罪の赦しの約束 2006年9月17日(日曜 朝の礼拝)

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罪の赦しの約束

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 2章37節~41節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。
2:38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
2:39 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
2:40 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。
2:41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
使徒言行録 2章37節~41節

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 3回に渡ってペトロの説教を学んできましたが、今朝の御言葉には、そのペトロの説教を聞いた人々の反応が記されています。37節をお読みいたします。

 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。

 「これを聞いて」とありますが、これはペトロの説教全体と言えますけども、とりわけ36節のペトロの言葉を指しているのだと思います。36節で、ペトロは、イスラエルの全家の罪をはっきりと指摘しました。それは、神から遣わされたイエスをあなたがたは十字架につけて殺してしまったという罪であります。

 このペトロの言葉を聞いて、人々は、自分たちがとんでもないことをしてしまったことに気づいたわけであります。ペトロは説教の中で詩編の110篇が引用しましたが、その中に「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」という言葉があります。足台とするとは、敵を地面に投げ倒しまして、その首根っこを踏みつけるという完全な勝利の姿を描いております。人々は、神に滅ぼされるその敵に、自分たちがこのままではなってしまうことに気づいたのです。自分たちは、神が遣わされたお方を十字架につけることによって、神に逆らう者、神の敵となってしまった。そのことを、ペトロの説教を聞いた多くの人々が悟ったのでした。ですから、彼らはペトロをはじめとする使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねずにはおれなかったのです。

 するとペトロは彼らにこう言います。

 「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます」。

 ペトロがまず命じたこと、それは悔い改めることでありました。悔い改めるとは、罪から神へと方向転換をするということです。ただ、自分の犯した罪を後悔するのではなくて、罪から神へと立ち帰り、歩み出すことであります。

 この悔い改めに続いて、ペトロは「めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」と命じます。

 「めいめい」とありますから、これは「一人一人」ということです。家族を代表して一人が洗礼を受けるということではなくて、一人一人が洗礼を受けるということです。

 ここに「イエス・キリストの名によって」とありますが、ここで、突然、イエス・キリストという名が一つの固有名詞のように用いられています。36節に、「イエスを神は主とし、またメシアとなさったのです」とありますが、ここで、メシアと訳されている言葉はキリストであります。新共同訳聖書は、わざわざキリストという言葉をメシアと訳しているのです。ですから、この「イエス・キリストの名によって」という言うイエス・キリストが36節の言葉を受けているということが分かります。「イエスを、神は主とし、またキリストとなされた」。この言葉を受けて、ペトロは「イエス・キリストの名によって」と語っているわけです。イエス・キリストは、後に一つの固有名詞になりましたけども、もともとは信仰告白の言葉でありました。「イエス・キリスト」という言葉の中に、「イエスこそキリストである」という信仰が告白されているのです。「イエス・キリストの名によって洗礼を受ける」とは、「イエスはキリストである、と告白して洗礼を受ける」ということでもあるのです。

 使徒言行録の22章にパウロがユダヤ人に自分の回心を証しする言葉が記されています。そこでは、教会を滅ぼそうとダマスコへ向かう血気盛んなパウロの姿が語られています。しかし、栄光の主イエスに出会い、パウロは目が見えなくなり、人に手を引かれてダマスコに入るようになる。そのとき、アナニアという人がパウロのもとを訪れ、再び目を見えるようにし、こう言うのです。14節。

 「わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその証人となる者だからです。今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい」。

 ここに「その方の名を唱え、洗礼を受けて」とあります。これは、イエスを主、またキリストと告白するということを指しているのです。

 また、ローマの信徒への手紙の10章の9節と10節にはこう記されております。

 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるからです。

 また、コリントの信徒への手紙一の12章3節後半には、こう記されています。

 聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

 これらの聖句は、洗礼式を背景として記されていると考えられています。つまり、人々は「イエスはキリストである」「イエスは主である」と告白し、イエスの名による洗礼を受けたのです。 

 聖書において名は、単なる記号ではなく、その人の人格そのものと考えられていました。ですから、イエスの名によって洗礼を受けるということは、イエスに属する者となること、イエスの支配下に自分の身を置くことを表しています。イエスを主と呼ぶことは、これはまさにイエスのしもべとなるということでありますね。これはペトロが引用した詩編110編の「敵」のことを思い出していただけると分かりやすいと思います。イエスの名によって、洗礼を受け、その支配下に入れてもらわなければ、神と主イエスに逆らう敵となってしまうわけです。そして、ペトロの説教を聞いた人々は、このままでは自分たちは神の敵となり、神によって滅ぼされてしまうと悟ったわけであります。そのようにならないために、ペトロは「悔い改めて、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」と語ったのでありました。

