復活の証人 2006年9月03日(日曜 朝の礼拝)

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復活の証人

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 2章22節~32節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:22 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。
2:23 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。
2:24 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。
2:25 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。
2:26 だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。
2:27 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。
2:28 あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』
2:29 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。
2:30 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。
2:31 そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。
2:32 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。使徒言行録 2章22節~32節

原稿のアイコンメッセージ

 前回は、14節から21節までをお話しいたしました。今朝はその続きの22節から32節までをお話ししたいと思います。

 ペトロは、この説教を「あの人たちは、新しいぶどう酒によっているのだ」と言って、あざける者たちに弁明する形で語り始めました。そして、これこそ、預言者ヨエルを通して言われていたことであると、弟子たちの上に起こった出来事の意味を説き明かしたのです。一同が他の国々の言葉で神の偉大な御業を語り出した。これこそ、終わりの時に約束されていた聖霊によるものだとペトロは説き明かしたのです。それに続いて、今朝の22節以下では、ナザレの人イエスについて語られています。なぜなら、ペトロの理解によれば、弟子たち一同の上に聖霊を注いでくださったのは、復活し天へと上げられた主イエスであったからです(使徒2:32)。ペトロはまずはっきりと「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」と語ります。なぜ、イエスこそ、神から遣わされた方であると断言できるのか。それは、イエスが「あなたがたの間」で行った奇跡や不思議な業やしるしによるのです。神は、奇跡や不思議な業やしるしによって、ナザレのイエスこそ、御自分が遣わした者であることを証明されたのです。

 ルカによる福音書の4章を見ますと、イエス様がお育ちになったナザレで、説教された場面が記されております。イエス様はそこで、イザヤ書の御言葉を朗読いたしました。こういう御言葉です。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に開放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

 このイザヤ書の御言葉を読み終えると、イエス様は席につきこう話し始められました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。

 これは、イザヤが預言したこの「わたし」、主から遣わされたこの「わたし」こそ、自分であるとイエス様が理解していたことを教えています。その前の3章を見れば、「イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように見える姿でイエスの上に降って来た」と記されていますから、イエス様の上には、文字通り主の霊がおられたわけです。そして、その後に天からの声が聞こえてくる。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。そのような王の即位を思わせる声が天から聞こえてきたのです。つまり、この鳩のように降って来た聖霊こそ、イエス様に注がれた油であったと言えるのです。イエス様は、ヨハネから洗礼を受け、罪人の立場に御自分の身を置かれました。そして、聖霊を注がれ、天からの宣言によって、公に救い主として即位されたのであります。そのように神から遣わされた者としての自覚を持って、イエス様は神の国の福音を宣べ伝え、病いを癒し、悪霊を追い出し、死人さえもよみがえらせたのです。

 イエス様は聖霊の力に満たされて、救い主としてこの地上を歩まれました(ルカ4:14、6:19、8:46)。そして、その霊の力のゆえに、イエス様は様々な力ある業を行うことができたのです。イエス様のもとを夜こっそりと訪れたニコデモは、イエス様にこう申しております(ヨハネ3:2)。

 「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」。

 ここで、ニコデモが言っていることは、ペトロが語っていることと同じですね。つまり、イエス様がなされている力ある業、それは神が共におられることの証拠だと言っているのです。

 また、イエス様御自身もこう仰せになりました(ヨハネ5:36)。

「わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」。

 イエス様がなされた様々な力ある業、それは、イスラエルの人々の間で行われたゆえに、彼ら自身がすでに知っていたことであったのです。エルサレムの民衆は、祭司長たちが恐れたほどに、イエス様に心酔していたわけであります。民衆は皆、話を聞こうと朝早くから神殿の境内にいるイエス様のもとに集まっていたのです(ルカ21:38)。

 それでは、このイスラエルの人たちは、イエスを神から遣わされた方として受け入れたかといいますとそうではありませんでした。彼らは、律法を知らない者たちの手をかりて、イエスを十字架につけて殺してしまったのです。彼らはとんでもないことをしてしまったわけであります。ルカによる福音書を見ますと、そこで中心的な役割を果たしたのは、祭司長や長老や律法学者からなる最高法院でありました。けれども、ペトロは、その責任を最高法院だけに押しつけず、あなたがたはが十字架につけて殺してしまったと言うのです。イエス様を十字架につけて殺してしまったのは、指導者たちや律法を知らないローマ人だけではない。36節にありますように、イスラエルの全家が、イエスを十字架につけて殺してしまったのです。事実、ローマの総督ポンテオ・ピラトが、三度イエス様を釈放しようとしたにも関わらず、人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けたのです(ルカ23:21)。

