キリストにある選び 2015年4月25日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:1 神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。
1:2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
1:3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。
1:4 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
1:5 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
1:6 神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
1:7 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。エフェソの信徒への手紙 1章1節~7節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、エフェソの信徒への手紙1章1節から7節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節、2節をお読みします。

 神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

 ここには、この手紙の差出人と受取人と挨拶の言葉が記されています。最初に差出人について見ていきたいと思います。この手紙の差出人は、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ」であります。使徒とは、復活のイエス・キリストから権威を与えられて遣わされた者のことであります。パウロはまさしく、キリスト、油注がれた方であるイエス様から権威ある者として遣わされたのです。ですから、使徒パウロの教えは、イエス・キリストの教えであり、権威ある教えであるのです。パウロは、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされた」者として、この手紙を執筆したのです。この手紙を執筆したとき、パウロは囚われの身でありました。3章1節を見ると、「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは・・・・・・」と記されています。また、6章20節にも、「わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください」と記されています。このように、パウロは、この手紙を牢獄の中で執筆したのです。では、パウロはこの手紙をどこの牢獄で執筆したのでしょうか?これには諸説がありますが、わたしとしては、使徒言行録の28章に記されている、ローマでの軟禁状態の時に執筆したのではないかと考えています。そうすると、この手紙は、紀元62年頃に執筆されたことになるのです。

 次にこの手紙の受取人について見ていきたいと思います。この手紙の受取人は、「エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たち」であります。エフェソは、ローマ帝国の行政区分であるアジア州の首都であり、パウロが三年間滞在して、福音を宣べ伝えた町でありました(使徒20:31参照)。使徒言行録の19章を見ると、パウロがエフェソで福音を宣べ伝えたことが、また、20章を見ると、パウロがエフェソの長老たちに語った告別説教が記されています。ですから、エフェソにはパウロの親しい人たちが沢山いたはずであります。しかし、この手紙を読んでみても、受取人への親しさはあまり感じられません。2章15節を見ますと、「こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き」とありますし、3章2節を見ますと、「あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません」と記されています。このようにパウロは、受取人と面識がないかのように、この手紙を記しているのです。このことは、「エフェソにいる」という言葉が、有力な写本には記されていないことから説明できるかも知れません。聖書にはオリジナルテキストは存在しておらず、多くの写本からテキストを確定しているのですが、有力な写本の中に、「エフェソにいる」という言葉が記されていないのです。それで、元々は「エフェソにいる」という言葉は記されておらず、この所は空白であったのではないかとも考えられているのです。つまり、この手紙は、エフェソの教会だけに宛てて記された手紙ではなく、小アジア地方にある諸教会に宛てて記された、いわゆる回状であったと考えられるのです。このことは、エフェソの信徒への手紙と同じ時期に記されたと考えられるコロサイの信徒への手紙からも裏書きされます。コロサイの信徒への手紙4章16節にこう記されています。「この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。また、ラオディキアから回ってくる手紙を、あなたがたも読んでください」。このように、パウロの手紙は、小アジアにある諸教会で回し読みされていたのです。それで、エフェソの信徒への手紙には、元々は「エフェソにいる」という言葉は記されておらず、空白であったと考える人がいるのです。では、なぜ「エフェソにいる」と記されている写本があるかと言えば、それはこの手紙の写本がエフェソにおいて多く作られたからであると考えられるのです。このような受取人については議論があるのですが、そのことを踏まえた上で、私たちはこの手紙を「エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たち」に宛てて記された手紙として読みたいと思います。

