枯れた骨の復活 2016年5月15日(日曜 朝の礼拝)

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枯れた骨の復活

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
エゼキエル書 37章1節~14節

聖句のアイコン聖書の言葉

37:1 主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。
37:2 主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。
37:3 そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」
37:4 そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。
37:5 これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。
37:6 わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」
37:7 わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。
37:8 わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。
37:9 主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」
37:10 わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。
37:11 主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。
37:12 それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。
37:13 わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。
37:14 また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。エゼキエル書 37章1節~14節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、聖霊の降臨をお祝いするペンテコステの礼拝であります。ペンテコステとは、ギリシャ語で「50番目の」という意味であります。過越の祭りから50日目に行われる五旬祭の日に、約束の聖霊が与えられたことから、聖霊降臨日をペンテコステと呼んでいるのです。過越の祭りにおいて十字架につけられたイエス・キリストは、3日目に復活され、40日に渡って弟子たちに現れ、天に昇られました。そして、その10日後の五旬祭の日に、弟子たちに約束の聖霊を与えてくださったのです。イエス・キリストを神の御子、救い主と告白する私たちにも、聖霊は与えられております。私たちは、聖霊によって、「イエス・キリストは主である」と告白し、神様を「アッバ、父よ」と呼ぶことができるのです。その恵みを覚えつつ、今朝は、エゼキエル書37章の御言葉をご一緒に学びたいと思います。

 エゼキエルとは人の名前であります。エゼキエルという名前の意味は、「神は強められる」という意味であります。エゼキエルについては、1章1節から3節に次のように記されています。旧約の1296ページです。

 第三十年の四月五日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。それは、ヨヤキン王が捕囚となって第五年の、その次の五日のことであった。カルデアの地ケバル川の河畔で、主の言葉が祭司ブジの子エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼に臨んだ。

 小見出しに、「エゼキエルの召命」とありますように、ここには、エゼキエルが預言者として召されたことが記されています。「第三十年の四月五日のことである」とありますが、これは、エゼキエルが「30歳の4月5日」ということであります(創世7章11節参照)。エゼキエルは30歳の4月5日に、神の顕現に接し、預言者として召されたのでありました。それは、ヨヤキン王が捕囚となって第5年の4月の5日のことであったのです。このとき、エゼキエルは、「ケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいた」と記されています。エゼキエルはヨヤキン王が捕囚となったとき、一緒にバビロンに連れて来られたのです(列王下24:8~17参照)。エゼキエルは、捕囚の地バビロン(現在のイラク)において、神の顕現に接し、預言者として召されたのでありました。エゼキエルが預言者として活動した時代は、紀元前6世紀でありますが、その少し前に、エレミヤが預言者として活動しておりました。エレミヤはエゼキエルよりも30年ほど前に、預言者として活動しており、エゼキエルもエルサレムでエレミヤの預言を聞いたことがあったのではないかと言われています。エレミヤの活動については、エレミヤ書に記されておりますが、エレミヤはユダヤの地に立てられた預言者でありました。それに対して、エゼキエルは捕囚の地、バビロンに立てられた預言者であったのです。また、エレミヤと同じように、エゼキエルは祭司の子でありました。エゼキエルが神殿で仕え、神の掟を教える祭司の子であったことは、エゼキエル書全体に強い影響を与えています。40章以下に、「新しい神殿の幻」について、また、「新しい神殿祭儀」について記されておりますけれども、ここには、祭司の子であるエゼキエルの関心が反映されているのです。

 では、今朝の御言葉である37章をご一緒に読み進めていきましょう。旧約の1357ページです。

 1節に、「主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた」とあります。これがエゼキエルが恍惚状態で体験したことなのか、それとも実際に、空間を移動してのことなのかには議論があります。わたしとしては、書かれているとおり、実際に空間を移動して、連れて来られたと理解したいと思います。この谷には「非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた」とありますから、ここでは、昔、大きな戦いがあり、多くの人が死んだのでありましょう。たくさんの枯れた骨が転がっている情景を目の当たりにするエゼキエルに、主は、「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」と言われました。私たちなら、何と答えるでしょうか?人間の常識からすれば「できない」「不可能」でありますね。しかし、そのように問われたのが神様でありましたので、エゼキエルは、「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えました。エゼキエルは、「これらの骨が生き返るかどうかは、命の主であるあなたがご存じのことです」と答えたのです。そのようなエゼキエルに、主はこう言われます。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」。ここでエゼキエルは、枯れた骨に向かって預言するようにと言われております。枯れた骨ですから、もちろん、耳はありません。しかし、主はエゼキエルに、枯れた骨に主の言葉を告げよと言われるのです。そして、エゼキエルは、主が命じられたように枯れた骨に向かってこう預言したのです。「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」。そのようにエゼキエルが預言していると、「音がした」と記されています。カタカタと音を立てて骨と骨が近づき、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかりと覆ったのです。私たちがここで心に留めるべきは、神様の言葉の力、神様の言葉は出来事となるということであります。創世記の1章3節に、「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」とありますように、神様の言われた言葉はそのとおりになるのです。神様の御言葉は、無から有を生じさせる力ある言葉であるのです。エゼキエルの口を通して語られた神様の御言葉によって、骨と骨は近づき、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆いました。しかし、その中には霊はありませんでした。ここで「霊」と訳されている元の言葉は、ルーアッハと呼ばれるヘブライ語で、「風」とも「息」とも訳されます。ですから、「その中に霊はなかった」とは、「その中には息はなかった」、息をしていなかったという意味であります。そこで、主はエゼキエルにこう言われます。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。すうすれば彼らは生き返る」。ここで「霊」と訳されている言葉も、ルーアッハという言葉で、「息」とも「風」とも訳せる言葉であります。口語訳聖書と新改訳聖書を見ますと、「霊」ではなくて、「息」と翻訳されています。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え」と記されているのです(新改訳)。この神様の言葉の背景にあるのは、創世記の2章に記されている、神様が人間を造られたときの御言葉であります。創世記の2章7節に、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と記されています。その命の息、命の霊が四方から吹きつけるよう語りなさいと、主はエゼキエルに言われたのです。ここでもエゼキエルは、主に命じられたとおり預言しました。すなわち、エゼキエルは、霊に対して、「主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹き付けよ。そうすれば彼らは生き返る」と預言したのです。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立ち、大きな集団となったのです。

