祝福を受け継ぐ民 2006年10月22日(日曜 朝の礼拝)

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祝福を受け継ぐ民

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 3章17節~26節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:17 ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。
3:18 しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。
3:19 だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。
3:20 こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。
3:21 このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。
3:22 モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。
3:23 この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』
3:24 預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。
3:25 あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。
3:26 それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」使徒言行録 3章17節~26節

原稿のアイコンメッセージ

前回は、16節までお話ししましたので、今朝は、17節からお話ししたいと思います。

 17節から19節をお読みいたします。

 ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このように実現なさったのです。

 ここでの「あんなこと」とは、13節から15節でペトロが指摘したことであります。彼らはイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。彼らは命への導き手であるイエスを殺してしまった。それが、ペトロが語る「あんなこと」であります。そして、ペトロは、イスラエルの兄弟たちが、「あんなこと」をしてしまったのは、指導者たちと同様に無知であったからであると語るのです。ここでの「指導者たち」とは、イエス様を逮捕し、裁いた最高法院のメンバーのことであります。イエス様をメシア不適格として、処刑しようした指導者たち同様、その決議に従い「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けたあなたがたも同じく無知であった、とペトロは語るのです。それでは、彼らは何について無知であったのか。それは言うまでもなく、イエスについてであります。イエスが、聖なる正しい方であり、命への導き手であることを、彼らは知らなかったのです。その無知のゆえに、彼らは、命への導き手であるイエスを殺してしまったのであります。

 しかし、それは神様の側からすれば、偶然でも、予想外な出来事でもありませんでした。なぜなら、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なされたからです。神は、人間の無知、また罪さえも用いられて、御自分の計画を進められるのです。

 前回、13節にある「神の僕イエス」という言葉に注目して、イエス様を「神の僕」と呼ぶとき、その背後にあるものは、何より、イザヤ書に預言されている「主の僕」であると申し上げました。ですから、この18節の「メシアの苦しみ」は「主の僕イエスの苦しみ」を指すと理解できるのです。イザヤ書には、主の僕について四つの歌が記されておりますが、また詩編にも主の僕の苦難を預言する詩編がいくつもございます(詩編22篇、31篇、69篇など)。それらを読みますと、そこにはイエス様のお姿がそのまま描かれていると錯覚してしまうほどであります。それほどまでに、すべての預言者の口を通して予告されていたメシアの苦しみがイエス様の上に実現したのです。そして、それは、指導者やイスラエルの人々の無知によるものであったのでありますけども、その背後には、私たち人間があずかり知ることのできない神様のご計画があったことをペトロはここで告げるのです。

 聖書は、知って犯す罪と知らずに犯す罪を区別することを教えています。たとえば、申命記19章の規定によれば、意図してではなく、積年の恨みによるのでもないのに隣人を殺してしまった場合には、復讐してはならず、その人は逃れの町で生き延びることができる、と記しております。

 イエス様も、ルカによる福音書12章10節でこう仰せになりました。「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。」

 聖霊を与えられずして、イエス様について悪口をいうことは赦される。聖霊は、「イエスは主である」と告白する霊でありますから、その聖霊を授かっていない無知ゆえに、イエス様について悪口をいうことは赦される。けれども、イエスを主と告白するキリスト者とされて、その恵みを味わった上で、人の子を知らないと聖霊の声を押し殺す、聖霊を冒涜する者はゆるされないと、イエス様は仰せになられたのです。

 また、イエス様は十字架の上でこう祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 まさに、ここでイエス様は、彼らがその無知のゆえに自分を十字架につけていると語り、その無知のゆえに、どうか赦してあげてほしいと父なる神に執り成しの祈りをささげられたのです。

 さらに、パウロもテモテへの手紙一の1章12節、13節でこう記しています。「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。」

 パウロは、あのダマスコ途上において、復活の主にまみえるまで、自分が迫害しているイエスが主であることを知りませんでした。それゆえに、神は自分を憐れんでくださった、憐れんで救ってくださり、さらには使徒としてくださったと語るのです。

 このように、無知のゆえに犯した罪には、憐れみの余地、悔い改めの機会が残されているのです。ましてや、それが神の救いのご計画の一部ならば、なおさらのことであります。ですから、ペトロは「自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」と語るのです。神の救いの計画は、彼らが悔い改めて罪から神へと立ち帰ることによって実現されていくものだからであります。

 20節をお読みいたします。

 こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたに前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。