 パウロはこの手紙をエフェソにいる人たち一般に宛てて記したのではなく、エフェソにいる「聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たち」に宛てて記しました。「聖なる者たち」とは、「キリスト・イエスを信じることによって、聖なる神の民とされた者たち」ということであります。つまり、パウロは、この手紙をエフェソにいるイエス・キリストを信じて神の民とされた者たちの群れ、教会に宛てて記しているのです。この手紙は、キリスト・イエスの使徒とされたパウロから、キリスト・イエスを信じて神の民とされた教会に宛てて記された公の手紙であるのです。わたしは今、公の手紙と申しましたけれども、そのことはこの手紙が公の礼拝の場で朗読されたことを意味します。私たちが礼拝の中で、この手紙の朗読を聞いたように、この手紙を最初に受け取ったエフェソの信徒たちも、礼拝の中でこの手紙の朗読を聞いたのです。私たちは、「羽生にいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たち」として、この手紙を私たちに語られている生ける神の言葉として聞いたのであります。私たちが、使徒パウロの言葉を、私たちに宛てて記されている言葉として直接読み、聞くことができるのは、パウロを遣わされたキリスト・イエスが今も活きておられるお方であるからです。私たちは、かつて活きていたイエス・キリストを信じているのではなくて、十字架の死から三日目に復活されて、今も活きているイエス・キリストを信じているのです。それゆえ、イエス・キリストの使徒であるパウロの言葉は、時間と空間を超えて、今、ここで、私たちに語りかける権威ある言葉であるのです。

 パウロは、差出人と受取人について記した後で、挨拶の言葉を記します。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。これは、羽生市にいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信じる者たちである私たちにも語られている挨拶であります。ここで、パウロは、「神から」とは記さず、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストから」と記しています。ここでパウロは、神とイエス・キリストを等しいお方として、並べて記しています。そのことは、イエス・キリストが「主イエス・キリスト」と記されていることにも表れています。私たちの恵みと平和は、どなたから来るのでしょうか?それは、「父である神と主イエス・キリストから」であるのです。そもそも、私たちは、神様を父と呼ぶことはできない者でありました。はじめの人アダムにあって罪を犯し、また自らも罪を犯している私たちは、神様から遠く離れて、まるで神様がいないかのように生きていたのです。しかし、そのような私たちが神様を「わたしたちの父である神」と呼ぶことができるようになったのは、主イエス・キリストのおかげであるのです。イエス様が、私たちのキリスト、救い主として、私たちに代わって神の掟を落ち度無く守り、私たちに代わって罪の刑罰としての十字架の死を死んでくださったことにより、私たちは神様を「わたしたちの父」と呼び、神様に近づくことができる者とされたのです。また、私たちが神様を「わたしたちの父である神」と呼ぶことができるのは、十字架の死から三日目に復活させられたイエス・キリストが、今も父なる神の右に座して、執り成してくださっているからであるのです。それゆえ、パウロは、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と記さずにはおれなかったのです。ここでは、「あるように」と訳されていますが、元の言葉は「ある」と訳すこともできます。ですから、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにある」とも訳すことができるのです。そのように訳すと、ここでパウロは、恵みと平和を宣言しているとも読むことができます。主イエス・キリストを信じて、神を父と呼ぶことのできる私たちに対する恵みと平和は、与えられるかどうか分からない不確かなものではありません。それは、「あなたがたにある」と断言できるほどの確かなものであるのです。その確かな恵みと平和がますます豊かに与えられるようにと、パウロはここで祈っているのです。

 3節から7節までをお読みします。

 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神は私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを私たちがたたえるためです。わたしたちは、この御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。