 けれども、ペトロは、そのことは神がお定めになった計画であり、神は、あらかじめご存じの上で、あなたがたに引き渡されたのだと語ります。これはイエス様のご理解と同じですね。イエス様は御自分の救い主としての歩みを、神から定められた道として理解しておりました。ルカによる福音書の9章で、様々な奇跡、特に五千人養いの奇跡を目の当たりにしたペトロはイエス様を「神からのメシアです」と言い表しました。ここで、イエス様の弟子教育はひとつの頂点を迎えたわけであります。人々がイエス様のことを「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「昔の預言者が生き返ったのだ」とうわさする中で、ペトロは12人を代表して、イエス様を「神からのメシアである」と正しく告白することができたわけです。それでは、イエス様は、このことを人々に宣べ伝えるように言われたかというと、事実は逆でありまして、イエス様は弟子たちを戒め、このことを誰にも話さないように命じられたのです。そして、イエス様は御自分がどのようなメシアであるのかを教えられたわけです。そこで語られたのが、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」という言葉でありました。この死と復活の予告をイエス様はエルサレムに上られるまで三度なされます。イエス様は神が定められたご計画をあらかじめご存じのうえで、祭司長たちの手に自らを委ねられたのです。最後の晩餐の席において、イエス様はイザヤ書53章の苦難の僕の預言の一節を引用し、こう仰せになりました。

 「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしに関わることは実現するからである」。

 イエス様は、その神様のご計画を旧約聖書を通して理解されたのであります。そして、そこに復活の約束をも聞き取っていたのです。復活されたイエス様は、弟子たちにこう仰せになりました。

 「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」。

 そして、五旬祭の日、ペトロはその詩編からイエス様の復活について説き明かすのです。ここで、ペトロが引用しているのは、ダビデの詩編、詩編16編であります。これも前回のヨエルの預言と同じく70人訳聖書からの引用でありますが、ここでペトロは、70人訳聖書の本文そのままを語っております。前回のヨエルの預言には、ペトロの解釈がいくつも入り込んでおりましたけども、今朝の詩編16篇は70人訳聖書の本文そのままなのです。もちろん、ここでペトロが私たちのように書物としての聖書を持っていて、この時それを開いて読んだということではありません。このとき、ペトロは詩編を暗唱しており、それを高らかに歌ったと考えられるのです。ペトロもユダヤ人でありますから、幼いころから、詩編に親しんできた。幼い頃から、詩編を歌って育ってきたのです。ユダヤ人は、幼いころから、詩編に親しんで生活してきたゆえに、詩編の言葉を心に蓄えていた、暗唱していたのです。ちょうど、処女マリアが歌った賛歌、マグニフィカートの中に、詩編の言葉がいくつもちりばめられていたように、ユダヤ人は詩編を学ぶことによって、祈りの言葉を自分のものとしたのです。

 ペトロが引用したのは、次ぎのような詩編です。短く解説をしながら読み進めていきます。

 25節。「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。」

 ここには、ダビデが主なる神との人格的な交わりにいつも生きていたこと。ただ主を頼って、そこに平安を見出してきた信頼が歌われています。

 26節。「だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。」

 その主への信頼のゆえに、心は楽しみ、その喜びは舌によって賛美としてあふれ出す。そればかりか、その肉体さえも希望によって健やかとなる。ここには、主の信頼が心と体、全存在を健やかに生かすその喜びが歌われています。

 27節。「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。」

 前節の「体も希望のうちに生きるであろう。」という期待がここでは更に深められていきます。その期待は、この地上の生涯ばかりではなく、死後の世界においても失われないのです。陰府とは、ただ死者の行くところというよりも、神様の御支配から切り離された世界と理解することができます。例えば、詩編の88篇11節から13節にこう歌われています。

