キリストの再臨を待ち望む 2008年8月17日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

聖句のアイコン聖書の言葉

1:1 パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。
1:2 わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。
1:3 あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。
1:4 神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。
1:5 わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。
1:6 そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、
1:7 マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。
1:8 主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。
1:9 彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、
1:10 更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。テサロニケの信徒への手紙一 1章1節~10節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、テサロニケの信徒への手紙一の第1章10節を中心にしてお話しをいたします。

 話しの流れを思い起こしていただくために、8節から10節までをお読みいたします。

 主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを、待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。

 このように前の文章との繋がりを見ると、10節は、至るところで伝えられているテサロニケ教会の信仰の内容であるということができます。また、テサロニケの信徒たちが偶像から離れて神に立ち帰ったもう一つの目的として、10節が記されていると読むことができます。テサロニケの信徒たちが偶像から離れて神に立ち帰ったのは、生けるまことの神に仕えるためであり、更にまた、御子が天から来られるのを待ち望むようになるためであったのです。このことは、パウロが彼らに伝えた福音のなかに、神の御子イエスが天から来られるという教えが含まれていたことを教えています。御子が天から来られる。それは喜びの知らせ、福音なのです。それゆえ、テサロニケの信徒たちは、御子が天から来られることを待ち望んでいたのです。そもそも、「御子が天から来られる」という教えは、イエスさまご自身に遡るものでありました。マルコによる福音書の第13章は、世の終わりについて教えておりますが、そこでイエスさまはこう仰せになりました(マルコ13:26、27)。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

 また、最高法院での裁判において、大祭司の「お前はほむべき方の子、メシアなのか」という質問に対して、イエスさまはこう仰せになりました(マルコ14:62)。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれ来るのを見る。」

ここでの「人の子」はイエスさま御自身のことでありますから、イエスさまは、御自分御が天から栄光の主としておいでになると予告されたのです。そのようにして、世の終わりは来ると仰せになったのであります。このイエスさまのお言葉の背後には、旧約聖書、ダニエル書第7章に記されている幻、メシア預言があると考えられております(ダニエル7:13、14)。

  夜の幻をなお見ていると、

  見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り、

  「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み

  権威、威光、王権を受けた。

  諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え

  彼の支配はとこしえに続き

  その統治は滅びることがない。

 イエスさまは、「日の老いたる者」つまり神さまから永遠の王権を受けた「人の子」として、天の雲に囲まれて来ると仰せになったのです。十字架の死から復活した後、天に上げられ、父なる神の右に座したもうイエス・キリストは、再びこの地上に栄光の主として来てくださるのです。

 それでは、天から来られるイエス・キリストは、そのとき一体何をなさるのでしょうか。それは、父なる神から全権を委ねられた者として、すべての人を裁くということです。マタイによる福音書の第25章31節から33節で、イエスさまはこう仰せになりました。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」とんで、46節。「こうして、この者どもは永遠の罰に入り、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

 イエスさまが、羊飼いが羊と山羊を分けるように、すべての人を永遠の命と永遠の罰へと分けられる。このイエスさまのお言葉の背後にも、ダニエル書の御言葉があると考えられています。ダニエル書の第10章から第12章までは、「終わりの時についての幻」が記されておりますが、その第12章1節から3節にこう記されているのです。

  その時、大天使長ミカエルが立つ。

  彼はお前の民の子らを守護する。

  その時まで、苦難が続く

  国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。

  しかし、その時には救われるであろう

  お前の民、あの書に記された人々は。

  多くの者が地の塵の中から目覚める。

  ある者は永遠の生命に入り

  ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。

  目覚めた人々は大空の光のように輝き

  多くの者の救いとなった人々は

    とこしえに星と輝く。

 ダニエル書は、世の終わりに、「ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」と預言しておりました。そして、イエスさまは、その裁き主こそ、雲に囲まれて天から来る御自分であると教えられたのです。そして、このことを復活したイエスさまは、使徒たちに力強く証しし、宣べ伝えるようにとお命じになったのです。使徒言行録の第10章40節以下で、ペトロはこう述べています。「神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められてた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

