救い主イエス 2006年9月10日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

救い主イエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 2章33節~36節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:33 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。
2:34 ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。
2:35 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』
2:36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」使徒言行録 2章33節~36節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、前々回とペトロの説教を学んできましたが、今朝はその最後となります。

 前回は、詩編16篇を通して、イエス様の復活について教えられました。今朝は、その復活されたイエス様が天へと上げられる、イエス様の昇天と着座について学びたいと思います。

 ペトロは、32、33節でこう語っています。

 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。

 十字架につけられ、殺されたイエス様を神は死から三日目に復活させられました。そして、復活されたイエス様は、ペトロをはじめとする使徒たちにその姿を現してくださました。それも、40日にわたって現れ、彼らと食事を共にし、神の国について教えられたのです。そして、彼らの見ている目の前で、天へと上げられたのでありました。

 天に上げられる前に、イエス様は使徒たちにこう仰せになりました。1章4節。

 「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

 さらに、このようにも仰せになりました。1章8節。

 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あながたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 ペトロは、このイエス様の約束が、今、自分たちの上に実現しているのだと語っているのです。この33節に、「イエスは神の右に上げられ」とあります。古代の社会において、王の右の座は、皇太子や大臣の座であり、王と共に統治する力の座でありました。イエス様は、その神の右の座に上げられたと言うのです。また、「約束された聖霊を御父から受けて」とあります。イスラエルにおいて、王は、油を注ぎの儀式によって任職いたしました。メシアとはもともと油注がれた者という意味であります。そして、この油は、神様の特別な賜物、聖霊を表すものであったのです。ですから、イエス様が神の右に上げられ、御父から聖霊を注がれたということは、36節にありますように、神がイエスを主とし、メシアとなさったということに他ならないのです。

 この33節で、ペトロは微妙な言い回しをしています。ここで、ペトロは、自分たちが聖霊を直接、神から注がれたとは語らずに、まずイエスが御父から聖霊を受け、そのイエスから聖霊が自分たちに注がれたのだと語っています。聖霊は、ただイエス様を通して与えられるのです。イエス様は、全ての弟子に分け与えて余りあるほど、限りなく聖霊を御父からお受けになったのです(ヨハネ7:37-39参照)。

 ルカによる福音書の3章を見ますと、イエス様が、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられ、祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように降った。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえたと記されています。そして、ここからイエス様は公に救い主として任職されたと理解されるのです。しかし、もっと遡れば、このイエスというお方は、そもそも救い主としてお生まれになったのでありました。天使が羊飼いたちに、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」と告げた通りであります(ルカ2:11)。また、もっと遡れば、天使ガブリエルは、処女マリアに、こう告げました。「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカ1:32、33)。

 このように、イエス様は、救い主、メシアとしてお生まれになりました。そして、およそ30歳になられたとき、ヨハネの宣教に導かれるようにして、公に救い主としてのお働きを始められたのです。そして、今、そのメシアとしてのお働きを終えて、つまり贖いの御業を終えて、神の右に上げられ、御父から聖霊を限りなくお受けになったのです。これは、公生涯のはじめに、イエス様の上に聖霊が鳩のように降ってきたこととはスケールが違うわけであります。神の右に上げられ、御父から聖霊を限りなく受けるということ、これは、イエス様が、この全世界、全宇宙の主となられたということであります。マタイによる福音書の最後で、復活されたイエス様が仰せになっていることはまさにこのことであります。イエス様は、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と仰せになりました。神の右に座し、聖霊を限りなく受けるとは、そういうことであります。イエス様は、天と地と一切の権能を授かる王の王、主の主となられたのです。

 このことを、使徒パウロも書簡の中で何度も教えています。例えば、エフェソの信徒への手紙1章20節(-21節)にはこう記されています。

 神は、この力をキリストに働かせ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。

 聖霊がイエスの弟子たちに注がれたこと。それは、イエス様が天において神の右に座し、御父から聖霊を限りなく受けたことの証拠と言えるのです。そして、一同が他の国々の言葉で神の偉大な御業を語り出す、その有様を見聞きしている「あなたがた」自身が、そのことの証人であると言えるのです。