 罪とは神に背くことであります。いや、神だけではなくて、罪とは神が主とし、メシアとなされたイエスに逆らうことであります。そして、事実、人々は、イエスを十字架につけるという仕方で逆らったのでありました。まさしく主の敵となってしまったわけです。このままでは滅ぼされていまうわけでありますから、それを免れるには、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただき、主イエスの民としていただくしか救われる道はないわけであります。そして、そのことを表す儀式が洗礼であったわけです。

 イエスの名によって洗礼を受け、イエスに属する者とされるとき、そこで与えられるものは、何より「罪の赦し」でありました。罪の赦し、これは、旧約聖書において、終わりの時に与えられると考えられておりました。ちょうど、終わりの時に、神の霊が全ての人に注がれると考えられていたように、終わりの時に、罪の赦しが与えられると考えられていたのです。例えば、イザヤ書の43章25節には、こう記されております。

 わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい

/あなたの罪を思い出さないことにする。

 また、エレミヤ書の31章には、新しい契約の預言が記されておりますが、その文脈の中で、34節にこう記されております。

 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

 また、エゼキエルの36章の25節以下には、水による清めと新しい霊を授けるという、まさに洗礼を思わせる預言が記されておりますが、その29節に、こう記されております。

 わたしはお前たちを、すべての汚れから救う。

 このように旧約聖書は、主によって罪の赦しが与えられることを預言しておりました。そしてペトロは、その預言がイエス・キリストの名による洗礼を受けることによって与えられると宣言したのです。

 なぜ、イエス・キリストの名による洗礼が、罪の赦しをもたらすのか。それは、イエス・キリストの死が、私たちの身代わりの死、私たちの罪を贖う贖罪の死であったからです。イザヤ書53章に預言されていた主のしもべこそが、イエス・キリストであったのです。イザヤ書の53章5節から6節にこう記されています。

 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。

 飛んで11節と12節をお読みいたします。

 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちをに担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。

 このイザヤ書の預言から分かりますように、イエス・キリストの十字架の死は、御自分の民の罪を贖う贖罪の死でありました。

 レビ記の17章11節に、「生き物の命は血の中にあるからである」「血はその中の命によって贖いをするのである」と記されています。血はその中の命によって贖いをする。この考え方に基づいて、旧約時代、イスラエルの民は、動物犠牲を献げ、一時的に罪を赦していただき、神を礼拝したのでありました。けれども、イエス・キリストは、御自分の貴い血潮によって、永遠の贖いを成し遂げてくださったのです。永遠の罪の赦しをもたらしてくださったのです。それゆえ、ペトロは大胆に、「イエス・キリストの名によって洗礼を受ければ、罪を赦していただくことができる」と語ることができたのです。

 そして、その罪の赦しの保証こそが、イエスは主であると告白する聖霊なのです。イエス・キリストの民であるということは、イエスを主、またキリストと告白する民であるということです。ですから、イエス・キリストを主と告白することと、聖霊を与えられるていることは、一つのことであると言えるのです。聖霊が与えられている者は、イエスを主と告白することができますし、イエスを主と告白する者は聖霊が与えられていると言えるのです。

 ペトロの言葉によれば、悔い改めて、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただいてから、そこで初めて聖霊が登場してくるわけですが、実は、聖霊は、ペトロの説教を通して、すでに人々の心に働いていてくださっていたわけです。聖霊が人々の心に働いてくださったゆえに、人々はペトロの説教に大いに心打たれたわけでありますし、聖霊が働いてくださったがゆえに、人々は悔い改めることができたのです。そして何より、イエスは主であると告白することができたのであります。ですから、聖霊なる神は、ペトロの語る説教を通して、ずっと働いておられたわけです。それでは、ペトロの「賜物として聖霊を受けます」という言葉をどのように理解したらよいのか。それは、私たちに働きかけてくださった聖霊が、私たちの内に住み込んでくださるということであります。旧約聖書に、何度も記されている約束に、「わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる」という約束があります。旧約時代において、この約束は臨在の幕屋や神殿を通して実現いたしました。そして、新約時代には、神の霊、聖霊が、私たちのうちに住み込んでくださる。私たちの体を神殿としてくださるという仕方で実現するのです(一コリント6:19)。それほどまでに、神は私たちと親しい交わりに生きてくださるというのであります。マタイによる福音書の最後で、復活されたイエス様が仰せになったのはこのことであります。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。主イエスの霊が、私たちのうちに住み込んでくださる、そのようにして、イエス様はいつも私たちと共にいてくださるのです。