 私たちはここから、使徒たちが宣べ伝えた福音とは、十字架の死から三日目に復活し、天に上げられたイエスが、すべての人の裁き主として来られるという良い知らせであったことが分かるのです。イエス・キリストが十字架に死んで、復活してくださった、そこで福音は終わらない。十字架に死に復活させられたイエス・キリスト今天に上げられ、父なる神の右に座し、この世界を支配しておられる。そして、その御支配を完成してくださるために、再びこの地上に来て下さる。このキリストの再臨までが、使徒たちが宣べ伝えた、そしてパウロたちがテサロニケの信徒たちに宣べ伝えた福音であったのです。また、私たちが使徒信条において告白しているところの福音なのであります。

 続けてパウロは、「この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りから救ってくださるイエスです。」と述べております。このパウロの言葉は、旧約聖書において預言されていた「主の日の到来」を背景にしております。旧約聖書において主の日とは、主なる神ヤハウェの御栄光が現れる日であり、イスラエルの敵を滅ぼし、イスラエルを救ってくださる日と考えられておりました。そのことを教えている代表的な個所は、イザヤ書第13章に記されているバビロンについての託宣であります。イザヤはイスラエルの敵であるバビロンに対してこう述べるのです。イザヤ書第13章6節から13節までをお読みいたします。

 

  泣き叫べ、主の日が近づく。

  全能者が破壊する者を送られる。

  それゆえ、すべての手は弱くなり

  人は皆、勇気を失い、恐れる。

  彼らは痛みと苦しみに捕らえられ

  産婦のようにもだえ

  驚きのあまり、顔を見合わせ

  その顔は炎のようになる。

  見よ、主の日が来る。

  残忍な、怒りと憤りの日が。

  大地は荒廃させ

  そこから罪人を断つために。

  天のもろもろの星とその星座は光を放たず

  太陽は昇っても闇に閉ざされ

  月も光を輝かせない。

  

  わたしは世界をその悪のゆえに

  逆らう者をその罪のゆえに罰する。

  また傲慢な者の驕りを砕き

  横暴な者の高ぶりを挫く。

  わたしは、人を純金よりもまれなものとし

  オフィルの黄金より得難いものとする。

  わたしは天を振るわせる。

  大地はその基から揺れる。

  万軍の主の怒りのゆえに

  その憤りの日に。

 このイザヤの言葉を読みますと、主の日が怒りの日、憤りの日であることがよく分かります。そして、それはイスラエルの敵であるバビロンに対してというよりも、悪や罪、傲慢な者や横暴な者に注がれる怒りであることが分かるのです。それゆえ、預言者アモスは、善を求めず悪を求めるイスラエルの民にとっても主の日は破滅の日であると警告したのです。アモス書の第5章18節。「災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない。」

 旧約聖書は、マラキ書をもって閉じられておりますけども、その第3章19節以下でも、主の日の到来について預言されております。

 

