約束の聖霊 2006年7月30日(日曜 朝の礼拝)

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約束の聖霊

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 1章1節~5節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:1 -2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
1:3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」使徒言行録 1章1節~5節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝から、使徒言行録より説教して参ります。おそらく、使徒言行録の連続講解説教を終えるのに、3年ほどかかるのではないかと思います。はじめに、なぜ、使徒言行録から説教をしようと考えたのかについてお話しします。おもに、2つの理由があります。1つは、使徒言行録が、これまで学んできたルカによる福音書の続編であるということです。ルカは、福音書に続けて、使徒言行録をテオフィロという人物に書き送りました。それは、ルカが、福音書と使徒言行録を1つの書物としてテオフィロに読んでもらいたいと願ったからであります。そのルカの意図に従って、私たちもルカ福音書に続けて使徒言行録を読みたいと願ったのです。

 もう一つは、使徒言行録を学ぶことが、今の私たちにとって大きな益になると考えたからです。使徒言行録には、どのようにして、キリストの教会が生まれたのか。どのようにして、教会は、当時の全世界と言える地中海世界へと広がっていったのか、が記されています。使徒言行録には、キリスト教会のアイデンティティーが記されている、そう言ってもよいと思います。キリストの教会をキリストの教会たらしめるものは何なのか。さらには、キリスト者をキリスト者たらしめるものは何なのか。その基本と言えるものを、使徒言行録を通して、私たちはもう一度確認したい、また教えられたいと願ったのであります。

 さて、それでは早速、今朝の御言葉を見ていきましょう。1節から2節をお読みいたします。

 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。

 このところは、小見出しに「はしがき」とありますように、序の部分であります。ルカは、これから記す書物を、先に記した書物と同じくテオフィロという人物に宛てて記しています。ここで「第一巻」とありますが、元の言葉を見ますと「最初の書物」という言葉です。「第一巻」と聞きますと、ルカは第三巻も書こうとしたのではないかと考える人がいるようでありますが、これはむしろ、後編に対する「前編」、下巻に対する「上巻」といったニュアンスであります。つまり、ルカは、これから記すことがらは、先の書物の続きであることを、はじめに明らかにしているわけです。

 このテオフィロという人物がどのような人物であったのか。ルカ福音書の1章3節、4節にはこう記されておりました。

 そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。

 この「敬愛するテオフィロさま」を口語訳聖書は、「テオピロ閣下」と訳しています。使徒言行録に出てくる総督フェリクス(23:26、24:3)、総督フェストゥス(26:25)も閣下と呼ばれています。ですから、テオフィロという人物はローマの高官ではかったかと考えられてきたのです。また、「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。」と記されていますから、テオフィロは、求道者か、または洗礼を受けて間もない人ではなかったか、このようにも考えられているのです。細かいことを言うようでありますが、使徒言行録の序文には、「敬愛する」と訳されていた言葉、また口語訳で「閣下」と訳されていた言葉は記されておりません。敬称を付けずにただ「テオフィロよ」と呼びかけているのです。なぜ、ここでは敬称が記されていないのか。ある人は、テオフィロが、ルカ福音書を通して、キリスト者になったからだと想像いたします。ルカ福音書を献呈したときは、求道者であったテオフィロ閣下が、その書物を通してキリスト者となった。主にある兄弟となった。だから、もうここでは「閣下」という敬称は記されていないのだと想像するのです。私は、これを楽しい想像であると思います。キリストの福音が語られる。そこに、キリストを信じる者が生まれる。これは、説教者ならば、誰もが期待することであります。聖書に取り組み、説教の準備をする。そして、それが礼拝において語られるとき、その説教によって皆さんの信仰が豊かに養われる、そしてそこに新しくキリストを信じる者が起こされる。これは、御言葉を語る者ならば、誰もが願うことです。ルカ福音書の第一の読者であったテオフィロ閣下が、ルカが記しました福音書を通して、キリストを信じる者となった。このような想像は、大いにあり得るし、また、まことに愉快な想像であると思うのです。

 このテオフィロという人物、これはルカのパトロンであったとも言われています。パトロンとは、芸術家などを経済的に援助し、その活動を保護する人のことを言います。芸術家などが、その活動に専念できるように、経済的に援助をする、そういう人をパトロンと呼んだのです。今でも、本を出版するのには多額のお金がかかりますが、当時は、もっと大変でありました。コピー機や印刷機のない時代でありますから、手書きで写して本を作ったわけです。同じ本をもう一冊作るのに、なみなみならぬ労力と時間が必要とされたわけです。また、文字を記す「紙」にしても、今よりも遥かに高価なものでありました。ですから、ルカは、ローマの高官であったテオフィロに、書物を献呈することによって、その頒布を依頼した。そして、テオフィロは、その願い通り、ルカの書物の写本を何冊も造り、それを人々に広めたと考えられているのです。私たちが、今、ルカ福音書や使徒言行録を読むことができるのは、テオフィロのお陰であるかもしれないのです。そう考えると、何だか急に親しみを覚える人物であります。