 私たちは、直接、この肉の目で、復活されたイエス様にお会いしたことはありません。また、イエス様が天へと上げられた様子を見たわけではありません。けれども、私たちに「イエスは主である」と告白する聖霊が与えられている。また、神を「アッバ、父よ」と呼ぶ聖霊が与えられている。その事実によって、イエスが復活し、天へと上げられ、御父から溢れるほどに聖霊をお受けになったことが分かるのです。ここに、主イエスを信じる者たちが集まっている。そのお一人お一人の姿を通して、私たちは、今もイエス様が神の右に座し、生きて働いておられることが分かるのであります。 

 続く34節で、ペトロは、このことを旧約聖書に訴えて、明らかにしようといたします。34節。

 ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主はわたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』

 ここで引用しているのは、詩編110篇であります。この詩編は、表題に「ダビデの詩」とありますように、ダビデが歌った詩編、ダビデの詩編と考えられておりました。復活前のイエス様がこの詩編を引用して、「ダビデがメシアを主と呼んでいる」と言われたように、当時、この詩編はダビデが来たるべきメシアについて預言したものと考えられていたのです。ここで「主はわたしの主にお告げになった」とありますが、これは元のギリシャ語ですと、どちらもキュリオスという言葉が使われています。しかし、ヘブライ語の旧約聖書を調べてみますと、はじめの主は主なる神を表すヤハウェという言葉が、次の主は、神にも人にも用いられる主人を表すアドナイという言葉が用いられています。ですから、はじめの主はイスラエルの神ヤハウェ、神様のことを指し、二番目の主は、メシアを指すと考えられたわけです。このようにイエス様の時代、この詩編110篇はメシア預言として読まれていたわけです。けれども、もともとはそうではなかったようです。聖書の研究者の間で、ほぼ一致していることは、この詩編は、宮廷の預言者によって、ダビデについて歌われた詩編であったということであります。宮廷に仕える預言者がダビデ王について歌った詩編であったと言うのです。詩編の表題に「ダビデの詩」とありますけども、これは必ずしも、作者を表すものではありませんで、「ダビデについての詩」とも解釈できるのです。おそらく、ダビデ王朝の時代、イスラエルが一番華やいでいた時代に歌われたものではないかと考えられています。もちろん、ペトロが言っているように、ダビデは天に昇ったわけではありまん。けれども、神の民イスラエルを治める王が即位するとき、このような荘厳な言い回しをしたのだと思いますね。詩編でありますから、詩的な言葉で、王の即位を宣言したわけです。けれども、これが後に、ダビデの詩として理解され、この主、アドナイはダビデではなく、やがて来るメシアを指すと理解されるようになったのです。それは、イスラエルにこの詩編を現実のこととして歌えない、王のいない時代が続いたからであります。詩編の中には、王の即位の詩編と呼ばれるものがいくつかありますが、そのような詩編は、王がいなくなっても、礼拝の中で歌われ続けたわけです。イスラエルの12部族が統一王国を保っていたのは、ダビデ、ソロモンと僅か2代です。その後は、北王国イスラエルと、南王国ユダに分裂してしまう。そして、北王国イスラエルはアッシリア帝国に、南王国ユダは、バビロン帝国に、それぞれ滅ぼされてしまうわけです。イエス様の時代、王が絶えてから、もう何百年とたっていたわけであります。そのような状況にあって、この詩編110篇を礼拝の中で歌うとどうなっていくのか。人々は、これを再解釈して歌うようになるわけですね。つまり、これはやがて来るメシアについての詩編だと理解して歌うようになるわけです。このようにして、詩編110編はメシアの詩編として歌われるようになったのです。そして、ペトロは、この預言がイエス様において実現したのだというのであります。

 ですから、ペトロはこう大胆に宣言をいたします。36節。

 だから、イスラエルの全家は、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

 ペトロは、「イスラエルの全家は」と申しました。イスラエルの全ての家、イスラエルに属する全ての人々ということであります。なぜ、イスラエルの全ての人が知らなければならないのか。それは、何より、イエスが、イスラエルの全家を治める主、メシアとなられたからです。ダビデの預言はイエスにおいて実現し、イエスが今、神の右に座し、イスラエルの王、いや全世界、全宇宙の王となられたことを、イスラエルの全ての人々が知らなければならないのです。そして、それは他でもない、あなたがたが十字架につけて殺したイエスであるというのです。最高法院がメシア不適格として捨てたこのイエスを、神は死から復活させられ、御自分の右に上げ、主とし、またメシアとなさったのであります。