  見よ、その日が来る。

  炉のように燃える日が、

  高慢な者、悪を行う者は

  すべてわらのようになる。

  到来するその日は、と万軍の主は言われる。

  彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。

  しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには

  義の太陽が昇る。

  その翼にはいやす力がある。

  あなたたちは牛舎の子牛のように

  躍り出て跳び回る。

  わたしが備えているその日に

  あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。

  彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。

  わが僕モーセの教えを思い起こせ。

  わたしは彼に、全イスラエルのため

  ホレブで掟と定めを命じておいた。

  見よ、わたしは

  大いなる恐るべき主の日が来る前に

  預言者エリヤをあなたたちに遣わす。

  彼は父の心を子に

  子の心を父に向けさせる。

  わたしが来て、破滅をもって

  この地を撃つことがないように。

 このように、旧約聖書は、主の日の到来の預言をもって終わっているのです。主の日が来る前に遣わされるエリヤとは、イエスさまによれば、洗礼者ヨハネでありました。そして、洗礼者ヨハネをもって新約聖書は書き始められるのです。ヨハネは、ヨルダン川で、悔い改めの洗礼を授けておりましたけども、そこでヨハネは、こう言っております(マタイ3:7)。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。」ヨハネが活動を始めたのは、マラキ書が記されてから400年近く経っておりました。けれども、洗礼者ヨハネは、主の日の到来を予告し、選民意識に凝り固まっていたユダヤ人に悔い改めを迫っていたのです。そして、ここでも主の日は、「神の怒りの日」と呼ばれているのです。神さまがお怒りになっておられる。これは、あまり私たちが考えないこと、いや考えたくないことかも知れません。けれども、主なる神は確かに、悪や罪に対しては怒りを燃やされる熱情の神なのです。神さまは聖なるお方、義なるお方であるがゆえに、悪や罪に対して怒りを燃やさずにはおれないのです。ここから分かることは、神の怒りと神の裁きとは一体的な関係にあると言うことです。そもそも、主の日とは、神の裁きの日であります。神の裁きの日とは、神の正しさ、神の義が貫かれる日です。その主の日が、なぜ神の怒りの日と言われるようになったのか。それは誰も神の裁きに耐え得ない罪人であるからです。それゆえ、罪人にとって神の裁きの日は、神の怒りの日となるのです。聖書は、生まれながらの人間は誰しも怒りの子であると教えております(エフェソ2:3)。人は誰もが罪をもって生まれ、日々罪を犯しておりますから、すべての人が神の怒りに価する者なのです。テサロニケの信徒たちは、御子が天から来るのを持ち望んでおりましたけども、神さまのご計画は、御子イエスによって、主の日をもたらすということでありました。ですから、パウロは、御子が天から来られることを語ったあとで、来るべき怒りについて記しているのです。

 主の正義が貫かれる主の日は、御子が再び天から来られることによって到来いたします。そうであれば、主の日は、私たち罪人にとって、神の怒りによって滅ぼされる、恐るべき日であるはずです。けれども、テサロニケの信徒たちは、主の日を待ち望むことができたのです。なぜなら、天から来られる御子イエスこそ、来るべき怒りから私たちを救ってくださるお方であるからです。なぜ、このようなことをパウロは、語ることができたのか。その答えが、「この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で」という言葉の中に隠されています。天から来られる御子イエスは、神によって死者の中から復活させられたお方でありました。イエスさまは、何の罪もなかったにも関わらず、私たち罪人の身代わりとして、刑罰としての死、十字架の死を死んでくださったのです。私たちに代わって、十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでくださったのです。イエスさまは、十字架において、私たち罪人が受けるべき神の怒りを受けてくださったのです。ある人は、このことをひらいしん避雷針にたとえて説明しております。本来、私たちに下るべき神の怒りは、私たちからそれて、イエス・キリストの十字架の上に落ちたのです。神は、イエス・キリストの十字架において御自身の罪に対する怒りを示されたのであります。聖書は、イエス・キリストの十字架によって、我々に対する神の愛が示されたと教えております(ローマ5:8、一ヨハネ4:10)。けれども、イエス・キリストの十字架が教えていることは、それだけではないのです。イエス・キリストの十字架は、私たちの罪に対する神の怒りがどれほどすさまじいものであるかを教えているのです。そして、神さまは、イエス・キリストを十字架の死から三日目に復活させることによって、イエス・キリストを信じる者は、神の怒りから救われることをお示しになられたのです。イエスさまは、あの十字架において、私たちに代わって罪に対する神の怒りをあますところなく受けてくださいました。それゆえ、イエス・キリストを信じる者は、来るべき怒りからすでに救われ、神との平和を得ているのです。「この世界を裁かれるお方は、私たちの罪のために裁かれたお方である。」それゆえ、私たちは、イエスさまが天から来られるのを待ち望むことができるのです。

 先日、ある方が、「人生とは待つことだ」と仰っているのを耳にしました。わたしはそれを聞いて、本当にそうだなぁと思いました。けれども、私たちは誰を待っているのでしょうか。私たちにとって、それは何より天から来られるイエス・キリストであります。イエス・キリストが天から来られる。そのとき、私たちの救い、この世界の救いは完成されるのです。ヨハネの黙示録第21章に預言されているように、神が人と共に住みたもう、もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない新しい世界が実現するのです。イエス・キリストは、新約聖書の最後のところで、「然り、わたしはすぐに来る。」と仰せになりました(黙22:20)。それゆえ、私たちも「アーメン、主イエスよ、来てください。」と祈りつつ、イエスさまが天から来られるのを待ち望むのです。「イエス・キリストを待つこと」。それが、私たちの人生なのであります。

関連する説教を探す関連する説教を探す