救われる唯一の名 2006年11月05日(日曜 朝の礼拝)

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救われる唯一の名

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 4章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:1 ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。
4:2 二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、
4:3 二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。
4:4 しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。
4:5 次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。
4:6 大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。
4:7 そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。
4:8 そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、
4:9 今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、
4:10 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。
4:11 この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。
4:12 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」使徒言行録 4章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、前々回と、2回にわたって神殿でのペトロの説教を学びましたが、今朝の御言葉はその続きとなります。先程は、1節から22節までをお読みしましたが、このところも2回に分けて学びたいと思います。今朝は、その前半1節から12節までをお話しいたします。

 1節から4節をお読みします。

 ペトロとヨハネが民衆に話しをしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活に宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数は五千人ほどになった。

 ペトロとヨハネが民衆に話してをいると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来ました。これは、ルカによる福音書の20章1節を思い起こさせる記述であります。イエス様が神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たち、長老たちが近づいて来たのでありました。それと同じように、神殿で民衆を教えるペトロとヨハネのもとに、祭司たちや、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいてきたのであります。ただ、ここで近づいてきた顔ぶれは異なっております。イエス様に近づいて来たのは、祭司長や律法学者、長老という最高法院のメンバーたちでありました。しかし、この時、ペトロとヨハネに近づいて来たのは、祭司たち、神殿守衛長、サドカイはの人々であったのです。この神殿守衛長とは、ルカによる福音書では、オリーブ山でイエス様を逮捕する場面で、登場してくる人物であります。神殿守衛長とは、大祭司の次の地位にあり、神殿の秩序を保つ責任者でありました。祭司たちやレビ人を監督し、神殿を警護する、それが神殿守衛長の務めであります。その神殿守衛長が祭司やサドカイ派の人々を従えて、ペトロとヨハネのもとに近づいてきた。ですから、彼らは、はじめから二人を捕らえるために近づいてきたと言えるのです。それは、神殿において、多くの人からなる集会が行われていたからです。4節を見ますと、「しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。」とあります。ペンテコステの説教において、三千人ほどの人が既に仲間に加わっておりましたから、ここではおよそ二千人もの人が、新たに仲間に加わったことになります。ですから、この日、ペトロとヨハネの周りには、二千人以上の人々が集まっていたことが分かるのです。また、この集会は、しばらくの間続いていたようであります。3章の1節を見ますと、ペトロとヨハネが神殿に上ったのは、午後三時の祈りの時でありました。けれども、4章3節を見ますと、二人を捕らえた時は、すでに日暮れであったと記されています。ですから、ペトロとヨハネは、2時間以上に渡って民衆を教え続けていたと考えられるのです。

 神殿において、大がかりな集会が2時間以上に渡って行われている。よって、神殿守衛長は、祭司たちやサドカイ派の人々と共に、ペトロとヨハネを捕らえにやって来たのです。そして、二人が一体何を教えているのかと耳を傾けてみると、何と二人は、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えていたのでありました。聖書は、それを聞いて「彼らはいらだち」と記しています。なぜ、彼らはいらだったのか。それは、祭司たちが属していたサドカイ派は、「死者の復活などない」と信じていたからです。このことは、ルカによる福音書の20章でサドカイ派の人々がイエス様と復活について問答した場面を思い起こさせます。その27節ではっきりとこう記されておりました。「さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。」こうして、イエス様との復活についての問答が始まるわけであります。今朝はその内容を繰り返しませんけども、イエス様は、復活の教えを彼らが正典と認めるモーセ五書の中から説き明かされたのでありました。そのイエス様のお言葉を聞いて、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」という者もおりました。律法学者のほとんどはファリサイ派に属していたと言われます。また、ファリサイ派は、死者の復活を信じる者たちでありますから、イエス様の復活の説き明かしに感心したわけであります。このように、イスラエル宗教には、サドカイ派とファリサイ派という大きく二つの宗派があったのでありますけども、復活については全く逆の立場を取っていたのであります。こう考えてきますと、イエス・キリストの復活という福音が、サドカイ派の人々、祭司たちには、なかなか受け入れられず、排斥されていったことは、当然の成り行きであったと言えるのです。そして、今朝の御言葉にはその始まりが記されている、こう読むことができるのです。

 5節から7節をお読みします。

 次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、誰の名によってああいうことをしたのか」と尋問した。

 次の日、議員、長老、律法学者たちが集まったと記されていますが、ここで「議員」と訳されている言葉は、3章17節で、「指導者たち」と訳されていた言葉と同じ言葉であります。ペトロは、指導者たちが無知のゆえに、命への導き手を殺してしまったと語ったわけでありますが、その「指導者たち」が、ここでは「議員」と訳されているのです。ですから、ここでの「議員」は「指導者たち」と訳した方がよかったのではないかと思います。といいますのは、それに続く、「長老たち」「律法学者たち」も最高法院の議員であったからです。

