永遠を思う心 2016年2月14日(日曜 朝の礼拝)

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永遠を思う心

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
コヘレトの言葉 3章1節~14節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:1 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
3:2 生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
3:3 殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
3:4 泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
3:5 石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
3:6 求める時、失う時/保つ時、放つ時
3:7 裂く時、縫う時/黙する時、語る時
3:8 愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
3:9 人が労苦してみたところで何になろう。
3:10 わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
3:11 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。
3:12 わたしは知った/人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と
3:13 人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ、と。
3:14 わたしは知った/すべて神の業は永遠に不変であり/付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。コヘレトの言葉 3章1節~14節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は伝道礼拝として礼拝をささげております。それで今朝は、旧約聖書のコヘレトの言葉を読んでいただきました。この書物がコヘレトの言葉と呼ばれているのは、1章1節の御言葉に由来します。1章1節から11節までお読みします。

 エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦は何になろう。一代が過ぎればまた一代が起こり/永遠に耐えるのは大地。日は昇り、日は沈み/あえぎ戻り、また昇る。風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き/風はただ巡りつつ、吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることなく/どの川も、繰り返しその道程を流れる。何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず/目は見飽きることなく/耳は聞いても満たされない。かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。見よ、これこそ新しい、と言ってみても/それもまた、永遠の昔からあり/この時代の前にもあった。昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも/その後の世にはだれも心に留めはしまい。

 1節に、「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」とあります。コヘレトとは「集会を召集する者」という意味で、集会で教える賢者、知恵の教師のことであります。コヘレトの言葉は、聖書のジャンルで言えば、知恵文学の一つであるのです。コヘレトは「エルサレムの王、ダビデの子」であることと、1章16節の「かつてのエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなる者となった」という記述から、神様から知恵を授かったソロモン王ではないかと伝統的に考えられてきました(列王上3章参照)。ソロモンは紀元前10世紀の人物ですから、そうすると、この書物も紀元前10世紀に記されたことになります。しかし、現代では色々と研究が進んで、文体や用いられている用語などから、この書物は紀元前3世紀ごろに、ある知恵の教師によって記されたと考えられています。無名のある知恵の教師によって書かれた書物がソロモンの名で受け入れられていたゆえに、聖なる書物として受け入れられたと言うのです。このように著者についてはいささか議論があるのですが、私は著者のことを「コヘレト」と呼んでお話したいと思います。

 コヘレトは、「なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい」と語り出します。その理由が3節から11節にまでに記されているのですが、この空しさはこの書物を通して一貫しています。コヘレトの空しさの根本的な理由、それは人間が死んでしまうということです。2章13節から17節までをお読みします。

 わたしの見たところでは/光が闇にまさるように、知恵は愚かさにまさる。賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に。しかしわたしは知っている/両者に同じことが起こるのだということを。わたしはこうつぶやいた。「愚者に起こることは、わたしにも起こる。より賢くなろうとするのは無駄だ。」これまた空しい、とわたしは思った。賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか。わたしは生きることをいとう。太陽の下に起こることは、何もかもわたしを苦しめる。どれもみな空しく、風を追うようなことだ。

 コヘレトは、知恵は愚かさにまさることを知っておりますが、同時に賢者も愚者も等しく死ぬことを知っております。それはコヘレトにとって、すべてを空しくしてしまうことであったのです。コヘレトは神様を信じております。神様が天地万物を造り、すべてのことを統べ治めておられることを信じております。また、人が死ねば塵(体)は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰ることを信じております(12:7参照)。さらには、死後の裁きをも信じているのです。それゆえ、コヘレトは、この書物の結論としてこう記すのです。12章12節から14節をお読みします。

 それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも/一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう。

 コヘレトの主張、「すべては空しい」という主張は変わっておりません(12:8参照)。しかし、コヘレトはこの書物の最後に、「『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて」と記すのです。死んですべてが終わりならば、神を畏れ、その戒めを守っても空しいかも知れません。しかし、「神は、善をも悪をも/一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう」ゆえに、神を畏れ、その戒めを守ることこそ、人間のすべてであると結論するのです。

 コヘレトの言葉には、人は死んだ後、その霊が神の元へ行くこと、そして、神から裁きを受けなければならないことが記されていますが、復活、よみがえりという思想はありません。死者の復活については、イエス・キリストの復活によって明らかにされたことであり、コヘレトにはまだ隠されているのです。それゆえ、コヘレトは、「人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう」と記すのです(3:22)。私たちは、死者の中から復活されたイエス・キリストによって死後どうなるのかを示された者たちでありますが、コヘレトには、死後どうなるかは隠されているのです。もっと言えば、コヘレトにとって神様はよく分からない、遠い存在なのです。私たちはイエス・キリストにおいて神様がどのようなお方かを示され、イエス・キリストにおいて神様が共にいてくださることを知っておりますが、イエス・キリストを知らないコヘレトにとって神様はよく分からない遠い存在であるのです。そのことを踏まえて、今朝の御言葉3章1節から15節の御言葉をご一緒に学びたいと思います。

 3章1節から8節までをお読みします。

 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時/殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時/泣く時、笑う時/嘆く時、躍る時/石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時/求める時、失う時/保つ時、放つ時/裂く時、縫う時/黙する時、語る時/愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。

