神に従う人は信仰によって生きる 2018年7月01日(日曜 朝の礼拝)

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神に従う人は信仰によって生きる

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ハバクク書 2章1節~4節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:1 わたしは歩哨の部署につき/砦の上に立って見張り/神がわたしに何を語り/わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。
2:2 主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように/板の上にはっきりと記せ。
2:3 定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。
2:4 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」ハバクク書 2章1節~4節

原稿のアイコンメッセージ

序 

 今朝は、ハバクク書から御言葉の恵みにあずかりたいと願います。なぜ、ハバクク書からお話しようと思ったかと言いますと、使徒パウロやヘブライ人への手紙の著者が引用している御言葉、2章4節の「神に従う人は信仰によって生きる」という御言葉が、そもそもどのような文脈で語られたのかを御一緒に確認したいと願ったからです(ローマ1:17、ガラテヤ3:11、ヘブライ10:38参照)。

 ハバクク書は、南王国ユダ出身の預言者ハバククが、紀元前600年頃に記したと考えられています(紀元前612年アッシリアの都ニネベ陥落、紀元前605年カルケミシュの砦にて、エジプト軍大敗、新バビロニアの覇権開始)。当時、ユダ王国の王はヨヤキムでした。ヨヤキムの治世については、列王記下の23章に記されています。旧約の621ページです。列王記下23章36節から24章7節。

 ヨヤキムは二十五歳で王となり、十一年間エルサレムで王位にあった。その母の名をゼブダといい、ルマ出身のペダヤの娘であった。彼は先祖たちが行ったように、主の目に悪とされることをことごとく行った。彼の治世に、バビロンの王ネブカドネツァルが攻め上って来た。ヨヤキムは三年間彼に服従したが、再び反逆した。主は彼に対してカルデア人の部隊、アラム人の部隊、モアブ人の部隊、アンモン人の部隊を遣わされた。主はその僕である預言者たちによってお告げになった主の言葉のとおり、ユダを滅ぼすために彼らを差し向けられた。ユダが主の御前から退けられることは、まさに主のご命令によるが、それはマナセの罪のため、彼の行ったすべての事のためであり、またマナセが罪のない者の血を流し、エルサレムを罪のない者の血で満たしたためである。主はそれを赦そうとはされなかった。ヨヤキムの他の実績、彼の行ったすべての事は、『ユダの王の歴代誌』に記されている。ヨヤキムは先祖と共に眠りにつき、その子ヨヤキンが代わって王となった。エジプトの王は自分の地から再び出て来ることがなかった。バビロンの王が、エジプトの川からユーフラテス川に至るまで、エジプトの王のものであったすべての地方を占領したからである。

 ヨヤキムは、先祖たちと同じように主の目に悪とされることをことごとく行った悪い王でありました。社会は秩序を失い、混乱状態にあったのです。また、当時は、カルデア人の国、バビロン帝国が力を振るっていました。ユダ王国は、バビロン帝国の軍隊によってしばしば攻撃を受けていたのです。そのような内憂外患とも言える状況の中で、ハバクク書は記されたのです。

1 神のミシュパート

 ハバクク書は3章からなる短い書物であり、その内容の区分も分かりやすいと思います(ハバクク書1464ページ)。小見出しを見ていきますと、「預言者の嘆き」「主の答え」「預言者の嘆き」「主の答え」「賛美の歌」とありますように、預言者と主の問答が繰り返されて、預言者が主をほめたたえて終わります。今朝、私たちが注目したい2章4節は、二回目の「主の答え」の中に記されています。二回目の問答は、最初の問答と繋がっていますので、最初の問答から見ていきたいと思います。1章1節から4節。

 預言者ハバククが、幻で示された託宣。主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに/いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに/あなたは助けてくださらない。どうして、あなたはわたしに災いを見させ/労苦に目を留めさせられるのか。暴虐と不法がわたしの前にあり/争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。律法は無力となり/正義はいつまでも示されない。神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、正義が示されても曲げられてしまう。

