということであります(ヨハネ5:39「聖書はわたしについて証しするものだ」、ルカ24:44「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」参照)。そして、そのことを見事にしているのが、ヘブライ人への手紙であるのです。ヘブライ人への手紙を学ぶことによって、私たちは旧約聖書をどのように読み解いていけばよいのかを学ぶことができるのです。

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