イザヤの召命 2013年12月15日(日曜 朝の礼拝)

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イザヤの召命

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
イザヤ書 6章1節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:1 ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。
6:2 上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。
6:3 彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」
6:4 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。
6:5 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
6:6 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。
6:7 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
6:8 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」
6:9 主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。
6:10 この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」
6:11 わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか。」主は答えられた。「町々が崩れ去って、住む者もなく/家々には人影もなく/大地が荒廃して崩れ去るときまで。」
6:12 主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。
6:13 なお、そこに十分の一が残るが/それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。イザヤ書 6章1節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 次週は、イエス・キリストの御降誕をお祝いするクリスマス特別伝道集会であります。その心備えとして、今朝はイザヤ書6章の御言葉に聞きたいと思います。

 イザヤは紀元前8世紀に活躍したユダ王国の預言者でありますが、今朝の御言葉には、そのイザヤが万軍の主を仰ぎ見たことが記されています。

 1節から4節までをお読みします。

 ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。

 1節に、「ウジヤ王が死んだ年のことである」とありますから、イザヤが万軍の主を仰ぎ見たのは、紀元前740年頃でありました。王様が死ぬということは、国家の一大事であり、国民にとって不安を覚えることでありました。そのようなときに、イザヤは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見るのです。「衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた」とありますが、ここでの「神殿」は、エルサレム神殿のことであります。イザヤは、「衣の裾が神殿いっぱいに広がっていた」と記すことによって、天にある御座と地にある神殿が繋がっていることを表しているのです。「上の方にはセラフィムがいて」とありますが、セラフィムは、天にある御座に座しておられる主の周りを飛び交っていたのでありましょう。「セラフィム」とは、「燃えているもの」という意味でありますが、ここでは、主に仕える御遣い、天使のような存在として描かれています。セラフィムには六つの翼がありまして、二つをもって顔を覆い、二つを持って足を覆い、二つを持って飛び交っていたとありますから、おそらく、人間のような姿であったと思います。セラフィムさえ、二つの翼で顔を覆い、主を見ないようにしていたわけです。彼らは互いに呼び交わして、こう唱えました。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」。ここでセラフィムは「聖なる」という言葉を三回繰り返しています。このことは、神さまこそ聖なるお方であることを強調しております。「聖なる」と訳されている言葉(カードーシュ)のもともとの意味は「分離する」という意味でありまして、聖とは、創造主である神が被造物から超越しておられること、創造主である神と被造物との間には無限の隔たりがあることを表しています。ですから、聖書において、聖なるお方と言えば、神さまであるのです。また「万軍の主」とありますが、万軍の主とは「天地万物を創造し、支配する神」という意味であります。「万軍の主」の「万軍」は、はじめ、イスラエルの全軍隊を意味しておりましたが、後に、天地万物を意味するようになったのです。神さまは天地万物を創造し、総べ治められる万軍の主であり、被造物から超越しておられる聖なるお方であるのです。しかし、「その栄光は、地をすべて覆う」とセラフィムは歌うのです。そして、その呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされたのであります。地震や煙、これらは神さまの顕現、神さまが御自身を現わされることに伴うものであります。かつて、主なる神がシナイ山でイスラエルの民に現れてくださったように、神さまはイザヤに現れてくださったのです(出エジプト20:18参照)。