 ここで、ハバククは絶えず祈っています。しかし、神様はそのハバククの祈りを聞いてくださらない。ハバククが「不法」と訴えても、それはそのまま放置されている。ハバククの前には、暴虐と不法があり、争いといさかいがある。律法は無力とされ、秩序は失われ、正義は曲げられてしまう。そのようなユダ王国の社会の現状を、ハバククは主に嘆き、訴えるのです。それに対する主の答えが5節から11節です。

 諸国を見渡し、目を留め/大いに驚くがよい。お前たちの時代に一つのことが行われる。それを告げられても、お前たちは信じまい。見よ、わたしはカルデア人を起こす。それは冷酷で剽悍な国民。地上の広い領域に軍を進め/自分のものでない領土を占領する。彼らは恐ろしく、すさまじい。彼らから、裁きと支配が出る。彼らの馬は豹よりも速く/夕暮れの狼よりも素早く/その騎兵は遠くから来て/獲物に襲いかかる鷲のように飛ぶ。彼らは来て、皆、暴虐を行う。どの顔も前方に向き/砂を集めるようにとりこを集める。彼らは王たちを嘲り/支配者たちを嘲笑う。どんな砦をも嘲笑って/土を積み上げ、それを攻め取る。彼らは風のように来て、過ぎ去る。しかし、彼らは罪に定められる。自分の力を神としたからだ。

 7節に、「彼らから、裁きと支配が出る」とありますが、「裁き」と訳されている言葉は、4節で、「正義」と訳されていたのと同じ言葉です(ミシュパート)。ハバククは律法は無力となり、正義(裁き)はいつまでも示されないと嘆きましたが、主はカルデア人(バビロン帝国)によって、律法に従って裁くと言われるのです。律法の書である申命記の28章に、律法に従わない者への呪いとして、次のように記されています。「主は遠くの地の果てから一つの国民を、その言葉を聞いたこともない国民を、鷲が飛びかかるようにあなたに差し向けられる」。ハバククは、「律法は無力となり、裁きはいつまでも示されない」と嘆くのですが、主は、律法に従って、カルデア人を起こし、ユダの国を裁かれるのです。このように、カルデア人(バビロン帝国)は、神様が裁きに用いられる道具であるのです。では、カルデア人は、罪に定められないかと言えば、そうではありません。11節に、「しかし、彼らは罪に定められる。自分の力を神としたからだ」とあるように、自分の力を神としたバビロン帝国もやがては主によって裁かれることになるのです。

2 神に従う人は信仰によって生きる

 「主はユダ王国の不正を、バビロン帝国を用いて裁かれる」。この主の答えを聞いて、預言者は再び、主に嘆き、訴えます。1章12節から17節です。

 主よ、あなたは永遠の昔から/わが神、わが聖なる方ではありませんか。我々は死ぬことはありません。主よ、あなたは我々を裁くために/彼らを備えられた。岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため/彼らを立てられた。あなたの目は悪を見るにはあまりに清い。人の労苦に目を留めながら/黙っておられるのですか/神に逆らう者が、自分よりも正しい者を飲み込んでいるのに。あなたは人間を海の魚のように/治める者もない、這うもののようにされました。彼らはすべての人を鉤にかけて釣り上げ/網に入れて引き寄せ、投網を打って集める。こうして、彼らは喜び踊っています。それゆえ、彼らはその網にいけにえをささげ/投網に向かって香をたいています。これを使って、彼らは豊かな分け前を得/食物に潤うからです。だからといって、彼らは絶えず容赦なく/諸国民を殺すために/剣を抜いてもよいのでしょうか。

