主イエスに倣う者 2008年7月20日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:1 パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。
1:2 わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。
1:3 あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。
1:4 神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。
1:5 わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。
1:6 そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、
1:7 マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。
1:8 主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。
1:9 彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、
1:10 更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。テサロニケの信徒への手紙一 1章1節~10節

原稿のアイコンメッセージ

はじめに.

 今朝は、6節と7節を中心にしてお話ししたいと思います。

 はじめに、6節と7節が前の文章とどのようなつながりにあるかを見ておきたいと思います。パウロは、4節で、「神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。」と語っておりました。パウロは、あるテサロニケ人たちに、神から愛されている兄弟たちと呼びかけ、あなたがたが神から選ばれたことを知っていると言うのです。神の選び、それは後にパウロがエフェソの信徒への手紙において豊かに展開しているように、「天地創造の前から定められていたキリストにある選び」であります。そして、この神の選びは、私たち人間の目には隠されているものなのです。しかし、パウロは、あるテサロニケ人たちに対して、「あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。」と断言するのです。そのように言いきることのできる第一の根拠が5節にこう記されておりました。「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。」あるテサロニケ人たちは、パウロが告げ知らせた福音を、聖霊の確信により、力ある神の言葉として受け入れた。ここに、パウロが、「あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。」と断言できる第一の根拠があるのです。そして、その第二の根拠が、今朝ご一緒に学ぼうとしている6節と7節に記されているのです。「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。」この事実を第二の根拠として、パウロは4節で、「あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。」と語っているのです。

1.苦難の中で与えられる喜び

 前の文章との繋がりはお分かりいただけたと思いますので、さっそく、6節と7節を見ていきましょう。

 そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。

 パウロは、5節で、テサロニケの信徒たちが、力と、聖霊と、強い確信とによって、福音を受け入れたと語っておりましたが、そのとき、彼らがどのような状況に置かれていたかが6節に記されています。つまり、彼らはひどい苦しみの中で御言葉を受け入れたのです。使徒言行録第17章に、パウロたちが、テサロニケで宣教した様子が記されておりますが、そこに、テサロニケの信徒たちが被った苦しみがどのようなものであったかを象徴する一つの騒動が記されています。

 しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人(パウロとシルワノ)を民衆の前に引き出そうとして捜した。しかし、二人が見つからなかったので、ヤソンと数人の兄弟を町の当局者のところへ引き立てて行って、大声で言った。「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています。」これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した。当局者たちは、ヤソンやほかの者たちから保証金を取ったうえで彼らを釈放した。

 これは、ユダヤ人によって引き起こされた騒動でありますけども、このような騒動を通して、他のテサロニケ人たちが教会に対して偏見を抱くようになったことは十分考えられることであります。事実、第2章14節にこう記されています。「兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。」

 テサロニケの信徒たちも、同胞のテサロニケ人たちから苦しめられたのです。このことは、9節の御言葉にあるように、テサロニケの信徒たちが偶像から離れて立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったからでありました。このことは、何もテサロニケ人の話しなどしなくとも、私たち自身のことを考えればよくお分かりいただけると思います。仏教や神道が、習俗のように考えられている日本社会において、偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになることは、しばしばひどい苦しみを伴う者であります。少なくとも、戦時中、戦前の日本において、キリスト者となることは、ひどい苦しみを伴なったのです。周りの人々から白眼視され、悪口を言われ、のけ者にされる。そのような苦しみの中で、テサロニケの信徒たちも、パウロたちが語る福音を受け入れたのです。それも、彼らは「聖霊による喜び」をもって御言葉を受け入れたのでありました。苦しみと喜び、これは本来、相容れないものであります。本当に苦しいときは、喜んでなどいられないと私たちは考えるのです。しかし、テサロニケの信徒たちは、ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れたのです。「聖霊による喜び」とは、聖霊を源とする、聖霊によって与えられる喜びのことであります。これは理屈というよりも、彼らが実際体験したことなのです。彼らだけではありません。私たちも、それぞれの苦しみの中で、イエスを神の御子、救い主と告白して以来、あずかっているところの喜びなのです。

2.苦難の中で喜ぶことのできる根拠

 主イエスのために苦しむとき、聖霊よる喜びが与えられる。このことは、主イエスが、山上の説教で仰せになったことでもあります。マタイによる福音書第5章10節から12節に次のように記されています。「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 また、このように主イエスに教えられ、聖霊を受けた使徒たちが、イエスの名のための辱めを喜んだことが使徒言行録の第5章に記されています。「一同(最高法院)はこの意見に従い、使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。」

