イエスがキリストであると信じる人 2017年12月31日(日曜 朝の礼拝)
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イエスがキリストであると信じる人
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネの手紙一 5章1節~12節
聖書の言葉
5:1 イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。
5:2 このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。
5:3 神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。
5:4 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。
5:5 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
5:6 この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。
5:7 証しするのは三者で、
5:8 “霊”と水と血です。この三者は一致しています。
5:9 わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。
5:10 神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。
5:11 その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。
5:12 御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。ヨハネの手紙一 5章1節~12節
メッセージ
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先程は、Sさんの信仰告白式を執り行いました。親の誓約に基づいて幼児洗礼を受けた姉妹が、成長して、自分の心で信じ、自分の口で公に信仰を言い表したのです。ローマの信徒への手紙10章9節、10節にこう記されています。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」。この御言葉が、Sさんのうえに、実現したのであります。彼女だけではなく、ここに集っているイエス・キリストを信じている私たちのうえにも実現しているわけです。今朝の説教題を、「イエスがキリストであると信じる人」としました。これは、5章1節の「イエスがメシアであると信じる人」から取ったものであります。新共同訳聖書は、「メシア」と翻訳していますが、元の言葉では「キリスト」であります。しかし、意味は同じであります。「メシア」はヘブライ語であり、そのギリシャ語訳が「キリスト」であるのです。そして、意味は、どちらも「油を注がれた者」という意味です。イスラエルにおいて、王が君臨するとき、その頭に油を注ぎました。それゆえ、王は油を注がれた者と呼ばれるようになったのです。また、「メシア」「キリスト」は約束の「救い主」を意味する言葉になりました。イエスがメシアであると信じる、イエスがキリストであると信じるとは、イエスが油注がれた王、救い主であると信じることであるのです。
今朝は、ヨハネの手紙一の御言葉から、「イエスがキリストであると信じる私たちは、どのような者であるのか」を、御一緒に学びたいと願います。
5章1節から5節までをお読みします。
イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
5章1節で、「イエスがメシアであると信じる人」とありますが、5節では、「イエスが神の子であると信じる者」と記されています。私たちは、イエスがメシアであり、神の子であると信じているのです(マタイ16:16、「あなたはメシア、生ける神の子です」参照)。では、どうして、私たちは、イエスがメシア、神の子であると信じて、公に言い表すことができたのでしょうか?ヨハネは、「神から生まれた者であるからだ」と記します。「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」。神から生まれた者であるゆえに、私たちは、イエスがメシア、神の子であると信じることができたのです。神から生まれる。このように聞きますと、多くの人が、ヨハネによる福音書の3章に記されている、イエス様とニコデモとの対話を思い起こされると思います。ヨハネによる福音書3章1節から8節までをお読みします。新約の167ページです。
さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができましょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
3節で、イエス様は、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。ここで、「新たに生まれる」と訳されている言葉は、「再び」とも、「上から」とも訳すことができます。ニコデモは、「再び生まれる」と取りまして、「もう一度母親の胎内に入って生まれることができましょうか」と問いました。しかし、ここでイエス様が言われているのは、「上から生まれる」こと、すなわち、神から生まれることであるのです。新たに生まれるとは、神の霊によって生まれることであるのです。私たちの存在そのものが、私たちがそれぞれの母親から生まれたことを証ししています。それと同じように、私たちがイエスがメシアであると信じていることが、私たちが皆、神から生まれたことを証ししているのです。イエス様をメシア、救い主と信じている私たちは皆、神の霊によって、上から、新しく生まれた者たちであるのです。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の446ページです。