 「死霊が起き上がって/あなたに感謝したりすることがあるでしょうか。墓の中であなたの慈しみが/滅びの国であなたのまことが/語られたりするでしょうか。闇の中で驚くべき御業が/忘却の地で恵みの御業が/告げ知らされたりするでしょうか。」

 この詩編88篇から教えられることは、陰府とは、神がもう賛美されない所、神の御業が語り伝えられない所であると考えられていたということです。つまり、陰府とは、神が共にいてくださらない所と考えられていたのです。しかし、ダビデは、神は自分の魂をその陰府に捨てておかれず、自分を朽ち果てるままにしておかれない、と語ったのです。今、ダビデは、主なる神をいつも目の前に見、主の御臨在をその右に感じている。それほどまでに親しい主との交わりに生き、そして、そこにこの上ない喜びを見出しているのです。その神様との交わり、神様との関係は、死によって引き裂かれることはない。神様との関係は死によって終わるものでははない。そのようなことを神よ、あなたはお許しにはならないはずだ。こう歌っているのです。これは、私たち自身のことを考えれば分かりやすいかも知れません。私たちは、週の初めの日、イエス様の復活を覚え、神に礼拝をささげております。主の日には、教会に集い、神を礼拝する。これが、私たちのこの地上における何よりの喜びであります。そして、私たちを生かす力となっているわけです。それでは、この礼拝は、この地上限りのことなのか。死んだら、もう神様を礼拝することはなくなってしまうのか。神様と私たちの関係はそれで終りなのかといえば、そうではありません。また、そうであってほしくない。そんなことがあってはならないと思います。なぜ、そのように思うのか。それは、神様というお方が永遠におられるお方、命をお与えになるお方であることを私たちは知っているからです。神様が命の主であるゆえに、ダビデは「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」と歌うことができたのです。

 28節。「あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。」

 ここでの「命」は、文脈からすれば、この地上の命だけに限られない、死んだ後にも続く、神と共に生きる永遠の命を表しています。その永遠の命に至る道を自分に示し、いつまでも自分が神の御前に喜び生きることができる。その希望、信頼をダビデはここで歌い上げているのです。

 このように、このダビデの詩編には、神との交わりは、死さえも奪うことはできない。神は死を越えて、わたし神でいてくださるという信頼に基づく復活の希望が歌われております。そして、ペトロは、「この希望は、ダビデ自身については実現しなかった」と言うのです。なぜなら、先祖ダビデは死んで、葬られ、その墓は今でもエルサレムにあったからであります(ネヘミヤ3:16)。ダビデは、「あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」と歌いましたけども、ダビデの肉体は朽ち果てて、お墓の中に納められていたのです。それでは、このダビデの期待は誰において実現したのか。ペトロは、こう語ります。30節。

 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。

 ここで、ダビデは預言者と言われています。詩編は祈りと賛美の書というだけではなく、預言の書でもあるのです。この「子孫の一人をその王座に着かせる」という言葉は、詩編132編からの引用であると言われています。またダビデは、預言者ナタンからそのことを伝え聞いてもおりました(サムエル記下7:12)。ペトロは、その子孫の一人、つまりキリストに、このダビデの預言が実現したのだと語ります。そればかりか、ダビデは、キリストの復活について前もって知っていたとさえ語るのです。このような理解は、ヨハネによる福音書の8章56節で、イエス様がアブラハムに示した理解と同じであります。イエス様はそこでこう仰せになっています。

 「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」

 アブラハムは、イエス様の時代よりも、2000年も昔に生きた人であります。けれども、イエス様は、「アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」と語るのです。これはですね、アブラハムに与えられた約束、「地上の諸国の民はあなたの子孫によって祝福を得る」という約束の実現を楽しみにしていた。そして、その約束がわたしにおいて実現することを信仰の眼をもって見て、喜んでいたということです。つまり、ここでイエス様は、アブラハムに約束された事柄は、自分において実現したのだと告げているのです。アブラハムもイエス・キリストを信じて、救われたクリスチャンでありました。旧約の聖徒たちも、やがて来るメシア、イエス・キリストを信じて救われたクリスチャンであったのです。そして、ペトロによれば、ダビデも、やがて自分の子孫として生まれるキリストを待ち望んで救われたクリスチャンであったのです。