 なぜ、主イエスは、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい」と言われれたのか。また、なぜ、使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだのか。それは、主イエスが、また使徒たちが、天における報いに目を注いでいたからであります。苦しみの中で、理由もなしに喜べと、主イエスは教えているのではありません。もし、喜ぶべき事柄もないのに、苦しみの中で喜べというならば、それはその人の人格を破壊してしまうことになります。ひどい苦しみを引き受けてでも、喜んで受け入れずにはおれない。それが、パウロが宣べ伝えたイエス・キリストの福音であったのです。福音とは、「喜びの知らせ」でありますが、テサロニケの信徒たちは、ひどい苦しみの中においても、福音を「喜びの知らせ」として受け入れたのです。その福音を受け入れることによって、いよいよひどい苦しみの中に置かれようとも、彼らは喜んで、御言葉を受け入れたのです。それは、やはり彼らも、天における報いを期待していたからだと思います。10節に「更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。」とありますけども、彼らの喜びは、主イエスが再び来たり給うときに与えられる、主からの報いに基づくものであったのです。そして、それは何より、主イエスへの愛に基づく喜びでもあります。親が愛するわが子のために苦しむことを喜びとするように、彼らは主イエスを愛するがゆえに、主イエスのために苦しむことを喜びとすることができたのです。もちろん、彼らが主イエスを愛することができたのは、聖霊の賜物であります。ローマの信徒への手紙第5章5節に「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちに注がれているからです。」とある通りであります。このように考えてみますと、「聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」という言葉は、「聖霊による愛をもって御言葉を受け入れ」と語り直すことができるのです。やがて来たらんとする主イエスへの愛が、苦しみの中にあっても、彼らに喜びをもたらしたのです。

 また、この「聖霊による喜び」は「聖霊による平安」とも言い換えることができます。主イエスは、ヨハネによる福音書の第14章25節以下で、弟子たちにこう仰せになりました。「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去っていくが、また、あなたがたのところへ戻ってくる』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。」

 ここで主イエスは、弟子たちに「わたしの平和を与える」と約束されました。それは、聖霊によって与えられる平和、この世が与えるのとは質の異なる平和であります。イエス・キリストにあって、すべての罪が赦され、神と和解し、神の家族の一員として受け入れられている、その魂のもっとも深いところに流れるところの平和、平安であります。私たちキリスト者は、たとえどのような苦難の中にありましても、その魂のもっとも深いところに、誰にも奪うことのできない平安が与えられているのです。

 テサロニケの信徒たちが、ひどい苦しみの中で、御言葉を受け入れることができたのは、聖霊の結ぶ実である愛と喜びと平和が与えられていたからなのです(ガラテヤ5:22)。そして、同じことが、私たちにおいても言えるのです。イエス・キリストを信じることは、この世的にみれば、苦しみを増すだけと思われるかも知れません。せっかくの日曜日の朝に礼拝に出席し、苦しい生活の中から献金をささげ、罪だなんだと生きる生活は、堅苦しい、損な生き方のように思えるかも知れません。けれども、イエス・キリストにあって選ばれている者たちは、喜んで日曜日の朝に礼拝に集い、乏しい中から喜んで献金し、喜んで自らを罪から守ろうとするのです。それは、私たちのうちにも、聖霊の結ぶ実である愛と喜びと平和が与えられているからなのです。

3.パウロに倣う者

 パウロは、テサロニケの信徒たちが、「わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり」と記しています。ここでの「主」は、何より「主イエス」のことでありますが、パウロたちに倣うことと、主イエスに倣うこととは別々のことではありません。テサロニケの信徒たちは、自分たちに福音を告げ知らせてくれたパウロに倣うことによって、主イエスに倣う者となるのです。のちにパウロは、コリントの信徒たちにこう書き送っています。「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」パウロが、「わたしに倣う者となれ」と言うとき、それはキリストに倣う者であるパウロに倣う者となれということであります。パウロに倣うこと、それはキリストに倣うための最も堅実で確かな道筋なのです。しかし、ここで注意したいことは、パウロは、ここで「わたしたちに倣う者となれ」あるいは「主に倣う者となれ」と言っているのではないということです。ここでは、そのようなことが命じられているのではなくて、その事実が述べられているのです。つまり、パウロは、テサロニケの信徒たちが、自分たちに倣う者、そして主イエスに倣う者となっている、その事実を告げているのです。テサロニケの信徒たちが、どのような点で、パウロたちに倣う者、そして主イエスに倣う者であったのか。それは何より、彼らがひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れた点にあるのです。