 「こうして」とありますが、これは前の節との繋がりから言えば、「悔い改めて罪を赦していただく」ということであります。罪から神へと立ち帰り、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を消し去っていただく、そのようにして、主のもとから慰めの時が訪れると言うのです。この「慰めの時」と訳されている言葉は、「安息の期間」「休息の期間」とも訳すことができます。そして、これはイエス様の再臨によってもたらされるメシアの時代を指すと考えられているのです。この「慰めの時」を「安息の期間」と訳しますと、ヘブライ人への手紙3章、4章に記されている「神の安息にあずかる」という主題と重ねて読むことができます。ヘブライ人への手紙4章1節から3節前半にはこう記されています。「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちからでないように、気をつけましょう。というのは、わたしたちにも彼らと同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。」

 また、この「慰めの時」を「休息の期間」と訳しますと、テサロニケの信徒への手紙二の1章7節に記されている「休息」と重ねて読むことができます。テサロニケの信徒への手紙二の1章6節から7節にはこう記されています。「神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報い(休息)を実現なさいます。」

 また、イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と仰せになりました。ですから、私たちは、主のもとから訪れた「安息の期間」「休息の期間」に、すでにあずかっているのです。そして、主は、天へと上げられたイエス・キリストを再び遣わしてくださることによって、その「安息の期間」「休息の期間」を完全なものとしてくださるのです。以前、私は、神の救いは、「すでに実現しているが、いまだ完成していない」という「すでに」と「いまだ」の緊張関係の中で捉えなければならないと申し上げましたが、この「安息の期間」についても同じことが言えるのであります。

 復活の主イエスは、使徒たちの見ている前で、天へと上げられ、雲に迎え入れられました。そして、神の右に座し、約束された聖霊を御父から限りなく受け、弟子たちにも聖霊を注いでくださいました。さらには、主の名が信仰をもって唱えられるところに、聖霊において御臨在くださり、力強く働いてくださるのであります。けれども、それでは、いつまで、イエス様は天に留まっておられるのでしょうか。ペトロはこう語っております。21節。

 このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。

 この「万物が新しくなるその時」と訳されている言葉も、様々な翻訳が試みられるところであります。例えば、口語訳聖書は「万物更新の時」と訳しています。また新改訳聖書、文語訳聖書は「万物の改まる時」と訳しています。他にも「万物一新の時」「万物が再建される時」と訳している人もおります。つまり、「万物が新しくなるその時」とは、「終末において完成する創造の秩序の回復の時」と言うことができるのです。このことは、ローマの信徒への手紙8章のパウロの言葉を思い起こせば分かりやすいと思います。ローマの信徒への手紙の8章の18節から25節までを、少し長いですが、お読みいたします(新約284頁)。

 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光と比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望を持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけではなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちはこのような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

 はじめの人類であるアダムが神の掟に背いて、良き創造の状態から堕落したとき、その影響力は、彼自身には留まらず、全被造物へと及びました。なぜなら、アダムは全ての被造物を治めるものとして立てられた頭であったからです。アダムの堕落によって、地は呪われるものとなったのでありました。そして、パウロは、その被造世界がいつか滅びへの隷属から開放されることを待ち望みつつ、うめいていると語るのです。私たちは、地震や津波や台風といった自然の猛威に、そのうめきを見ることができるかも知れません。そして、霊の初穂をいただいているわたしたちが神の子とされること、体が贖われることによって、すべての被造物が私たちと共に栄光に輝く自由にあずかれる時が来ることを、パウロは教えているのです。

 被造物が滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる時、それこそ、ペトロが語りました「万物が新しくなるその時」なのであります。

 また、ヨハネは、黙示録の21章において、「万物が新しくなるその時」の様子を「新しい天と新しい地」という幻によって描いております。ヨハネの黙示録の21章1節から4節をお読みいたします(新約477頁)。

 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海がなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

 新しい天と新しい地において、神が共にいてくださり、もはや死もなく、悲しみも、嘆きも、労苦ない。このような世界がイエス・キリストの再臨によってもたらされる。そして、それが「万物が新しくなる時」なのであります。

 ペトロは、イエス様が万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっていると申しました。けれども、ここで注意したいことは、ペトロが、いつイエス様が地上に来られるかについては言っていないということです。ペトロがここで言っていることは、主なる神が今度イエス様を遣わしてくださるときは、万物が新しくなり、万物が完成されるときであるということであります。イエス様がいつおいでになるのか。それは隠された神様のご計画によるものでありまして、神様の主権に属することなのです。イエス様が教えられましたように、その日、その時は誰も知らないのです(マタイ24:36)。私たちに求められておりますことは、それがいつかを詮索することではなくて、今という時に、イエス・キリストを信じ、神の安息にあずかることなのであります。

 