「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」。ここに、私たちが神を愛し、同じ信仰を持つ兄弟姉妹を愛すべき根拠があります。人間社会のことを考えても、子供は自分を産んで育ててくれる親を愛します。そして、同じ親から生まれた兄弟、また姉妹を愛します。それと同じように、神様から生まれた私たちは、同じ神様から生まれた兄弟姉妹を愛するのです。また、同じ信仰を持つ兄弟姉妹を愛することは、神様の掟でもあります。私たちは、神様を愛する者として、その掟に従い、兄弟姉妹を愛することが命じられているのです。3節に、「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません」と記されています。なぜ、「神を愛するとは、神の掟を守ることです」と言い切ることができるのでしょうか?それは、神様への愛には、尊敬と服従が伴うからです(父なる神!)。ヨハネは、私たちにとって、神の掟は難しいものではないと記します。なぜなら、神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。ここでの「世」とは、神様の敵である悪魔が支配する領域のことを指しています(5:19参照)。この世は、私たちを神様に背かせようとします。しかし、私たちはイエス・キリストへの信仰によって、世に打ち勝つ者とされているのです。なぜなら、イエス・キリストは、既に世に打ち勝たれた御方であるからです(ヨハネ16:33参照)。イエス・キリストは、父なる神への愛と、御自分の民である私たちへの愛によって、世に打ち勝たれました。そのイエス・キリストから愛されている者として、私たちは互いに愛し合うことができるのです(ローマ5:5参照)。
6節から10節までをお読みします。
この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、霊はこのことを証しする方です。霊は真理だからです。証しするのは三者で、霊と水と血です。この三者は一致しています。私たちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じていない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。
私たちが、イエスはメシア、神の子であると信じているのは、神の証しによるものであります。私たちの内にある神の証しによって、私たちは、イエスがメシア、神の子であると信じているのです。6節に、「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです」とあります。ここでの「水」は洗礼者ヨハネからイエス様が水の洗い(洗礼)を受けたことを指しています。また、ここでの「血」はイエス様が十字架において血を流し死んでくださったことを指しています。ヨハネは、「水と血を通って来られた方」という言葉によって、イエス・キリストの救い主としての生涯全体を言い表しているのです。続けて、ヨハネは、「水だけではなく、水と血によって来られたのです」と記していますが、これは、ヨハネの教会を惑わせていた偽預言者たちの教えを背景としています。ヨハネは、4章1節から3節で、こう記しておりました。
愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。
ヨハネの教会を惑わしていた偽預言者たちは、イエス・キリストが肉となって来られたことを否定しました。彼らは霊なるキリストと、人間イエスを区別しました。彼らによれば、霊なるキリストは、洗礼のときに、イエスに降りました。そして、霊なるキリストは、イエスが十字架につけられたとき離れ去ったのです。よって、彼らによれば、十字架につけられたのは、神の御子ではなく、人間イエスであったのです。この教えによれば、十字架の贖いも、十字架によって示された神の愛も成り立ちません。彼らはキリストであるイエスが、洗礼を受けたことは認めても、十字架の死を死んだことは認めませんでした。そのような者たちを念頭に置きつつ、ヨハネは、イエス・キリストは「水だけではなく、水と血とによって来られた」と記しているのです。洗礼によって始まり、十字架の死をもって成し遂げられた、イエス・キリストの歩みを証しする御方、それは神の霊、聖霊であります。聖霊は真理の霊であるゆえに、その証しは真実であるのです(ヨハネ15:26参照)。7節に、「証しするのは三者で、霊と水と血です。この三者は一致しています」とあります。旧約聖書によれば、二人まは三人の一致した証言は真実であるとされました(申命19:15参照)。そのことを背景にして、霊と水と血の三者が、イエスがキリストであり、神の子であると証ししていると言うのです。私たちが人間の証しを受け入れるのであれば、神の証しを受け入れるのはなおさらではないかと記すのです。神様は、イエス・キリストの御生涯と聖霊によって、この方こそ、悪魔の働きを滅ぼす神の御子であることを証しされたのです。誰でも聖書を開いて、イエス・キリストの救い主としての生涯、洗礼から十字架までの歩みを読むことができます。しかし、聖書を読んでも誰もがイエスはメシアであり、神の子であると信じるわけではありません。では、なぜ、私たちはイエスがメシアであり、神の子であると信じることができたのでしょうか?また、できるのでしょうか?それは、私たちの内に証しする御方、聖霊がおられるからです。私たちの内におられる聖霊が、水と血を通ってこられたイエス・キリストこそ、メシアであり、神の子であると証ししておられるのです。イエスはメシアであり、神の子であると信じる私たちの内には、神の証しがあるのです。
11節、12節をお読みします。
その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子のうちにあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。
神が御子についてなさった証し、それは、「神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そしてこの命が御子のうちにあるということ」であります。「永遠の命」とは、永遠である神との交わりに生きることであります。創世記を読みますと、神様が人を御自分のかたちに似せて造られたことが記されています。神様は人間を、創造主である御自分を正しく知り、心から愛し、永遠の祝福の中に共に生きる者として造られました(ハイデルベルク問6参照)。しかし、私たちの始祖アダムとエバは、神様の掟に背いて罪を犯し、その永遠の祝福を失ってしまったわけです。彼らはエデンの園から追放され、霊的に死んだものとなってしまったのです。アダムとエバだけではありません。アダムから普通の仕方で生まれて来る全人類が、神様の御前に失われた者、死んだ者となってしまったのです。しかし、神様は、独り子を救い主として遣わしてくださり、私たちが神様との永遠の交わりに生きることができるようにしてくださったのです。イエス・キリストの内に、神様との永遠の命の交わりが実現している。このイエス・キリストに結ばれることによって、私たちも神様との永遠の交わりを得ることができたのです。神の御子イエス・キリストに結ばれることによって、私たちも神の子供とされ、神様との永遠の愛の交わりに生きる者とされたのです。イエスは、メシアであり、神の子であると信じる私たちは、永遠の命を持っているのです。
このように、イエスはキリストであると信じる私たちは、神から生まれた者であり、自分の内に神の証しがあり、永遠の命を持っているのです。そして、そのことは、私たちの功績によることではなく、一方的な神様の恵みであるのです(ヨハネ6:29参照)。