 パウロが、ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、また告げ知らせたことを、私たちは使徒言行録を通してこれまで学んできましたけども、パウロの喜びを表す言葉として、フィリピの信徒への手紙第3章1節から11節までをお読みしたいと思います。

 では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしに煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。

 あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。とはいえ、肉に頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今ではた他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

 ここには、ユダヤ社会のエリートであった、かつてのパウロの姿が描かれています。しかし、そこに一大転換が起こりました。それは「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今ではた他の一切を損失とみています。」と言い切ることのできるほどの大転換でありました。教会の迫害者であったパウロが、ダマスコ途上において、栄光の主イエスとまみえ、異邦人に福音を宣べ伝える使徒として任命されたのです。パウロがひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって受け入れ続けた御言葉とは、何より「使徒として福音を宣べ伝えよ」という主の御言葉であったのです。それゆえ、パウロ自身が、主にあって喜び、ひどい苦しみの中にあっても、福音を語り続けることができたのであります。パウロは、キリストの苦難と死にあずかることこそ、キリストの復活にあずかる道であることを確信して、ひどい苦しみの中でも、喜んで福音を語り続けることができたのです。

4.主イエスに倣う者

 それでは次に、主イエスは、どのように、ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れたのかを考えてみたいと思います。主イエスのことを考えるとき、この御言葉は、何より御自分において成就する旧約聖書の御言葉であると言えます。ルカによる福音書の第24章で、復活の主イエスは、弟子たちに現れて、こう仰せになりました。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」その旧約聖書に預言されていた御言葉を、主イエスは、ひどい苦しみの中で受け入れたのです。御自分が、イザヤ書第53章に描かれている苦難の僕として、贖いの死を遂げることを、主イエスは、ゲツセマネの祈りにおいて、さらには、十字架の苦しみの中で、聖霊による喜びをもって受け入れたのです。先程、わたしは、聖霊の喜び、それは私たちの心の奥底に流れる地下水脈のように絶えることのないものであると申しました。そして、このことは、聖霊によって処女マリアの胎に宿り、聖霊を注がれて、メシアとして歩まれたイエスさまにおいてこそ、言えることなのです。ルカによる福音書によれば、十字架に上げられた主イエスの最後の言葉は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」でありました。これは、詩編第31篇6節からの引用であり、当時のユダヤ人の就寝の祈りであったと言われます。ユダヤ人は、夜、「主よ、わたしの霊を御手にをゆだねます」と祈り、眠りについたのです。朝、無事に目を覚ますことができることを信じて、彼らはそのように祈ったのです。主イエスもそうであります。主イエスは、父なる神が、必ず御自分を起き上がらせてくださることを信じて、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と祈り、息を引き取られたのです。十字架の上においても、主イエスの心の奥底には、聖霊による平安があったのです。私たちが忘れてはならないこと。それは、主イエスが、父なる神の御心に喜んで従い、自発的に十字架の道を選ばれたということです。主イエスは、いやいや御言葉を受け入れたのではありません。それこそ、聖霊における愛と喜びをもって、御言葉を受け入れたのです。父なる神を愛するがゆえに、また私たちを愛するがゆえに、イエスさまは、喜んで十字架の苦難と死を受け入れたのです。

むすび.模範となったテサロニケの教会

 テサロニケの信徒たちが、ひどい苦しみの中で、聖霊における喜びをもって受け入れたとき、パウロは、自分自身の姿を、さらには主イエスのお姿をも重ねて思い起こすことができたのです。そして、それゆえに、パウロは、テサロニケの教会が、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったと語るのです。

 当時のギリシアはローマ帝国の属州となっており、大きくマケドニア州とアカイア州の二つの州からなっておりました。マケドニア州には、テサロニケの教会の他に、フィリピの教会、ベレアの教会がありました。また、アカイア州には、コリントの教会がありました。パウロは、テサロニケの教会に、それらの教会が倣うべき模範は、あなたたちだと言うのです。これは、最高のほめ言葉であります。テサロニケの教会は、パウロに倣う者、主イエスに倣う者であった。それゆえ、現代の私たちにとっても、テサロニケの教会は倣うべき模範であると言えるのです。私たちも、苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れた者として、テサロニケの教会に倣い、パウロに倣い、さらには主イエスに倣う者として歩んでいきたいと願います。

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