 ペトロはさらに続けてこう語っています。39節。

 「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」。

 ここで、ペトロは、この神の約束が誰に対して有効であるのかを語っています。そして、それはこのペトロの説教を聞いている「あなたがた」はもちろんのこと、世代を超えたあなたがたの子供たちにも与えられているのです。そして、ユダヤという地域や民族に限られない、全世界の人々にも与えられているのであります。シナイ山において、モーセを通して与えられた旧い契約は、民族としてのイスラエルに与えられたものでありました。けれども、イエス・キリストによって締結された新しい契約、罪の赦しの約束は、あらゆる国の人々に与えられているのです(ルカ24:47参照)。ここに集う私たちにも与えられているのです。今、あなたたちは神から招かれている。だから、「邪悪なこの時代から救われなさい」とペトロは勧めるのです。

 ここで「邪悪な時代」と訳されている言葉は、「曲がった世代」とも訳すことができます。そして、これはかつてモーセが用いた言葉でありました。モーセは、荒れ野において神に背き続けた世代を「曲がった世代」と言い表しました(申命記32:5)。つまり、ペトロは、今の世代は、荒れ野において神に背いて滅びてしまったような「曲がった世代」であるというのです。その神に背いた世代に留まり続けるならば、あなたたちは滅んでしまう。だから、救っていただきたなさい。こうペトロは勧めているのです。この「救われなさい」という言葉、これはもとの言葉を見ますと、受動態の命令形で記されています。つまり、「神様に救っていただきなさい」ということであります。そして、それは、神が遣わされ、主とし、またメシアとなされたイエスを、自分の主、またメシアとして受け入れることによるのです。

 41節に、「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」と記されています。

 ここで、「加わった」と訳されている言葉も、もう少し丁寧に訳せば、「加えられた」となります。つまり、神によって加えられたということです。私は、この説教のはじめに、3回に渡ってペトロの説教を学んだと申しましたけども、この41節までをペトロの説教と呼んだ方が正しいかったなぁと今では思っております。なぜなら、「神の言葉は、出来事となる」からであります。神様が語られた言葉は、空しくは戻らない。それは神様の望むところを成し遂げ、神様の使命を必ず果たすのです(イザヤ55:11参照)。聖霊なる神は、ただ説教者だけに働くのではなく、その言葉を聞く一人一人の心に働いてくださり、神の言葉を神の言葉として受け入れさせてくださるのであります。私は、毎週、このところに立って説教をしておりますね。そして、礼拝が終わりますと、「ああ、終わった」とほっとするわけです。しかし、実は、説教というものは、そこで終わるのでものではないのです。私を通して語られた神様の言葉は、皆さんの心に受けとめられまして、その言葉によって皆さんの生活が変えられていく、主イエスに従う生活が形づくられていく。ここまできて、初めて語られた神様の言葉はその働きを終えたと言えるのだと思います。ですから、説教を完成するのは、皆さんお一人お一人であると言えるのです。もし、語られた説教が、皆さんに何の影響も及ぼさないならば、その説教は空しいものとなってしまったと言わざる得ないのであります。そこに、聴く者の責任が生じてくるわけですね。

 けれども、ペトロを通して語られた神の言葉は、空しく戻ることはありませんでした。いや、むしろ3千人という豊かな実りをもたらしたのであります。なぜ、3千人もの人がこの日加えられたのか。それは、もちろん聖霊なる神様のお働きでありますけども、もう少し分析してみますと、この人々は、実際、自分たちの目で、イエス様の十字架を目撃した者たちであったからであります。この人々は、エルサレムに住む信心深いユダヤ人でありました。イエス様は、50日ほどまえの過越の祭りのとき、同じエルサレムで十字架にかけられたのです。そして、それはエルサレムに滞在している者ならば、誰もが知っていたことなのです(ルカ24:18参照)。ルカによる福音書の23章を見ますと、イエス様が十字架につけられる場面が描かれています。その21節に「人々は『十字架につけろ、十字架につけろ』と叫び続けた」と記されています。また、23節にも「人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた」とあります。そして、イエス様が実際十字架につけられますと、35節に、「民衆は立って見つめていた」とあります。さらには、イエス様が息を引き取られますと、48節に「見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った」とあります。この一連の流れを見ますと、この時すでにペトロの説教を受け入れる備えができていたことが分かります。最高法院の決議に従い「十字架につけろ」と叫んでいた人々が、十字架の上で起こったイエス・キリストの出来事を見て、胸を打つほどの深い悲しみを抱えながら帰っていたのです。それから、50日たったペンテコステの日、イエスの弟子たちが、神はイエスをよみがえらせ、主とし、またメシアとなされたと宣言したとき、彼らは、ペトロの言葉を受け入れ、洗礼を受たのです。ここで、人々が悔い改めて、イエスの名による洗礼を受けたこと。これを、私は奇跡であると思っております。ペトロは、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と言いました。「あなたがたが十字架につけて殺したイエス」とペトロは言ったのです。ですから、悔い改めるということは、このペトロの言葉を認めるということであります。つまり、悔い改めるということは、自分たちがイエスを十字架につけて殺したということを認めることであります。このようなことが、生まれながらの人間に果たしてできるのでしょうか。私は、できないと思います。少し先の5章を見ますと、使徒たちが最高法院で尋問されるという場面が記されています。その28節で、大祭司は、使徒たちにこう言うのです。「お前たちは、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」。

