わたしの目にはあなたは高価で尊い 2014年7月06日(日曜 朝の礼拝)

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わたしの目にはあなたは高価で尊い

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
イザヤ書 42章18節~43章7節

聖句のアイコン聖書の言葉

42:18 耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。
42:19 わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど/耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど/目の見えない者/主の僕ほど目の見えない者があろうか。
42:20 多くのことが目に映っても何も見えず/耳が開いているのに、何も聞こえない。
42:21 主は御自分の正しさゆえに/教えを偉大なものとし、輝かすことを喜ばれる。
42:22 この民は略奪され、奪われ/皆、穴の中に捕らえられ、牢につながれている。略奪に遭っても、助け出す者はなく/奪われても、返せと言う者はない。
42:23 あなたたちの中にこれを聞き取る者があるか。後の日のために注意して聞く者があるか。
42:24 奪う者にヤコブを渡し/略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。それは主ではないか/この方にわたしたちも罪を犯した。彼らは主の道に歩もうとせず/その教えに聞き従おうとしなかった。
42:25 主は燃える怒りを注ぎ出し/激しい戦いを挑まれた。その炎に囲まれても、悟る者はなく/火が自分に燃え移っても、気づく者はなかった。
43:1 ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。
43:2 水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず/炎はあなたに燃えつかない。
43:3 わたしは主、あなたの神/イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし/クシュとセバをあなたの代償とする。
43:4 わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。
43:5 恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り/西からあなたを集める。
43:6 北に向かっては、行かせよ、と/南に向かっては、引き止めるな、と言う。わたしの息子たちを遠くから/娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。
43:7 彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し/形づくり、完成した者。イザヤ書 42章18節~43章7節

原稿のアイコンメッセージ

序論.イザヤ書について

 今朝は、イザヤ書42章18節から43章7節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 イザヤ書は66章からなる大変長い書物でありますが、伝統的には、アモツの子イザヤによって記されたと考えられております。しかし、現代の多くの学者は、1章から39章までをアモツの子イザヤによって記されたとし、40章以降を無名の預言者によって記されたと理解いたします。多くの学者の理解によれば、今朝の御言葉は無名の預言者である第二イザヤによって記されたことになるのです。このように考える根拠として、例えば、39章までと40章以降では文体が大きく異なること、40章以降にはイザヤという名前が一度も出てこないことがあげられます。何より御言葉が記されている時代背景が大きく異なっています。39章までは、ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代を背景としていますが、40章以降はバビロン捕囚の時代を背景としています。ちなみに、バビロン捕囚とは、紀元前586年に、ユダ王国の首都エルサレムがバビロン帝国によって滅ぼされ、多くの人が奴隷として連れて行かれた出来事であります。私も、今朝の御言葉を記したのは、バビロン捕囚の時代に生きた第二イザヤであることを前提にしてお話したいと思います。今朝の御言葉は、バビロンに奴隷として連れて行かれたイスラエルの民に語られた御言葉であるのです。そのことを念頭に置いて、今朝の御言葉を読み進めていきたいと思います。

本論1.目が見えず、耳の聞こえないイスラエル

 42章18節から21節までをお読みします。

 耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど/耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど/目の見えない者/主の僕ほど目の見えない者があろうか。多くのことが目に映っても何も見えず/耳が開いているのに、何も聞こえない。主は御自分の正しさゆえに/教えを偉大なものとし、輝かすことを喜ばれる。

 この御言葉の背景には、「主なる神は耳が聞こえないのではないか、目が見えないのではないか」というイスラエルの民の疑問や不平の言葉があると考えられています。主は、どうして自分たちの祈りを聞いてくださらないのか?主は、どうして自分たちの苦難を目に留めてくださらないのか?それは主の耳が聞こえず、目が見えないからではないか、そのようにイスラエルの民は、主に対してつぶやいていたのです。しかし、主は、そうではない。目が見えず、耳が聞こえないのは、あなたたちの方だと言われるのです。ここで、主はイスラエルの民を突き放しているのではありません。なぜなら、主は目が見えず、耳が聞こえないイスラエルの民を「わたしが遣わす者」、「信任を与えた者」、「主の僕」と呼ばれているからです。主は、バビロン捕囚以前に、イスラエルに多くの預言者を遣わし、悔い改めるように、しるしと御言葉を与えられました。しかし、イスラエルの民はそれを見ることができず、聞くことができなかったのです。彼らは、「多くのことが目に映っても何も見えず/耳が開いているのに、何も聞こえない」と言われるほどに、そこに主の御業を見、主の御言葉を聞くことができなかったのです。しかし、主は御自分の正しさのゆえに、イスラエルを通して、御自分の教えを偉大なものとし、輝かすことを喜びとされるのです。

本論2.イスラエルを渡された主

 22節から25節までをお読みします。

 この民は略奪され、奪われ/皆、牢の中に捕らえられ、牢につながれている。略奪に遭っても、助け出す者はなく/奪われても、返せという者はない。あなたたちの中にこれを聞き取る者があるか。後の日のために注意して聞く者があるか。奪う者にヤコブを渡し/略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。それは主ではないか/この方にわたしたちも罪を犯した。彼らは主の道に歩もうとせず/その教えに聞き従おうとしなかった。主は燃える怒りを注ぎ出し/激しい戦いを挑まれた。その炎に囲まれても、悟る者はなく、火が自分に燃え移っても、気づく者はなかった。