 また、ルカによる福音書の記述と重ねて読みますと、この指導者たちが「祭司長たち」のことを指すことが分かります。6節に、大祭司一族の名が列記されておりますけども、これは指導者たちがどのような者たちであったかを具体的に教えております。ユダヤの最高法院であるサンヘドリンは、大祭司を議長とする71名の議員からなり、そのメンバーは、祭司、長老、律法学者から構成されておりました。その最高法院にペトロとヨハネは、引き出されたのです。2ヶ月ほど前に、イエス様が引き出された、その最高法院の場に、今、使徒たちも引き出されたわけであります。最高法院の議員は、半円形に座り、使徒たちを真ん中に立たせて、こう尋問します。「お前たちは何の権威によって、誰の名によってああいうことをしたのか」

 この質問もイエス様への質問を思い起こさるものであります。イエス様もかつて「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのは誰か」と最高法院のメンバーに尋ねられたことがありました。このように、かつてイエス様に起こったことが、今、使徒たちの上にも起こっているのです。

 8節に、「そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った」と記されています。これは、かつてイエス様が弟子たちに約束されていたことが実現したことを教えています。イエス様はルカによる福音書12章11節でこう仰せになりました。「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのとき教えてくださる。」

 この主イエスの約束通り、ペトロは聖霊に満たされてこう語り出すのです。「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する良い行いと、その人が何によって癒されたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。」

 ここでの議員は、5節と同様「指導者たち」「祭司長たち」のことであります。ですから、ここで、ペトロは、祭司長たちと長老たちに呼びかけているのです。そして、ここで不思議にも、律法学者たちへの呼びかけが抜け落ちているのです。これは律法学者、ファリサイ派のグループが比較的、初代教会に好意的であったからではないかと考える人もおります。確かに、5章34節には、律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、使徒たちを擁護する発言をしております。詳しいことは分かりませんけども、復活を信じるファリサイ派が、後に使徒たちの教えを受け入れていった、受け入れやすかったことは事実でありますから、ここにその反映を見ることができるのかも知れません。ともかく、ここで先ずペトロは、自分たちが取り調べを受けているその理由を明らかにしようとします。そして、それを「病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということ」と捉え直すのです。このペトロの言葉には、自分たちを捕らえ、裁こうとする権力者たちへの非難が込められています。つまり、自分たちは、裁かれるような悪いことは何一つしていないとペトロはここで言いたいわけです。それどころか、彼らが為したことは、生まれながらに足の不自由な男を完全にいやすという良い行いであったのです。ここで、「いやされた」と訳されている言葉は、「救われた」とも訳すことができます。イエス様はよく「あなたの信仰があなたを救った」と仰せになりましたが、その「救った」と訳されている言葉が、この9節では、「いやされた」と訳されているのです。ちなみに、14節、22節にも「いやされた」と出てきますが、これは別の言葉でありまして、治療行為を表す言葉であります。ですから、この9節は、「その人が何によって救われたかについてであるならば」こう訳すことができるのです。ペトロは、足の不自由な男が、自分の足で立ち、歩けるようになった、ということに留まらず、この男を全人的に救ったお方について、これから述べようとしているのであります。

 ペトロは最高法院の議員たちを前にして、はっきりとこう申します。

「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

 ここで、ペトロは大胆にも、あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は復活させられた。そのイエス・キリストの名によって、この男は救われたのだと告げました。そして、この方こそ『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』であると断言するのです。これは、詩編118編22節からの引用であります。詩編118篇22節から24節には、こう記されておりました。

  家を建てる者の退けた石が

  隅の親石となった。

  これは主の御業

  わたしたちの目には驚くべきこと。

  今日こそ主の御業の日。

  今日を喜び祝い、喜び躍ろう。

 お気づきのように、ペトロは、ここで、そのまま引用したのではなくて、「あなたがた」という言葉を付け加えて語っております。つまり、ペトロはここで、家を建てる者こそ、ユダヤの最高法院の議員であるあなたがたに他ならないと語っているのです。その家を建てる者たちによって、捨てられた石を、神は建物の最も土台となる隅の親石となされた。この石こそ、あなたがたがメシア失格として十字架につけたイエスであった。しかし、神はそのイエスを死者の中から復活させ、天に上げられ、御自分の右に座らせるという仕方で、イスラエルという家の礎の石となされたのだとペトロは語るのです。