 5節から8節までをお読みします。

 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」

 ここには、神さまを仰ぎ見たイザヤの反応が記されています。イザヤは聖なる万軍の主を見て喜んだでしょうか?そうではありませんでした。イザヤは「災いだ。わたしは滅ぼされる」と言ったのです。聖なる神の現れは、イザヤに自分が汚れた唇の者であり、汚れた唇の民の中に住む者であることを深く自覚させたのです。そのようなイザヤのもとに、セラフィムの一人が飛んで来ました。セラフィムは祭壇から火鋏で取った炭火をイザヤの口に触れさせてこう言うのです。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」。「祭壇から火鋏で取った炭火」とありますが、祭壇とは、贖罪の献げ物、焼き尽くす献げ物がささげられる場であります。また、聖書において、火は清める働きをするものとしてしばしば描かれています(民数31:23など)。それゆえ、セラフィムは、祭壇の炭火をイザヤの口に触れさせて、「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と言うのです。そして、そのとき、イザヤは主の御声を聞くのであります。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」。ここで「我々」とありますが、これには幾つかの解釈があります。一つは、尊厳を表すために複数形が使われているという解釈であります。二つ目は、何人かのセラフィムを含めて「我々」と言われているとする解釈であります。そして、三つ目は、父と子と聖霊なる三位一体の神として「我々」と言われているとする解釈であります。唯一の神さまが、父と子と聖霊という三つの人格をもっておられる三位一体の神さまであることは、イエス・キリストと聖霊の派遣によって示される奥義でありますが、わたしは、この「我々」という言葉に、神さまが父と子と聖霊なる三位一体の神であられることの暗示を見ることができると思います。咎を取り去られ、罪を赦されたイザヤは、主の御声を聞いて、こう言いました。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」。このイザヤの言葉はとても大胆な言葉であります。例えば、モーセは神さまからイスラエルの人々をエジプトから連れ出すように言われて、こう答えています。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」。さらにモーセは、「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけて遣わしてください」とまで言うのです(出エジプト3、4章参照)。また、エレミヤも、「わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」という主の言葉を聞いたとき、「ああ、わが主なる神よ。わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と言って断っています。(エレミヤ1章参照)。しかし、イザヤは、「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」という主の御声を聞いたとき、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と言ったのです。いわば、イザヤは自分から名乗り出たわけですね。なぜ、イザヤはこのように言うことができたのでしょうか?それは、セラフィムがイザヤの口に祭壇の炭火を触れさせることによって、イザヤの咎が取り去られ、罪が赦されたからです。それ以前のイザヤは、聖なる万軍の主を前にして、「災いだ。わたしは滅ぼされる」と言わざるを得ない者でありました。しかし、祭壇の炭火によって罪が赦されて、主の御声を聞いたとき、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と言い得る者とされたのです。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」。この主の御言葉は、今朝、私たちにも語られている御言葉であります。しかし、それは、聖なる神の御前に本来は出ることのできない汚れた罪人であることを自覚し、ただイエス・キリストの十字架の贖いによって罪を赦された私たちに対してであるのです。そのような罪の自覚と、イエス・キリストにあって罪から救われた恵みへの応答として、私たちは、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と言うべきであるのです。

 9節から13節までをお読みします。

 主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか。」主は答えられた。「町々が崩れ去って、住む者もなく/家々には人影もなく/大地が荒廃して崩れさるときまで。」主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。なお、そこに十分の一が残るが、それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。

 イザヤが主から託されたメッセージは、民の心を頑なにするという不思議なメッセージでありました。イザヤは主の預言者として遣わされるのですが、イスラエルの民はその言葉を受け入れず、いよいよ心を頑なにするのです。これは預言者として大変つらいことであります。イザヤは、イスラエルの民が主の言葉を受け入れないことを知らされながら、それでも主の言葉を語らねばならないのです。ですから、イザヤは、「主よ、いつまででしょうか」と問わずにはおれなかったわけです。私たちが用いている新共同訳聖書は、主の答えは、11節後半だけに限っていますが、新改訳聖書は13節までを主の答えとして鍵括弧で括っています。わたしも13節までを主の答えとして解釈したいと思いますが、要するに、主はここで、当時の超大国であるアッシリア帝国が北のイスラエル王国を滅ぼし、捕囚とすること、さらには十分の一であるユダ王国もバビロン帝国によって滅ぼされ、捕囚とされると言われているのです(サムエル記下19:44参照)。しかし、主は「それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である」と言われます。「聖なる種子」とは、主の御言葉を受け入れる神の民のことであります。そして、この聖なる種子の約束が、イザヤの預言者としての生涯を支えたのです。この約束は、私たちにも与えられている約束であります。私たちは、自分が罪に汚れた者であることだけではなく、自分と一緒に住んでいる周りの人が罪に汚れた者であることを知っております。ですから、私たちは自分の周りの人に、イエス・キリストにある罪からの救い、福音を宣べ伝えなければならないのです。しかし、そのとき、私たちが目の当たりにするのは、神さまの御言葉を頑なに拒む人々の姿であります(ヨハネ12:37~42参照)。そのような中にあって、私たちが御言葉を語り続けることができるのは、なぜでしょうか?それは、聖なる種子と呼ばれる者たちがいるからです。イエス・キリストを信じて、この所に集まっている私たちは、まさしく聖なる種子であります。私たちは、主の日ごとにそのことを確認し合いながら、主からの祝福を受けて、それぞれの居場所へと遣わされていくのです。

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