 ここで、ハバククは、主がユダ王国の不正を裁くために、バビロン帝国を用いることを受け入れています。12節の中ほどに、「主よ、あなたは我々を裁くために/彼らを備えられた。岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため/彼らを立てられた」とあるように、ハバククは主がバビロン帝国を用いて、御自分の民を裁かれることを受け入れています。それゆえ、ハバククは、「我々は死ぬことはありません」と言っているのです。「我々は死ぬことはありません」とは、誰一人死なないということではありません。神の民としてのイスラエルが滅びることはないということです。なぜなら、主の裁きの目的は、イスラエルの民を懲らしめて、神様の正しさの回復させることにあるからです。そうは言っても、ハバククは、ここで一つのことを訴えています。それが13節です。「あなたの目は悪を見るにはあまりに清い。人の労苦に目を留めながら/捨てて置かれることはない。それなのになぜ、欺く者に目を留めながら/黙っておられるのですか/神に逆らう者が、自分より正しい者を呑み込んでいるのに」。ここでハバククが問題としていることは、ユダ王国の悪を、より大きな悪であるバビロン帝国によって罰することは、正しいことなのか?ということです。14節で、人間が海の魚に譬えられています。カルデア人は投網を打って、魚を取り、豊かな食物を得ている。彼らは、その投網に向かって香をたいている。投網を神として礼拝しているわけです。では、この投網は何でしょうか?それは、17節の「剣」であり、11節の「力」です。容赦なく諸国民を殺し、略奪する軍事力です。カルデア人は自分の力を神とし、その剣によって、容赦なく諸国民を殺している。それをあなたは放っておかれるのですか?こんなふうに、ハバククは主に訴えるのです。それに対する主の答えが、2章1節から4節です。

 わたしは歩哨の部署につき/砦の上に立って見張り/神がわたしに何を語り/わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように/板の上にはっきりと記せ。定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」

 主は、ハバククに、「幻を書き記せ」と命じられます。そして、その幻とは、どうやら「主がバビロン帝国を滅ぼす」という幻であるようです。主は、ユダ王国を裁くために、懲らしめるために、バビロン帝国を用いられます。そして、定められた時に、バビロン帝国を裁かれる、滅ぼされるのです。そのような時が必ず来るから、待っているようにと主は言われるのです。そして、御自分の民が、どのように生きるべきか、その秘訣を4節で、教えられるのです。「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる」。「高慢な者」とは、驕り高ぶる者、自分を神とする者です。カルデア人は自分の力を神としました。そのような者の心は、当然、神様からご覧になると正しくない、まっすぐではありません。では、神様の御前に正しい者とされるのは、どのような人か?それは、「信仰によって生きる人だ」と言うのです。「神に従う人は信仰によって生きる」。神に従う私たちを生かしている命の原動力は信仰なのです。そして、この信仰に、ハバクク自身が生きたのです。ハバクク書の終わり、3章16節から19節です。

 それを聞いて、わたしの内蔵は震え/その響きに、唇はわなないた。腐敗はわたしの骨に及び/わたしの立っているところは揺れ動いた。わたしは静かに待つ/我々に攻めかかる民に/苦しみの日が臨むのを。いちじくの木に花は咲かず/ぶどうの枝は実をつけず/オリーブは収穫の期待を裏切り/田畑は食物を生ぜず/羊はおりから断たれ/牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって喜び/わが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし/聖なる高台を歩ませられる。

 17節には、バビロン帝国によってユダの国が攻められ、荒廃した状況が記されています。しかし、そのような荒廃した状況においても、ハバククは、「わたしは主によって喜び/わが救いの神のゆえに踊る」と言うのです。それは、ハバククが主の言葉を信じているからです。主が示された幻、主がバビロン帝国を滅ぼされる日が必ず来ることを信じているからです。

3 もうひとつの幻

 2章3節に、「定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ」と記されていました。今朝は、私たちに対する「もうひとつの幻」を見て、終わりたいと思います。ヨハネの黙示録21章です。新約の477ページ。ヨハネの黙示録21章1節から4節。

 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。

 これが、今朝、私たちに示されたもう一つの幻です。主イエス・キリストが再び来てくださることによって、新しい天と新しい地が到来する。そこには、もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない。神様が私たちの涙をぬぐい取ってくださる、神様との親しい交わりが実現するのです。私たちは、この幻が必ず実現することを信じて、今日、喜び、踊ることができるのです。それが、私たちを生かす信仰であるのです。

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