 3節からこの手紙の本論が始まるわけですが、パウロはこの手紙の本論を神賛美から書き始めています。元の言葉の語順から言うと、「ほめたたえられよ、わたしたちの主イエス・キリストの父である神」と記されているのです(口語訳参照)。ここで「ほめたたえられよ」と訳されている言葉は、元々は「良い言葉を語る」という意味で、「祝福する」とも訳すことができます。パウロは、続けて、「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」と記していますが、ここで「満たしてくださいました」と訳されている言葉は、直訳しますと「祝福してくださいました」となります。新改訳聖書を見ますと、「霊的な祝福で祝福してくださいました」と記されています。そして、「祝福」と訳される言葉は、「ほめたたえられますように」と訳されている言葉と同じ語幹を持つ言葉であるのです。ですから、3節は、「私たちの主イエス・キリストの父である神は祝福されますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で祝福してくださいました」とも訳すことができるのです。しかし、神様に対して祝福されますように、というのは違和感がありますので、「ほめたたえられますように」と訳しているわけです(ヘブライ7:7参照)。このような細かいことをわざわざ申し上げたのは、私たちが「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」をほめたたえることができる正当な根拠が与えられていることを確認したかったからです。神様は、キリストにおいて、私たちを天のあらゆる霊的な祝福で祝福してくださいました。それゆえ、私たちは、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」をほめたたえることができるし、ほめたたえるべきであるのです。

 神様が、私たちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださっていること、このことは、神様の永遠の選びによることであるとパウロは続けて記します。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」。「天地創造の前」とは、「神様が天地を造られる前」ということであります。聖書は、「初めに、神は天地を創造された」と記していますが、ここでは、天地を造られる前の神様の永遠の御計画のことが言われているのです。神様は、私たちが生まれる前から、いや、天地万物が造られる前から、私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになったのです。ここで大切なのは、「キリストにおいて」という言葉です。神様は私たち一人一人を直接選ばれたのではなくて、キリストにおいて選ばれたのであります。このことは、キリストが私たちの「選びの鏡」であることを教えています。私たちが自分が神の民であるかどうか不安に思うならば、キリストに目を向ければよいのです。私たちがイエス・キリストを信じ、キリストに結ばれているならば、自分は神の民であると確信してよいのであります。

 今日は午後から半日修養会を行いますが、テーマは「教会についての学び」であります。教会と訳されるエクレーシアという言葉は、「呼び出された者の集い」という意味でありますが、教会は、神様が天地創造の前に、キリストにあって、私たちを選んだくださった者たちの集いであるのです。神様の永遠の御計画が、歴史の中で実現しているのが、私たち教会であるのです。それゆえ、私たちは、イエス・キリストによって、神の子とされ、神様がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みをたたえる者とされているのです。教会として私たちが行うこと、それは何より礼拝であります。私たちは、イエス・キリストの名によって礼拝をささげているわけですが、そこで私たちは、神様がその愛する御子によって与えてくださった恵みをたたえているのです。すなわち、私たちが週ごとにキリストの教会として集まり、ささげている礼拝は、神様の永遠の御計画を歴史において実現するものであるのです。

 では、「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵み」とは何でしょうか?その最たるものが、私たちが御子において、その血によって贖われ、罪赦されたという恵みであります。神様は、天地創造の前に、私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいて選ばれました。その神様の選びを、キリストが私たちと同じ人となり、私たちの罪のために血を流すことによって実現してくださったのです。そのように、キリストは、私たちに対する神様の愛をはっきりとお示しくださったのです。わたしは先程、キリストは私たちの選びの鏡であると申しましたが、キリストは私たちの愛の鏡であるとも言えるのです(選びと愛は一つ!)。神様の愛が分からなくなったとき、私たちは十字架のキリストを見上げればよいのです。私たち自身を見るならば、神様の選びも、また神様の愛も不確かになってしまいます。なぜなら、私の内には神様から選ばれるに値する良いものも、また神様から愛されるに値する良いものもないからです。自分自身を見れば、私たちに対する神様の選び、また、神様の愛は不確かになってしまいます。しかし、神様は、私たちをキリストにおいて選ばれました。神様はキリストにおいて私たちを御自分の子として愛してくださったし、これからも愛してくださるのです。この「キリストにおいて」という視点が教会について考えるうえでも、とても大切であると思います。私たちは、キリストの教会であります。キリストが御言葉と聖霊において私たちと共にいてくださるのです。そのキリストの教会の一員として歩むとき、私たちは確かに自分が神の民として選ばれていること、神様の子として愛されていることを実感することができるのです。

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