 この31節で、再び27節が引用されておりますけども、ここでは、「あなたの聖なる者を」の代わりに「その体は」と記されています。ここで、ペトロは、キリストの体の復活を強調し、ダビデの期待が、文字通りイエスの上に実現したことを教えているのです。イエス・キリストは死から3日目に、朽ちることのない栄光の体で復活されました。他でもない神様がイエス・キリストを復活させられたのです。神様はそのようにしてダビデの信頼に応えてくださったのです。そして、ペトロをはじめとする12人は、その証人として立てられ、今、その喜ばしい知らせを、エルサレムで証ししているのです。

 復活されたイエス様は、天に上げられる前、こう仰せになりました。

 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 なぜ、復活されたイエス様は、聖霊を注いで、12人を御自分の証人とされたのか。それは、イエス様御自身が、主なる神が示された「命に至る道」であるからです。イエス様はヨハネによる福音書14章16節でこう仰せになりました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」。

 ダビデが願った「命に至る道」、それは復活されたイエス・キリストそのものでありました。ただイエス・キリストを信じて生きるところに、神と共に生きる永遠の命があるのです。

 この詩編16篇は、私は少なくとも3度味わうことができると思います。1度目は、これをダビデの詩編として読む。そして2度目はこれを主イエスの詩編として読む。そして3度目は、私たちの詩編として読むということです。

 ダビデの詩編としては、先程お話ししましたので、ここでは主イエスの詩編として、また、私たちの詩編としてお話しします。

 主イエスの詩編として読むとき、この「わたし」をイエス様を指すと理解して読むとき、私たちはイエス様の復活の希望が神様への全き信頼にあったことが分かります。そもそも、死は、どのようにして神様が造られた良き世界に入ってきたのか。死は始めからあったものではありません。それは始めの人類であるアダムが神様に背くということによってでありました。アダムが神様の掟に背いた時、この世界に罪と死の支配が入り込んできたのです。「罪の報酬は死である」と言われている通りであります(ローマ6:23)。けれども、イエス・キリストは、聖霊によって処女マリアから生まれるという仕方で、罪から守られて生まれてきました。そして、その生涯においても、神を父と呼び、全き信頼と全き従順をもって歩まれたのです。イエス・キリストはその御生涯において、一つの罪も犯すことはありませんでした。ですから、イエス様こそ、確信をもって「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない」と歌うことができたのです。この命の神への信頼、それが十字架の苦しみを支えたのであります。それゆえ、イエス様は、十字架にかけられていた犯罪人の一人に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束することができたのです。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」それは、「あなたはわたしの魂を陰府に捨てておかれない」ということであります。そして、その信頼のゆえに、イエス様は、夜の眠りにつくかのごとく、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と祈り、息を引き取られたのです。そのイエス・キリストの全き信頼に、神は栄光の体への復活という仕方で応えられたのであります。

 最後、この詩編を、私たちの詩編として読んでみたいと思います。その際、主は、イスラエルの神ヤハウェに限られない、むしろ、ここでの主は、主イエス・キリストを指すのであります。主イエス・キリストが私たちと共にいてくださる。私たちの右におられ、私たちをあらゆる敵から守り、導いてくださるのです。そして、イエス様御自身が、死から三日目に復活されたゆえに、大胆に私たちも「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかれず、朽ち果てるままにしておかれない」と歌うことができるのです。そして、命に至る道、永遠の命そのものであるイエス・キリストを信じ、今も、そしてとこしえに喜び歌うことができるのであります。

 ダビデは、死んで葬られました。そして、私たちもやがて、死んで葬られます。私たちのこの肉体もやがては朽ち果てるのです。けれども、主イエス・キリストを信じる者たちの肉体を神はそのままにはしておかれません。なぜなら、イエス・キリストの復活は私たちの初穂としての復活であったからです。ダビデは、このキリストの復活を信仰の眼で見ながら、やがて自分もこの復活にあずかることができることを喜び歌ったのであります。そして、私たちも、今、イエス・キリストを信じ、神を礼拝する神との交わりに生きているがゆえに、復活の希望を信仰をもって歌うことができるのです。それゆえに、私たちの心は楽しみ、この体も希望のうちに生きるのであります。

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