主が来るという約束 2014年12月28日(日曜 朝の礼拝)

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主が来るという約束

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ペトロの手紙二 3章1節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:1 愛する人たち、わたしはあなたがたに二度目の手紙を書いていますが、それは、これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいからです。
3:2 聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出してもらうためです。
3:3 まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、
3:4 こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」
3:5 彼らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが、
3:6 当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。
3:7 しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。
3:8 愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。
3:9 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
3:10 主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。
3:11 このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。
3:12 神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。
3:13 しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。ペトロの手紙二 3章1節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は2014年最後の礼拝であります。それで今朝は、この世界の最後のことについて思いを向けたいと願いました。先程はペトロの手紙二の3章1節から13節までをお読みいただきましたが、今朝はこのところから、主が来られるという約束についてご一緒に学びたいと願っております。

 1節から7節までをお読みします。

 愛する人たち、わたしはあなたがたに二度目の手紙を書いていますが、それは、これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいからです。聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出してもらうためです。また、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」彼らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが、当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。

 使徒ペトロは、ペトロの手紙一とペトロの手紙二の二通の手紙を記しましたが、ここには、二度目の手紙を書き送る目的が記されています。ペトロは、「これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたい」ために、この手紙を書き記すのです。ペトロが呼び起こしたい記憶、それは「聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟」、教えについてであります。特に、ここでは世の終わりに、主イエス・キリストが再び来られる教えのことが言われているようです。例えば、私たちの主であり救い主であるイエス様は、マタイによる福音書の24章36節から44節でこう教えられました。新約の48ページです。

 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

 このように、イエス様御自身が、世の終わりに、御自分が栄光の人の子として再び来られることを教えられたのです。また、御自分の弟子たちに、主人の帰りを待つ僕として目を覚ましているよう教えられたのであります。

 では今朝の御言葉に戻ります。新約の439ページです。

 ペトロは、終わりの日に主イエス・キリストが再び来られるという教えを思い出させようとするのですが、それには理由がありました。ペトロの手紙二は、65年頃、小アジアの教会に宛てて記された手紙でありますが、小アジアの教会は、偽教師たちによって惑わされておりました。そのことは、2章1節から3節に記されています。「かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません」。このような偽教師たちによって、小アジアの教会は惑わされていたのです。そして、この偽教師たちは、主イエス・キリストが来られることとその後に続く裁きを否定していたのです。3章の3節、4節に、「終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざかる者たちが現れ、あざけってこう言います。『主が来るとう約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこの方、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか』」とありますが、これは、教会を惑わしていた偽教師たちが言っていたことであるのです。そのような偽教師たちの主張に対して、ペトロは、現在の世界が、水による裁きを受け、一度滅んでしまった世界であると記すのです。5節、6節でペトロはこう記しています。「彼らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが、当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました」。ここで、ペトロは、創世記1章に記されている世界像に基づいて、この世界が神の言葉によって水を元として、また水によってできたと記しております(創世1:2,7,9参照)。しかし、その世界は同じ水によって押し流されて滅んでしまった世界でもあるのです。ここで、ペトロはノアの洪水の出来事について述べております。私たちが住んでいる世界は、大洪水によって一度滅びを体験した世界であるのです。偽教師たちは、「世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか」とあざけっておりましたが、そうではありません。私たちが住む世界は、洪水によって押し流されるという滅びを体験した後の世界であるのです。そして、私たちが住む世界は、今度は火で滅ぼされることになるのです。そのとき、主の再臨を否定する偽教師たちは、裁かれ滅ぼされることになるのです。偽教師たちは、この世界が何も変わらずに続いていくと考え、主イエスの再臨と裁きを否定しておりました。しかし、ペトロは、ノアの洪水の出来事に言及し神の裁きが確かにあること、その時、主は偽教師たちを決して容赦されないと警告するのです。

 8節、9節をお読みします。

 愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。

 偽教師たちは、「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないでないか」と嘲っていました。この偽教師たちの主張に、多くの人が惑わされたのには、多くの人の中に、主イエスは本当に来られるのだろうか?という疑問があったからであります。初代教会には、主イエス・キリストがすぐにでも来てくださるとの期待がありました。使徒パウロの初期の書簡を読みますと、パウロは自分が生きているうちに、主イエスが来てくださると考えていたようです(一テサロニケ4:17参照)。しかし、イエス様が来られる前に、イエス様を信じてる父たちが死んでしまった。このような状況において、主は本当に来られるのだろうか?という疑問がわき起こり、さらには「主は遅い」と考える人たちが出て来ていたのです。そのような人々に、ペトロは、天におられる主イエスの時間と地にいる私たちの時間の尺度が違うことを聖書から説明するのです。詩編の90編4節に、「千年といえども御目には/昨日が今日へと移る夜の一時に過ぎません」とありますが、天におられる主イエスの時間と地にいる私たちの時間ではその尺度がまったく違うのです。そもそも、天とは時間と空間の枠組みを超えた、神様の領域であります。地に住む私たち人間は時間と空間の枠組みの中で生きている者たちでありますが、天におられる主イエスは時間と空間の枠組みを超越しておられるのです。ある神学者は、天におられる主イエスのもとには「永遠の今」があるだけであると言っております。それほど、天におられる主イエスと地にいる私たちとでは時間の概念が違うのであります。主イエスが天へと上げられてからおよそ2000年が経っておりますが、それこそ、主イエスの目には二日しか経っていないに過ぎないのです。ですから、私たちは、主イエスが来るのが遅いと考えてはならないのです。