 ここには、バビロン帝国に奴隷として連れて行かれたイスラエルの民の悲惨な現状が記されています。イスラエルの民にとりまして、ユダ王国がバビロン帝国に滅ぼされたことは、信仰を大きく揺さぶる出来事でありました。なぜなら、古代の世界において、戦争は互いの国の神と神との戦いであると考えられていたからです(列王記下18:33~35参照)。ですから、イスラエルがバビロンに敗北したことは、イスラエルの神がバビロンの神々に敗北したことであると考えられたのです。しかし、ここで、第二イザヤは驚くべきことを語ります。「奪う者にヤコブを渡し/略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。それは主ではないか/この方にわたしたちも罪を犯した。彼らは主の道に歩もうとせず/その教えに聞き従おうとしなかった」。イスラエルの神である主が、バビロンの神々に負けたから、イスラエルが捕囚の憂き目にあったのではない。主が、イスラエルを略奪する者、バビロンの手に引き渡したのである、と第二イザヤは語るのです。そして、その原因は、自分たちの罪、さらには自分たちの父祖の罪にあると記すのです。

 「この方にわたしたちも罪を犯した。彼らは主の道に歩もうとせず/その教えに聞き従おうとしなかった」。ここでの「わたしたち」は第二イザヤを含める、今、捕囚の苦しみにあっている者たちであります。そして、「彼ら」とは、バビロン捕囚を招いた父祖たちのことであります。ここで、第二イザヤは、自分たちの罪と父祖たちの罪を一体的に捉えています。そして、その罪とは、主の教えに聞き従おうとしなかったことであるのです。主は、イスラエルを通して、御自分の教えを偉大なものとし、輝かすことを望まれるわけですが、イスラエルはその教えに聞き従おうとはしなかったのです。それゆえ、主は燃える怒りを注ぎだし、激しい戦いを挑まれました。主は、遠くの地の果てから一つの国民を、その言葉を聞いたこともない国民を、鷲が飛びかかるようにイスラエルに差し向けられたのです(申命28:49参照)。けれども、イスラエルにそのことを悟る者はおりませんでした。火が自分に燃え移っても、気づく者はいなかったのです。

本論3.イスラエルを贖う主

 43章1節から7節までをお読みします。

 ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず/炎はあなたに燃えつかない。わたしは主、あなたの神/イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし/クシュとセバをあなたの代償とする。わたしの目にはあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り/西からあなたを集める。北に向かっては、行かせよ、と/南に向かっては、引き止めるな、と言う。わたしの息子たちを遠くから/娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し/形づくり、完成した者。

 43章1節は、元の言葉を見ますと、「しかし、今」と書き出されています。「しかし、今、ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主はこう言われる」と記されているのです(新改訳)。主は、燃える怒りを注ぎだし、イスラエルをバビロンの手に渡されたのでありますが、しかし、今、イスラエルを創造された主は、「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」と言われるのです。水や火に象徴される困難の中にあっても、主はイスラエルと共にいてくださり、守ってくださるのです。主は力強く、「わたしは主、あなたの神/イスラエルの聖なる神、あなたの救い主」と宣言されるのです。では、主は、どのようにしてイスラエルをバビロンから贖ってくださるのでしょうか?それは、ペルシャ帝国を用いてでありました。紀元前539年にバビロン帝国はペルシャ帝国によって滅ぼされます。そのペルシャ帝国の王キュロスによって、イスラエルはバビロン捕囚から解放されるのです(45:1参照)。主は、そのペルシャ帝国に、イスラエルの身代金としてエジプトを、さらにはその南部にあるクシュとセバを与えると言われるのであります。そして、主は、「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする」と言われるのです。この御言葉は、申命記の7章6節にある「宝の民」という言葉を思い起こさせます。申命記7章6節から8節にはこう記されておりました。旧約の292ページです。

 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどんな民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

 主は地の面にいるすべての民からイスラエルを選び、御自分の宝の民とされました。そして、それはただ、イスラエルに対する主の愛のゆえであったのです。そして、その主の愛は、バビロンに奴隷として連れて行かれたイスラエルに対しても注がれているのです。イスラエルは今も、主の愛する宝の民であるのです。それゆえ、主は、イスラエルをバビロンの奴隷状態から救い出されるのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。旧約の1130ページです。

結論.わたし目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している

 43章4節前半に、「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し」とありますが、この所を新改訳聖書は、「わたしの目にはあなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している」と翻訳しています。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」、この御言葉は、イエス・キリストにあって、神の民とされた私たち一人一人に対して、語られている御言葉でもあります。なぜなら、神様は、天地創造の前に、私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになられたからです(エフェソ1:4参照)。私たちに対する神様の愛は、天地創造の前の、キリストにある選びに基づいているのです。そして、私たちは、イエス・キリストに思い向けるとき、自分が神様の目に高価で尊い存在であること、自分が神様から愛されていることを確信することができるのです。なぜなら、神様が、私たちの身代わりとして与えてくださった人こそ、イエス・キリストであるからです。神様は、独り子イエス・キリストを十字架の死に渡されるほどに、私たちを愛してくださいました(ヨハネ3:16参照)。また、イエス・キリストは、御自分の命を捨てられるほどに、私たちを愛してくださいました(ヨハネ10:11)。それゆえ、私たちは、「わたしの目にはあなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している」という御言葉を、私たち一人一人に対する主なる神の御言葉として、また、主イエス・キリストの御言葉として聞くことができるのです。

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