 ここに記されているのは、コヘレトが「天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探求し、知恵を尽くして調べた」言葉であります(1:13)。「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある」。これが、コヘレトが見いだした真理であります。2節から8節に、その具体例として、良い出来事の時と悪い出来事の時が対になって挙げられています。この定められた時は、人間が事を行うのにふさわしい時というよりも、神様によって定められている時のことであります。なぜなら、時間は神様によって造られた被造物であるからです。聖書に記されている最初の御言葉は、「初めに神は天地を創造された」でありますが、神様は、天地万物と共に時間をも造られたのです。すなわち、神様は天地万物を時間と共に、時間の中に造られたのであります(アウグスティヌス)。神様は御自分の造られたものを御心のままに保ち、統べ治めておられますが、そのことは時間においても言えるのです。その神様の創造と摂理の御業を背景にして、コヘレトは、「天の下の出来事にはすべて神様が定められた時がある」と言うのです。このことは、言い方を変えると、「人間にはどうしようもない出来事が起こる時がある」ということであります。それゆえ、コヘレトは、「人が労苦してみたところで何になろう」と記すのです。コヘレトは、何事にも神様によって定められた時があるならば、人が労苦してみたところで何になろうかと言うのです。確かに人は自分の労苦によって、天の下の出来事の時を定めることはできません。しかし、コヘレトが、神様が人の子らにお与えになった務め、すなわち人生において見極めたことは、「神はすべてを時宜にかなうように造」られるということであったのです。「時宜」とは「時の丁度よいこと。また、その判断。程よいころあい」のことであります(広辞苑)。神様はすべてを時の丁度良いように造られる。神様は時の丁度良いように事を起こされるのです。口語訳聖書では、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と翻訳されています。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と訳すにしても、「神はすべてを時宜にかなうように造」られると訳すにしても、そこには創造と摂理の主である神様の善意を信じる信仰が言い表されております。コヘレトは、すべての出来事が起こる時を定めておられる神様の善意に信頼するがゆえに、「神はすべてを時宜にかなうように造り」と記すことができたのです。

 続けてコヘレトは、「また、永遠を思う心を人に与えられる」と記しております。ここで「永遠」と訳されている言葉(オーラーム)は長い時間の継続を表す言葉で、過去にも未来にも用いられる言葉であります。ですから、ここで言われていることは、「人間はひとつひとつの出来事を認識する能力があるだけでなく、過去から未来に流れる持続的な時間を意識する能力が与えられている」という意味であるのです。人間には今起こっていることを認識するだけではなく、過去のことから学び、将来に起こることを予測する能力も与えられている。しかし、「それでもなお、神のなさる業は始めから終わりまで見極めることは許されていない」のであります。人間にはすべての事が起こる時を完全に管理することは許されていないのです。それゆえ、コヘレトは、「わたしは知った/人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と/人はだれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ、と」と記すのです。このコヘレトの言葉は、「明日のことは分からないのだから、今日を楽しめ」と言っているように理解することができます。しかし、ここで見落としてはならないことは、それが神の賜物として語られていることです。神様を抜きにした飲み食いではなくて、神様から与えられた務めを果たし、労苦して得たものを飲み食いすることが人間にとって最も幸福なことであるのです。 

 また、コヘレトは次のようにも記しています。「わたしは知った/すべて神の業は永遠に不変であり/付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた」。人には神様のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されておりませんが、その神様の御業は永遠に変わることなく、完全であります。なぜなら、神様御自身が、永遠に変わることなく、完全なお方であるからです。それゆえ、人間は神様を畏れ敬うのです。コヘレトの言葉と同じ知恵文学である箴言に、「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」という御言葉があります(箴言19:21)。「人の心には多くの計らいがある。しかし、主の御旨だけが実現する」。それゆえ、人は神を畏れ敬うことが求められるのです。私たちの業を主にゆだねて、主が一歩一歩を備えてくださることを信じて計画するとき、私たちを用いて主は御業をなしてくださるのです(箴言16:3、9参照)。神様がすべてのことを時宜に適うようにお造りになり、その業が永遠に変わることなく、完全であるという信仰は、私たち人間が神様を畏れ敬う生き方へと導くのです。そして、それは神様が人間を創造された目的に適うことであるのです。聖書は、神様が人間を御自分のかたちに似せて造られたことを教えていますが、それは人間が神様を畏れ敬って生きるためであるのです。そして、神様を畏れ敬う時こそが、神様を礼拝する時であるのです。神様は今日、私たちに神様を礼拝する時を定めてくださったのです。

 この説教のはじめにも申しましたように、コヘレトはイエス・キリストを知りません。もしコヘレトがイエス・キリストの出来事を知ったらびっくり仰天すると思います。なぜなら、神の御子が人として生まれてくださり、十字架に死んで復活されたというイエス・キリストの出来事こそ、神が私たちにしてくださった最も美しい出来事であったからです。そして、イエス・キリストこそが、コヘレトが分からないと言っていた、死後どうなるかを示してくださった御方であるからです。コヘレトだけではありません。死後どうなるのか分からない私たちに、イエス・キリストは復活によって、御自分を信じる者は死んでも生きる、神様との完全な交わりである永遠の命を持つことができることを示してくださったのです(ヨハネ11:25参照)。それゆえ、イエス・キリストを信じる者は、この地上の将来だけではなく、死んでから先の将来にまで思いを向けることができるのです。復活して、今も活きておられるイエス・キリストの名によってささげる礼拝においてこそ、私たち人間は永遠を思うことができるのです。

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