命への導き手 2006年10月08日(日曜 朝の礼拝)

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命への導き手

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 3章11節~16節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:11 さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。
3:12 これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。
3:13 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。
3:14 聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。
3:15 あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。
3:16 あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。

使徒言行録 3章11節~16節

原稿のアイコンメッセージ

今朝の御言葉には、2度目のペトロの説教が記されています。長い個所であり、また内容の豊かなところですので、今朝は、その前半部分、11節から16節までを中心にお話ししたいと思います。

 11節をお読みいたします。

 さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。

 私たちは、前回、美しい門のそばに座っていた足の不自由な男が、イエス・キリストの名によって踊り上がって立ち、歩き出したというお話しを学びました。この男は、生まれながらに足が不自由であり、神殿に詣でる人々の施しによって命をつないでいたのです。4章22節をみますと、この人は「四十歳を過ぎていた」とありますから、おそらく、何十年も美しい門のそばに置いてもらい、施しを乞うていたのだと思います。けれども、その男の人生を決定的に変える出会いが訪れたのです。それは、ペトロとヨハネとの出会いであり、何よりもイエス・キリストとの出会いでありました。彼はイエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩き出し、飛び跳ねて神を賛美したのです。そして、ペトロとヨハネと共に、神殿の境内へと入り、二人に付きまとっていたのです。このことは、考えてみると当然のことかも知れません。生まれつき不自由であった足を癒していただいたわけですから、命の恩人とも呼べる二人から離れず、感謝を表していたということは自然なことと言えます。

 「美しい門」のそばで施しを乞うていた足の不自由な男が、自分の足で立ち上がり、歩き、飛び跳ね、神を賛美している。その姿を見て民衆は皆非常に驚き、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいたペトロたちのもとに、一斉に集まってきたのです。

 ソロモンの回廊、これは神殿の外苑、異邦人の庭の東側にある回廊であります。ヨハネによる福音書の10章23節を見ますと、主イエスも、このソロモンの回廊でユダヤ人たちに教えられたことが記されています。かつて、主イエスが教えられた場所で、ペトロは、イスラエルの人々にこう呼びかけるのです。

 「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。」

 人々は、まるでペトロとヨハネが自分の力や信心によって、この男を癒したかのように、二人を見つめておりました。けれども、ペトロは、そうではない、とその誤解を解き、この男を癒したのは誰であるかを人々に告げるのです。そして、それは私たちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神によって栄光を受けたイエスによるものでありました。そもそも、彼らは神の民、「イスラエルの人たち」であるのですから、それほど驚く必要などなかったのです。ましてや、ペトロとヨハネが自分の力によってこの男を癒したと思う必要などなかったのです。聖書は、神が癒し主であることを教えています(出エジプト15:26)。そして、今、この男に起こったことも、その神と決して無関係のことではない。この男が癒されたのは、神がその僕イエスに栄光をお与えになったからに他ならないと語るのです。そして、このことは、神の契約に基づくものであるのです。神を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ぶとき、それは神を契約の神、契約に誠実な神であることを言い表しているのです(出エジプト3:15-17)。神はその契約の実現として僕イエスを遣わし、栄光をお与えになったのです。

 ここでの「その僕」とは「彼の僕」「神の僕」ということです。私たちはイエス様を様々な呼び方で呼びますけども、「僕イエス」とはほとんど呼ばないと思います。むしろ、私たちはイエス様を「主イエス」と呼ぶことが多いと思います。また、後の教会においても、「神の僕イエス」という呼び方はだんだんとしなくなっていったようです。それゆえ、ここで、ペトロがイエス様のことを「神の僕イエス」と呼んでいることは注目すべきことです。この「僕」という言葉は、奴隷という言葉ではなくて、大切なしもべを表す言葉が用いられています。自分の子供をも表す言葉がここで用いられているのです。そして、ペトロがイエスを「神の僕」と呼ぶとき、その心にあったものは、イザヤが預言してきた「主の僕」であったろうと思います。主の僕の第4の歌である52章13節にはこう記されています。

「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。」

 つまり、ペトロはイエスを「神の僕」と呼ぶことによって、イエスこそ、イザヤ書に預言されていた「主の僕」であると言っているのです。そして、この認識は、イエス様御自身にまで遡ることができるのです(ルカ22:37)。