 

 テオフィロについてはこのくらいにしまして、今朝の御言葉を読み進めていきます。

 ルカは、この1節、2節で、先の書物の内容を大変コンパクトにまとめています。先に記したルカ福音書とはどのような書物であったのか。それは、「イエスが行い、また教えはじめてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記」した書物でありました。ルカは、イエス様のお働きを「行いと教え」の2つから捉えています。「教えと行い」とは記さずに、「行いと教え」と記しています。「行い」が大変重視されているわけです。

 このような言い回しは、すでに、ルカ福音書においても記されておりました。ルカによる福音書の24章19節です。エマオへ向かう二人の弟子の場面でありますが、こう記されています。24章19節。

 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者でした。」

 ここにも、「行いと言葉」と記されています。ルカがイエス様の行いを強調していること。このことは、ルカ福音書の書き出しの言葉を背景としていると思います。ルカは、この福音書を「わたしたちの間で実現した事柄について」と書き始めています。これから、自分が書き記すこと。それは、私たちの間で実現した出来事なのだと言っているわけです。実現したとは、成就したということでありまして、旧約聖書の預言が成就したということであります。ですから、それはただの教えではない。言葉ではない。出来事なのだ、こう言っているわけです。ですから、使徒言行録の書き出しにおいても、ルカがまず強調したことは、このイエスのなさった行い、出来事であったのです。

 ここに「教え始めてから」とありますが、これは洗礼者ヨハネから始まるイエス・キリストの公生涯からということであります。天使が羊飼いたちに告げたように、イエス様は「救い主」としてお生まれになったわけですが、公に救い主としての生涯を始められたのは、洗礼者ヨハネの時からであったと考えられているのです。

 また、「お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え」とありますが、これは福音書の要約であると同時に、これから記そうとする書物、この使徒言行録が、その内容においても、福音書と連続性を持つことを教えています。使徒言行録というタイトルからも分かるように、この書物の主人公は、使徒たちであります。それでは、使徒と呼ばれる者たちは、この書物において突如現れたのかと言いますと、そうではありません。使徒たちとは、先の書物において、イエス・キリストが選ばれた者たちであったのです。イエス様は天に上げられましたけども、その働きは、イエス様がお選びになった使徒たちによって受け継がれていくのであります。そして、それはイエス様が聖霊を通して命じた指示に基づくものなのです。復活されたイエス様は、ルカ福音書の24章45節から48節にこう記されています。

 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。

 イエス・キリストによって選ばれた弟子たちが、聖霊を通して与えられた命令を実行していく。そのように、主イエスのお働きは、継続されていくのです。

 3節をお読みいたします。

 イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。

 イエス様は、苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示されました。ルカ福音書の24章には、栄光の体に復活されたイエス様が、手と足をお見せになったこと。また、焼いた魚を食べられたことが記されています。そのような数多くの証拠をもって、確かにご自分が死からよみがえり、今も生きていることを示されたのです。それは1度や2度ではなくて、40日にわたって、幾たびも弟子たちの前に現れてくださったのです。そして、復活したイエス様がお話しになられたのも、やはり「神の国」についてでありました。イエス様の教え、それは復活前も復活後も神の国についてであったのです。そして、それは使徒たちが、これから宣べ伝えてゆく内容でもありました(使徒28:31)。イエス様が、このとき使徒たちに何を教えられたのか。それは大変興味深いことでありますけども、ルカはそれを記しておりません。けれども、後に使徒たちが記したその書簡の中に、このとき、イエス様から受けた教えが反映されているのではないかと思います。

 イエス様は、使徒たちと食事を共にしていたとき、こう命じられました。

「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

 ここで、イエス様が命じておられることは、ルカ福音書の24章49節にも記されておりました。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 イエス様が「前にわたしから聞いた」と仰せになるとき、おそらく、このルカ福音書24章49節のことを指しているのだと思います。そして、その約束は、洗礼者ヨハネにまで遡ることができるのです。マルコによる福音書1章7節、8節を見ますと、この言葉がそのままヨハネの口から語られています。マルコによる福音書1章7節から8節。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 洗礼者ヨハネは、わたしよりも優れた方が後からおいでになる。その方は聖霊で洗礼を授けられる、と告げておりましたけども、イエス様は、そのヨハネの言葉が、いよいよ実現する時が来ると仰せになっているのです。