 こう大祭司は言ってのけたわけです。大祭司と言えば、最高法院の議長でありまして、イエス様をピラトに引き渡した張本人であります。しかし、その大祭司の口から出て来たのは「お前たちは、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」という責任逃れ、責任転嫁の言葉でありました。ちょうど、堕落したばかりのアダムがその罪の責任を女になすりつけたように。また、女がその罪の責任を蛇になすりつけたように。私たち罪人というものは、自分の罪を認めることができないのです。自分の罪を認めることができない。そこに罪人の罪人たる所以があります。けれども、このペトロの説教を聞いた人々は、悔い改めまして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けることができたのです。これは聖霊による奇跡であります。そして、この奇跡がここに集う一人一人のうえにも起こったのです。

 今、第1週、第2週と求道者クラスをしております。先日、ある方と、第二の誓約について学んでおりました。第二の誓約は次のようなものです。「私は自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに価し、神の憐れみによらなければ、望みのないことを認めます」。

 この誓約もですね、生まれながらの人間にはできないと思うのですね。自分が神の御前に罪人だ。私は神の憐れみによらなければ何の望みもない。こういうことを生まれながらの人間は認めることはできないと思います。けれども、罪を認める、罪人である自分に絶望するということは、とても大切なことであるわけです。この第二の誓約に続いて「イエス・キリストを神の御子、また罪人の救い主と信じます」という誓約があります。しかし、もし、第二の誓約がしっかりと腹の中に収まっていないならば、この第三の誓約を誓うことは出来ないのです。罪が分からなければ、救いも分からないのです。罪人である自分に絶望しないで、イエス様を信じたとしても、それは何かあれば教会を去っていくのです。イエス様からすぐに離れていくのです。罪が分からないから、救いが分からないのです。ですから、私は、自分の罪というものを分かっていただこうと、言葉を尽くして説明しました。シナイ山で与えられた十戒を学んだり、山上の説教で、イエス様が「兄弟に対して馬鹿という者は最高法院に引き渡される」という言葉を引きながら、神様は、私たちの心の罪さえも裁かれるのだと語りました。けれども、今、考えてみますと、そんなにくどくど語る必要はなかったのだと思います。私たちの罪、私たちの罪の姿、それはどこに端的に現れたのか。それは、神が遣わされたイエスを十字架につけて殺したということにあるのです。ペトロは、ここで「あなたがたが十字架につけて殺したイエス」と言いました。しかし、ペトロはこの言葉を語るとき、おそらく、心に痛みを覚えていたと思います。なぜなら、ペトロ自身が、イエス様が捕らえられた夜、三度もイエス様との関係を否定した者であったからです。「あなたがたが殺した」と言っておりますけども、ペトロの心からすれば「わたしたち」ではなかったかと思います。「わたしたちが殺したイエス」「私たち人間が殺したイエス」ということであります。私たちは、イエス様が私たちの罪のために死んでくださったと信じております。それは、言い換えるならば、私たち罪人がイエスを殺したとも言えるのではないでしょうか。

 ローマの信徒への手紙の4章25節に、こう記されています。

 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。

 これを少しもじっていうならば、「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちに罪の赦しを宣言するために復活させられた」と言えるのです。ペトロをはじめとする12使徒は、イエスの名による罪の赦しの約束を大胆に宣べ伝えました。それはですね、彼ら自身がイエス様によって罪赦された者たちであったからです。イエス様を置いて、わが身かわいさに逃げてしまった自分たちを、復活の主は責めることなく、赦してくださった。食卓の交わりへと迎え入れてくださったのであります。12使徒自身が、イエス様によって罪赦された者たちであったのです。それゆえに彼らは、大胆にイスラエルの罪を指摘し、罪の赦しの約束を宣べ伝えることができたのです。私たちは今朝、私たちの罪がイエス・キリストを十字架につけた、その罪であることを覚えたいと思います。そして、その罪の赦しがイエス・キリストにおいて提供されていることを覚えたいと願うのであります。

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