 それでは、この主の僕はどのようにして栄光を受けるのか。それは、罪のないお方でありながら、御自分の民の罪を担い、身代わりの死を遂げ、復活するという仕方によってでありました。イザヤ書53章1節から5節にはこう記されています(旧約1149頁)。

  わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。

  主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

  乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように

  この人は主の前に育った。

  見るべき面影はなく

  輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

  彼は軽蔑され、人々に見捨てられ

  多くの痛みを負い、病を知っている。

  彼はわたしたちに顔を隠し

  わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

  彼が担ったのはわたしたちの病

  彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに

  わたしたちは思っていた

  神の手にかかり、打たれたから

  彼は苦しんでいるのだ、と。

  彼が刺し貫かれたのは

  わたしたちの背きのためであり

  彼が打ち砕かれたのは

  わたしたちの咎のためであった。

  彼の受けた懲らしめによって

    わたしたちに平和が与えられ

  彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 わたしたちは、思っていたのです。彼は自らの罪のゆえに苦しんでいるのだと。彼は自らの咎のゆえに、神の手にかかっているのだと。それゆえ、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していたのであります。

 そして、このイザヤの預言が、イスラエルの人々によって現実のものとなったのであります。イスラエルの人々は、イエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前で拒んだのです。彼らはイエスの「苦難の死」の意味を理解せず、聖なる正しい方を拒み、人殺しの男バラバを釈放するよう要求したのです。イスラエルの人々は、命の導き手を殺してしまった。彼らは、とんでもないことをしてしまったのであります。けれども、ペトロは、神はイエスを死者の中から復活させてくださったと語るのです。自分たちこそが、そのことの証人であると語るのです(申命19:15)。

 ここで「命への導き手」と訳されている言葉は、他にも様々な翻訳がなされています。ある人は「命の創始者」と訳しました。イエス・キリストにおいて新しい命が始まったと考えるのです。またある人は「命の第一人者」と訳しております。イエスは、栄光の体へと甦った最初の人であるから、イエスは命の第一人者であると言うのです。そして、この理解は、だいぶ「命への導き手」と近いものがあると思います。イエスを「命の導き手」という時、それではイエスはどのようにしてわたしたちを命へと導いてくださるのか。それは、わたしたちの罪のために死に、わたしたちの初穂として復活するという仕方によってでありました。神がイエスを死者の中から復活させられたこと自体が、イエスが命の導き手であることを証ししているのです。そして、何より足の不自由だったこの男が、今、歩くことができる、この事実がイエスが栄光をお受けになったことを証ししているのです。

 16節。あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全に癒したのです。

 ペトロは、足の不自由な男を見つめ、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と命じ、右手を差し出しました。そして、この男は、ペトロが差し出した右手に、自分の右手を重ねるという仕方で、自分の信仰を表したのであります。ペトロの、「イエス・キリストの名は、この男を立ち上がらせ、歩かせることができる」という信仰が、この足の不自由な男にも共有され、この男自身の信仰となったのでありました。よって、もし、イエス・キリストが、死んだままであったならば、イエスの名は、この男を歩かせることはできなかったはずです。そんな力はなかったはずです。けれども、実際、イエスの名は、あなたがたが見て知っているこの人を強くすることができた。それは他でもない、神がイエス・キリストを復活させられて、栄光をお与えになったからであると言うのであります。栄光を与えられた。それは。神がイエスを高く天へと上げられて、御自分の右の座に着かせたということであります。神の僕イエスが、私たちの罪を担って死んで、復活し、天へと上げられ、今、神の右に座しているがゆえに、この男は立ち上がって、歩き、神を賛美することができたのです。

 さらに、ペトロは、それは、その名を信じる信仰によるものである、と語ります。イエスが天におられ、全能の御力を持っている。けれども、それは信仰が無くては受け取ることはできないのであります。まさに信仰とは、イエス様の救いの恵みを受け取る手であると言えるのです。イエスの名が、この人を歩かせた根拠であると言うならば、その名を信じる信仰は、手段であると言えるのです。そして、それは「イエスによる信仰」と言われるように、一体的な関係にあるのです。

 ですから、逆を言えば、イエスの名を信じる信仰の無いところには、イエスの全能の御力は働くことができないのであります。このことは、イエス様が地上を歩まれたときにも見られたことであります。マルコによる福音書は、6章で、イエス様が故郷ナザレを訪れた場面を記しております。その5節、6節にこう記されています。「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、その他は何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。」