 さらに、ペトロは、旧約聖書の権威でありますモーセに訴えて、イエスがどのようなお方であるかを説き明かしております。22節から23節。

 モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることは、何でも聞き従え。この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』

 ここでペトロが引用して言葉は、申命記の18章15節とレビ記23章29節の言葉が結び付いた、いわゆる複合預言であります。申命記の18章には、「民の中から滅ぼし絶やされる」という厳しい言葉はありません。そこには、ただ「その人の責任を追及する」と書いてあるだけであります。それでは、ペトロはなぜ、「民の中から滅ぼし絶やされる」というレビ記の言葉を付け加えたのでしょうか。それは、イエス様がモーセのような預言者に留まらず、モーセよりにまさる預言者であったからです(ルカ9:28-36、ヘブライ3:1-6)。イエス・キリストは、神の言そのものであり、神の右に座する主となられたからであります。ですから、この方に聞き従うか、従わないかはイスラエルの民であるかないか、の決定的な分岐点となるのです(ルカ2:14)。イエスの名によって洗礼を受け、その支配下に入るかどうか、それは神の民イスラエルとして留まり続けるかどうかの決断なのであります。ですから、ペトロはここで、必死になって、兄弟たちに、イエス・キリストに聞き従うようにと説得するのです。ペトロは、サムエルをはじめとする全ての預言者が今の時について告げていると語ります。モーセだけではない。すべての預言者たちもイエスについて語っている。「モーセと預言者」、これは旧約聖書を指す言葉であります。旧約聖書全体が、イエスについて告げていると言うのです。そして、あなたがたはその預言者の子孫ではないかと訴えるのです。預言者の子孫とは、預言者を通して語られた神の約束の後継者たちということであります。さらに、ペトロは、あなたがたは、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子であると申します。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました(創世22:18)。あなたから生まれる者、これこそ、ペトロの説教を聞いているイスラエルの民に他なりません。イスラエルの民は皆、このアブラハムの子孫であります。アブラハムからイスラエルという民族が生まれたのです。神様のご計画は、アブラハムの子孫を通して、全世界の民を祝福することにあったのです。神はその先祖たちとの契約の実現するために、僕イエスを立てて、まず御自分の民のもとへと遣わしてくださったのです。それは、他でもない、あなたがた一人一人を悪から離れさせて、その祝福にあずからせるためであったのです。

 ですから、ここで問題となっていることは、全世界の民を祝福するはずのイスラエルが、自らの力で悪から離れられず、神の祝福から遠い存在となっていたということなのです。そのイスラエルの民を悪から離れさせ、祝福にあずからせるために、神はまずイスラエルに僕イエスを遣わしてくださったのです(ルカ1:54-55、72-73)。神はアブラハムとの契約を実現するためにイエスを遣わしてくださったのです。ですから、このイエスこそ、アブラハムの子孫の中の子孫、アブラハムとの契約を実現する祝福の源であると言えるのです(ガラテヤ3:16を参照)。よって、神の僕イエスに聞き従うことは、神の民イスラエルであり続けることの絶対条件なのであります。イエスをメシアとして受け入れ、イエスに聞き従うことによって、本当に預言者の子孫であり、契約の子であるのかが分かるのです。そして、ここに、神の祝福がもはや一民族に限られない、すべての民族にもたらされる、その道筋が示されたのであります。神の祝福に至る道、それは罪から神へと立ち帰る、悔い改めの道であります。イスラエルの民は神の僕イエスを拒み、殺してしまいましたけども、神はイエス・キリストを復活させて、再びイスラエルの民を祝福しようとしておられるのであります。神はイエス・キリストの十字架を通して、私たち人間のおぞましい罪の姿をあばきだしました。それは、誰もが悔い改めて、罪赦されて、主の祝福にあずかるためであったのです。天におられるイエス・キリストは、今、ペトロを通して御自分の民を、その祝福へと招いておられるのです。

 今朝のペトロの説教は、民族としてのイスラエルに語られたものでありますけども、同じことが私たちにも言えると思います。私たちも、かつては神を知らず、神に敵対して歩んでおりましたけども、知らずに行っていたので、憐れみを受けたのです。私たちは、恵みによって悔い改め、イエス・キリストに聞き従うゆえに、神の祝福にあずかる者とされているのです。私たちは、旧約聖書の区分で言えば、神の契約と関わりのない異邦人でありましたけども、イエス・キリストを信じるという神の恵みによって、祝福を受け継ぐ民、神のイスラエルの一員とされているのです。そして、誰でも悔い改めて、イエス・キリストを信じるならば、神の祝福にあずかることができるのであります。

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