 この詩編118編22節は、イエス様御自身も引用なされた御言葉であります。「ぶどう園と農夫のたとえ」を語られたあとで、イエス様はこの言葉を引用なされました。ペトロとヨハネは、イエス様の十字架と復活を通して、この御言葉が、確かにイエス様の上に実現したことが分かったのであります。ですから、今、使徒たちは大胆に、あなたがたこそが、隅の親石を捨てた家を建てる者だと語るのです。そして、さらにこう続けます。

「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

 ペトロが、イエスの名にあくまでもこだわる理由、それは「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」からであります。それゆえに、ペトロはイエス・キリストの名にこだわり続ける、イエス・キリストの名に執着し続けるのです。

 よく、どの宗教を信じても行き着く先は同じだという言葉を耳にします。ちょうど、山を登るのに、色々な道があったとしても、その道はやがて同じ頂上にたどり着くように、どの宗教を信じていても、行き着く先は同じ天国であると言うのです。けれども、聖書はそのようなことは決して教えておりません。ペトロは、はっきりと申します。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

 宗教ならば何を信じていても救われるのではありません。ただイエス・キリストを信じる者だけが救われるのです。イエス・キリストの名を信じること、それが神が備えてくださった私たち人間が救われる道なのであります。イエス様御自身もヨハネによる福音書の14章6節でこう仰せになりました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のものに行くことはできない。」

 イエス・キリストという道を通らなければ、誰も父なる神のもとへ行くことはできないのです。すべての道が頂上に通じているわけではありません。イエス・キリストという道を通らなければ、誰も神のおられる頂上に到達することはできないのです。そのことを知っているがゆえに、使徒たちは、自らの危険を顧みずイエスの復活を語り続けるのです。そのことを知っているがゆえに、主イエスは、十字架の死に至るまで、父なる神の御心に従い抜かれたのであります。

 もし、私たちがこのことをあやふやにするならば、私たちの信仰生活は骨抜きになってしまいます。なぜ、私たちはイエス・キリストのみを信じ、礼拝をささげているのか。それは、私たちが救われるべき名は、イエス・キリストの名において他にないからであります。なぜ、私たちはイエス・キリストの福音を宣べ伝えるのか。それは、ほかのだれによっても、救いは得られないからであります。

 使徒パウロも、テモテへの手紙一の2章4節5節で、こう語っています。 神はすべての人々が救われて真理を知ることになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。

 神が人間に与えられた救われるべき名は、イエス・キリストただお一人である。こう聞きますと、随分、排他的だなぁと思われるかも知れません。けれども、このパウロの言葉はそうではないということを私たちに教えているのです。神様が望んでおられること、それはすべての人々がイエスの名によって救われる、そして真理を知るようになることなのであります。決して、神様は救われる者を少なくしようと願っているのではないのです。むしろ、すべての人がイエス・キリストを信じて救われるために、神は全世界にキリストの教会をお建てになり、その歩みを支え導いておられるのです。この羽生の地に、わたしたちが立てられていることも、そうであります。なぜ、このところに、イエス・キリストを信じる群れが起こされたのか。そして、その歩みを続けることがゆるされているのか。それは、私たちが、唯一の救い主であるイエス・キリストの名を告げ知らせるためであります。私たちを通して、神は全ての人々が救われるという望みを実現しようとしておられるのです。その初穂として、私たちは今、イエス・キリストを信じる者とされているのであります。

 最後に、なぜ、人間が救われるべき名はイエス・キリストの名の他にないのかについてもう少しお話しして終わりたいと思います。結論から申しますと、ただイエス・キリストにおいて、私たちは神を神として正しく知ることができるからであります。神は、イエス・キリストにおいて御自身を現してくださいました。ですから、ただイエス・キリストの名を信じることによってのみ、真の神様と人格的に出会うことができるのです。この方を他にして神様に出会おうとしても出会うことはできない。もし、出会ったとしても、それは偽りの神、偶像でしかないのであります。ですから、イエス・キリストの名を信じることが、私たちに人間の救いにはどうしても必要なのです。このことは、ヨハネによる福音書の17章3節のイエス様のお言葉を思い起こせばよくお分かりいただけると思います。イエス様はそこで、父なる神にこう祈られました。「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」

 人間の救い、永遠の命とは神を知ること、神との永遠の交わりに生きることに他なりません。そして、それはイエス・キリストを知ることと一つのことであるのです。神は、イエス・キリストを通して、御自身を現してくださいました。それゆえ、私たちが神を知り、神と共に生きる道は、イエス・キリストを信じる他にないのであります。私たちが主の日の礼拝を通して確認し、証ししていることはまさにこのことであります。

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