 イエス様は、故郷ナザレで、ごく僅かの病人しか癒すことができませんでした。それはなぜかと言うと、人々が不信仰であったからだと言うのです。イエス様には、あらゆる病を癒す力があるのでありますけども、それを信じ、受け入れる人が少なかったのです。それゆえ、イエス様は、ごくわずかの病人を癒されただけで、他には何も奇跡を行うことができなかったのです。

 けれども、この男が完全に癒されたことは、イエス様が天に上げられてからも、イエスの名を信じる者には、完全な癒しが与えられることを教えているのです。つまり、主イエスは、御自分の名が唱えられるところに、聖霊において御臨在くださり、力ある業を行ってくださるのです。天上に言ってしまったから、イエス様はこの地上で何もできなくなってしまったのではなくて、イエスの名が唱えられるところに、イエス様は聖霊において御臨在くださり、力ある業を行ってくださるのです。イエスの名を信じる信仰は、今でもうずくまる人々を立ち上がらせ、歩ませ続ける力を持っているのです。

 私は、前回今朝と2回に渡って、足の不自由な男について語ってきたのですが、もしかしたら、私はこの男をほめすぎているのではないかとも思います。11節に、「その男がペトロとヨハネに付きまとっていた」と記されておりまして、ペトロは民衆に「わたしたちが自分の力や信心によって、この人を歩かせたように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。」と問うておりました。けれども、誰よりもそのように思っていたのは、もしかしたら、癒されたこの男ではなかったかと思うのです。この男は、イエスの名によって立ち上がり、歩き出したわけでありますけども、しかし、ペトロとヨハネと共に歩いているうちに、自分を癒したのはイエスの名ではなくて、ペトロとヨハネであると勘違いするようになっていたのではないかと思うのです。このことは、説教のことを考えればよく分かると思います。説教とは、説教者を通して語られる神の言葉であります。わたしたちは、説教者を通して語られる神の言葉を聞きに、ここに集っているのです。けれども、そこで背後にいる神が忘れられて、説教者ばかりが目につくようになる。そして、説教を神の言葉としてではなくて、説教者自身の言葉として聴くようになってしまうということがあると思います。それと同じように、この男も、次第にペトロとヨハネが自分を癒したと考えるようになったのではないかと思うのです。しかし、この男は、16節のペトロの言葉によって、自分がイエスの名によって強くされたこと。そして、イエスの名を信じる信仰が自分を完全に癒したことを改めて知ることができたのです。このペトロの言葉を読みますと、私はルカによる福音書の8章に記されているイエス様の服に触れた長血の女のことを思い出します。この女は、イエス様の服に触れさえすれば、いやしていただけると信じ、後ろからこっそりとイエス様の服に触れたのでありました。そして、事実、12年間患っていた病が癒されたのです。しかし、イエス様が御自分に触れた者を見つけ出そうとされたがゆえに、この女は震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由と癒された次第を皆の前で話したのでありました。その女の話しを聴き終えて、イエス様はこう言われるのです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

 ここで、イエス様は、あなたを癒したのは、わたしの対するあなたの信仰であるとはっきりと仰せになりました。このイエス様のお言葉に支えられて、この女は、生涯、イエス様を信じる者として歩み続けたと思います。

 そして、今朝の御言葉に出てくる足の不自由であったこの男も、このペトロの言葉に支えられて、生涯イエス様を信じ続けることができたのではないかと思うのです。もちろん、このペトロの言葉は、この男のためだけではありません。イスラエルの人々が、神の僕イエスを、栄光の主として信じ、受け入れるためでありました。この男が癒されたのはそのためでもあったと言えるのです。栄光の主イエスは、この男の癒しを通して、御自身の名が力をもっておられること、そしてその力は、イエスの名を信じる信仰によって働くことを教えてくださったのです。

 イエスの名が唱えられる主の日の礼拝は、栄光の主イエスが聖霊において御臨在くださり、最も力強く働いてくださる、その場であります。イエス・キリストは、御自分の名によってささげられる礼拝を通して、私たちを立ち上がらせ、信仰の歩みを支えてくださり、永遠の命へと導いてくださるのです。

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