 聖霊、神の霊は、「父が約束されたもの」と記されています。先程の洗礼者ヨハネの言葉も、実は、この約束を前提としているわけですね。ですから、いつ父なる神がそのような約束をしてくださったのだろうかと思って、新約聖書を探しても、実は見つけることはできないわけであります。なぜなら、それは旧約時代からの約束であるからです。一番有名なのは、ヨエル書の3章1節から5節であります。ペンテコステの説教において、使徒ペトロが、このヨエル書の預言を引用いたしまたから、誰でもその預言を知っているわけです。主の弟子たちが、聖霊に満たされて、様々な国の言葉で主の偉大な御業を賛美していると、ある者は、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と嘲りました。それに対して、ペトロがそうではない、これこそ、ヨエルが預言したことの実現なのだと語ったのです(2:14-21)。

 私は、このヨエルの預言の他にも聖霊を与えるという約束が記されていないかなぁと思いまして、旧約聖書を調べてみました。すると、いくつか見つけることができました。その中でも、最も古いであろうと思われるのは、民数記の11章であります。奴隷の国エジプトを脱出したイスラエルの民は、荒れ野でモーセに様々な不満を言うようになります。その重荷に耐えかねて、モーセは死ぬことさえも願いました。それに対して、主なる神は、モーセの霊の一部を70人の長老たちに与えて、彼らを通してイスラエルの民を導くようにされたのです。長老たちが預言状態になっていると聞いてヌンの子ヨシュアは「わが主モーセよ、やめさせてください」と申しました。けれども、モーセはこう言うのです。民数記の11章29節。モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」

 ヨシュアは、皆が預言するようになってしまえば、モーセの立場が低くなってしまうと心配したのでしょう。けれども、モーセは、ヨシュアにこう言うのです。わたしは、70人どころか、すべての人に主の霊が授けられ、すべての人が預言者になればよいと切望しているのだと。これは、後にヨエルが預言したことと軌を一にすることです。

 この民数記の記事を読むと分かりますように、まずモーセに主の霊が与えられて、そのモーセの霊が70人の長老に分け与えられるのですね。そして、神の霊というとき、このようにある選ばれた人に与えられる特別な賜物なのです。例えば、士師の誰かに霊がくだったとか、エリヤに神の霊が留まっているとか、神様から与えられた使命を遂行するための力として神の霊が与えられるわけです。しかし、モーセは、すべての民に主の霊が与えられることを切望したのであります。

 

 今朝の御言葉には、「聖霊による洗礼が授けられる」と記されておりましたが、このように聖霊と洗礼を組み合わせて預言している個所はないかなぁと探しておりましたら一つございました。それはエゼキエル書の36章25節から28節であります。

 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。

 ここに、水の洗い清め、つまり洗礼と、神の霊が与えられる約束が一つのこととして記されております。洗礼者ヨハネが、「その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と語ったとき、おそらく彼の頭の中にあったものは、このエゼキエル書36章の御言葉ではなかったかと思います。

 また、このエゼキエル書36章の預言に大変似た預言をエレミヤ書の中に見出すことができます。エレミヤ書の31章、「新しい契約の預言」と呼ばれるところです。エレミヤ書31章31節から34節をお読みいたします。

 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出した時に結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

 このエレミヤ書の預言は、先程のエゼキエル書の預言に相通じるものがあります。言葉は若干違いますけども、「その心に掟を刻みつけ、わたしの民とする」ということがどちらにも記されております。

 この31節に「新しい契約」とありますが、この言葉は、イエス様が主の晩餐において口にされた言葉であります。イエス様は、主の晩餐の席で、こう仰せになりました。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」

 この杯、それはイエス様が十字架で流される血潮の先取りでありました。イエス様はご自分の十字架の死によって、エレミヤが預言した新しい契約を成就してくださったのです。

 今朝の御言葉にあります、聖霊による洗礼を授けられること。これは、この新しい契約の成就したことの確かな保証であると言えます。十字架の贖いを成し遂げ、復活し、天に上げられた主イエスは、ご自分を信じるものに聖霊を与えてくださり、私たちを神の民としてくださったのです。エフェソの信徒への手紙1章13節から14節にこう記されています。

 あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。

 「イエスは主である」と告白する者は、誰もが聖霊による洗礼を授けられております。使徒パウロが誰も聖霊によらなければ「イエスは主である」と告白することはできないと記していますように、主イエスを信じる私たちも聖霊の洗礼を授けられた者たちであるのです。

 今朝、特に覚えたいことは、そのために、神様がどれほどのご準備をなされてきたかといういうことであります。そして、それを実現するために、主イエス・キリストがどれほどの苦難を耐え忍ばれたかということです。私たちに聖霊を賜るために、主イエスは、十字架の贖いを通して新しい契約を成就してくださった。そして、その保証として、天におられる主イエス自らが、私たち一人一人に聖霊を授けてくださったのです。私たちは、主の聖霊をいただき、今や、神の民、神の家族とされているのです。

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