 また、ペトロは、主は約束の実現を遅らせておられるのではないかと考える人たちに、より積極的にその理由を記しています。すなわち、主イエスは、「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられる」のです。ここで、「あなたがた」と言われていることに注意したいと思います。イエス様を信じている私たちのために、主は忍耐しておられるのです。なぜなら、神の家から裁きは始まるからです。主人の御心を知る私たちから裁きは始まるからであります(一ペトロ4:17参照)。私たちは、どこか自分たちが裁かれることを忘れて、最後の審判について考えてはいないでしょうか?旧約のイスラエルはまさにそうでありました。神の民であるイスラエルにとって、主の日は何より異邦人たちが裁かれる日と考えられていたのです。主の日は、神の民イスラエルには救いの日であり、まことの神を知らない異邦人には滅びの日であると彼らは考えたのです。しかし、そのようなイスラエルの民に、主は預言者アモスを通して、こう言われるのです。「地上の全部族の中からわたしが選んだのは/お前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちをすべての罪のゆえに罰する」(アモス3:2)。さらには、「イスラエルよ/お前は自分の神と出会う備えをせよ」と言われるのです(アモス4:12)。主イエス・キリストは、世界と歴史の主であられますから、お望みならば、すぐにでも約束を実現し、この世界と歴史を終わらせることがおできになります。しかし、そうされないのは、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、私たちのために忍耐しておられるからなのです。主イエス・キリストが再び来られるという約束を忘れて生活している私たちが悔い改めるように、主イエスは私たちのために忍耐しておられるのです。そのような主イエスの忍耐を覚えて、私たちは日々、罪から神へと立ち帰ることが求められているのです。

 10節から13節までをお読みします。

 主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に溶け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日が来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。

 主は、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、私たちのために忍耐しておられますが、そのことは主の日が来ないことを意味しておりません。主イエス御自身が教えられたように、「主の日は盗人のようにやって来る」のです。主イエスは、泥棒のように思いがけない時に来られるのです。ペトロはそのとき何が起こるのかを黙示文学の言葉を用いて記しております。すなわち、「その日、天は激しい音をたてながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に溶け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしま」うのです。続けてペトロは、「このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません」と記しております。わたしは最初、この言葉の意味がよく分かりませんでした。すべてのものが滅び去るのであれば、それを今のうちに楽しもうとも言うこともできるのではないかと思ったのです。しかし、ペトロは、「すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません」と記すのです。なぜ、ペトロはこのように記すことができたのか?それはペトロが滅び去ることのない二つのものを前提としているからです。滅び去ることのないものの一つ目は、主イエスの御言葉であります。イエス様が、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われたように、主イエスの御言葉は、決して滅びることはないのです(マタイ24:35)。また、滅び去ることのないものの二つ目は、神のかたちに似せて造られた私たち人間の魂、霊魂であります(コヘレト12:7参照)。神様によって命の息を吹き入れられ生きる者となった私たち人間の魂は決して滅びることはないのです(創世2:7参照)。私たちの目に移るすべてのものは滅び去っても、私たちの魂は滅びることはないのです。主イエスの御言葉と、私たち自身の魂、この滅びることのない二つのものを覚えて生きるとき、私たちがやがて滅び去る世界でどのように生きるべきかが分かってきます。すなわち、私たちは主イエス・キリストの御言葉に従って聖なる信心深い生活を送るべきであるのです。そのようにして、私たちは神の日が来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきであるのです。なぜなら、主イエス・キリストが再び来られる主の日にこそ、神の義が宿る新しい天と新しい地が到来するからです。13節に、「しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」とありますが、ここでの神の約束は、イザヤ書65章に記されている約束であります。そこには、「見よわたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない」と記されています(イザヤ65:17)。イザヤ書に預言されていた新しい天と新しい地の約束は、主イエス・キリストが再び来られる主の日に実現するのです。そして、そこは、神様の正義が実現する新しい世界であるのです(黙示21:1参照)。イエス様は、主の祈りにおいて、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈るよう教えられましたが、新しい天と新しい地は父なる神様の御心が完全に行われる世界であるのです(マタイ6:10)。そのような世界を待ち望んでいる者として、私たちは聖なる信心深い生活をすべきであるのです。

 ペトロは、神の日が来るのを待ち望むだけではなく、それが来るのを早めるようにすべきであるとも記しております。これはまことに大胆な言い方ですが、私たちはどのようにして、神の日が来るのを早めることができるのでしょうか?その答えが、主イエスの教えの中にあります。マタイによる福音書の24章3節から14節までをお読みします。新約の47ページです。

 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」

 ここで、イエス様は、世の終わりの徴をいくつも上げておられますが、その最後のしるしとして、「御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる」と言われました。イエス・キリストの福音があらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられた後で、終わりが来る。すなわち、主イエスが栄光の人の子として再び来られるのです。それゆえ、私たちは、主イエス・キリストの福音を証しし、宣べ伝えることによって、主の日が来るのを早めることができるのです。このことは、主が一人も滅びないで皆が悔い改めるように忍耐しておられることと結びついています。主は私たちの福音宣教を用いて、すべての人を悔い改めへと導き、救おうとしておられるのです。ペトロは、聖なる信心深い生活を送るように記しましたが、それは私たちがイエス・キリストの福音を身をもって周りの人たちに証しするためでもあります(一ペトロ2:12参照)。私たちは主の日に到来する義の宿る新しい天と新しい地を待ち望む者として、福音にふさわしい生活を送り、すべての人に福音を宣べ伝えていきたいと願います。

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