 さて、この壮大な光景は何を意味するのでしょうか?主はその意味をエゼキエルにこう説き明かされます。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みは失せ、我々は滅びる』と。それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」。

 主は、「これらの骨はイスラエルの全家である」と言われます。それは、捕囚として連れて来られたイスラエルの人々が、「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と言っていたからです。このようにイスラエルの人々が言っていたのは、彼らのもとに、エルサレムが陥落したとの知らせが届いていたからです。33章21節にこう記されておりました。「我々の捕囚の第十二年十月五日に、エルサレムから逃れた者がわたしのもとに来て言った。『都は陥落した』と」。イスラエルの都エルサレムがバビロン帝国によって陥落したことは、国家としての存亡に関わる危機でありました。それゆえ、この知らせを聞いた捕囚の民は、「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と言っていたのです。しかし、そのようなイスラエルの民に、「わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く」と、主は言われるのです。神様に罪を犯し、その裁きとしてバビロンの地に奴隷として連れて来られた人々を、神様は再び、イスラエルの地へと連れて行くと言われるのであります。そのようにして、神様は、枯れた骨に、筋と肉を生じさせ、皮膚で覆い、息を与えて生きるようにしてくださるのです。

 14節に、「また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きるようになる」とありますが、ここでの「霊」は人間を生物学的に生かす霊ではなく、神の御心に従って人を生かす神の霊、聖霊のことであります。といいますのも、エゼキエルは、36章25節から28節でこう預言していたからです。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしに従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる」。

 バビロン帝国によって、捕囚とされていた民が、イスラエルの地へ戻ることは、ペルシャ帝国の王キュロスによって実現しました。バビロン帝国を滅ぼしたペルシャ帝国の王キュロスは、捕囚の民がそれぞれの地に帰ることを認めたのです。イスラエルの人々はエゼキエルが預言したとおり、自分の土地に再び住むことができるようになったのです。バビロン捕囚から解放されたイスラエルの人々は、神殿を再建し、今度こそは神様の掟に従って歩もうと決心しました。しかし、イスラエルが神様の掟に従って歩むことは、彼らの決心によることではなく、神様の霊が与えられることによって実現することでありました。イスラエルの地に住むようになった人々は、骨を筋と肉と皮膚で覆われた者でありまして、まだその中に、霊はないのです。そして、その霊が注がれたのが、ペンテコステの日の出来事であったのです。神様は、御自分の掟に従って歩ませ、御自分の裁きを守り行わせる御自分の霊を、イエス・キリストを通して与えてくださいました。神様は、御自分の掟に完全に従い、御自分の裁きを完全に受けられたイエス・キリストを通して、御自分の霊を注いでくださったのです。それゆえ、「枯れた骨の復活」という預言は、イエス・キリストを主と告白するキリスト教会においてこそ、実現したのです。神様が立てられたメシア、王であり、祭司であり、預言者であるイエス・キリストを信じる私たちこそが、神のイスラエルであるのです(ガラテヤ5:16参照)。

 紀元前6世紀の捕囚の民であったイスラエルにとっての希望は、イスラエルの地に住み、国家を再建することでありました。では、現代に生きる私たちにとっての希望とは何でしょうか?それは、イエス・キリストにおいて到来した神の国を進展させ、イエス・キリストの再臨によって完成する栄光の御国の祝福にあずかることであります。現代の日本社会は、希望を持てない社会であるとよく言われます。しかし、そのような社会にあって、私たちは、神の国を進展させ、栄光の御国を受け継ぐという希望を与えられているのです。私たちに与えられている聖霊は、御国を受け継ぐことができることの保証でもあります(エフェソ1:14参照)。それゆえ、私たちは、栄光の御国を必ず受け継ぐことができるのです。

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