 神はイエスを主となされたという時、それは、イエスが神と等しいお方、礼拝されるべきお方となられたということであります(フィリピ2:6-11)。また、イエスは主となられたということ。これは言い換えるならば、イエスは、その地位においても神の子となられたということであります。復活前、イエス様は最高法院で尋問された際、こう仰せになりました。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」(ルカ22:67-69)。

 このお言葉から、イエス様が、死から復活し、さらには天に上げられ神の右に座することを信じていたことが分かります。旧約聖書の詩編110篇やダニエル書の7章の預言から、イエス様はやがて御自分が、神から権威、威光、王権をとこしえに与えられることを知っていたのです。このイエス様の言葉を受けて、最高法院の面々は、「では、おまえは神の子か」と申します。つまり、ここで前提とされているのは、全能の神の右に座る者は、神の子でしかあり得ないということです。王の右の座に、その息子、皇太子が座りますように。神の右の座に着くのは、神の子でしかあり得ないということです。ですから、イエス様が、神の右の座に着かれたということは、神とこの世界を共同統治なさる神の子となられたということであるのです。

 パウロがローマの信徒への手紙の冒頭で記していることはこのことであります。パウロはこう記しています。

 この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。(ローマ1:2-4)。

 イエス様は、聖霊によって処女マリアから生まれるという仕方で、神の子でありましたけども、それが公に明かとされたのは、死者の中からの復活によってでありました。いや、さらには、父なる神の右に上げられ、聖霊を限りなくお受けになり、その聖霊を御自分の民に注ぐという仕方においてであったのです。ペトロがこの説教で、はじめに引用したヨエルの預言の言葉で言えば、「わたしの僕」や「わたしのはしため」に霊を注ぐ、この「わたし」こそが、神の右に上げられた主イエスであったのです。「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」この主こそが、あなたがたが十字架につけて殺したイエスであったのです。

 ペトロは、これまで、ずーっとこの説教を、神を主語として語ってきました。22節に、「ナザレのイエスこそ、神から遣わされた方です。」とあります。神がナザレのイエスを遣わされたのです。さらにこう続きます。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによってそのことをあなたがたに証明なさいました。

 神がイエスを通して、力ある業を行い、神がイエスを御自分が遣わした者であることを証明なされたのです。

 23節。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、

 イエス様の地上での歩み、それは十字架の死に至るまで、神様がお定めになられたものでありました。

 24節。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。

 32節にも「神はこのイエスを復活させられたのです。」とあります。

 神様がイエス様を死から、復活させられた。他でもない神が復活させた。このことが2度にわたって強調されています。

 最後、36節。神は(イエスを)主とし、またメシアとなさったのです。

 このように、ペトロが、ここで語っていることは、イエスにおいて起こった神の御業、神の出来事であります。まさしく説教とは、神の御業を語ることでありました。イエスが復活し、神の右に上げられ、限りなく聖霊を受け、主となり、メシアとなられたこと。それはすべて、神の御業なのであります。それゆえ、使徒ヨハネはその第一の手紙でこう記すことができたのです。新約聖書の446頁。ヨハネの手紙一の5章9節から11節までをお読みいたします。

 わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。神の子を信じる人には、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。

 神が、イエスを死からよみがえらせ、神が、イエスを天へと上げられた。そして、神は、このイエスを通して、御自分の霊を私たちに与えようとしておられる。私たちを救おうとしておられる。ですから、イエスにおいてなされた神の証しを信じない者は、神を偽り者にしてしまうというのです。信じないということは、神に対して中立なのではありません。それは神を偽り者とすることだ。神を嘘つきとすることだと言っているのです。それゆえ、イスラエルの全家ばかりではない。生きとし生ける者が、神がイエスを主とし、またメシアとなされたことを、信じ受け入れなければならないのです。ユダヤ人ばかりではない。私たちが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、メシアとなされたのです。イエス・キリストは、今も、神の右に座す、王の王、主の主であります。そして、主イエスは再びこの地上に来てくださるお方なのです。主イエスから聖霊を注がれた私たちが、主の日ごとに証しするのは、まさにそのことであるのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す