目に見えない望み 2017年3月05日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

目に見えない望み

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 8章18節~25節

聖句のアイコン聖書の言葉

8:18 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
8:19 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
8:20 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。
8:21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
8:22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
8:23 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
8:24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。
8:25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。ローマの信徒への手紙 8章18節~25節

原稿のアイコンメッセージ

前回、私たちは、イエス・キリストを信じる私たちが神の子とする霊を受けて、神の子とされたことを学びました。私たちは神の子とする霊を受けたゆえに、「アッバ、父よ」と叫び、祈ることができるのです。神の御子はイエス・キリストただお一人でありますが、イエス・キリストにあって私たちも神の養子、神の子とされたのです。そうであれば、私たちは神の相続人、しかもキリストと共同の相続人でもあります。キリストと共に苦しむ私たちは、キリストと共に栄光をも受けることになるのです。ここまでは、前回の振り返りでありますが、今朝はその続きとなります。

 18節をお読みします。

 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。

 「現在の苦しみ」とは、17節にありますように、「キリストと共に苦しむ」苦しみのことであります。この「苦しみ」については、前回の説教において、イエス・キリストを信じるゆえの苦しみであると申しました。また、この「苦しみ」は、福音宣教と教会形成のための苦しみでもあります。といいますのも、コロサイの信徒への手紙1章24節でパウロはこう記しているからです。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」。パウロは福音宣教と教会形成のために苦しむことにより、自分はキリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしていると語りました。福音宣教と教会形成は、キリストが弟子である私たちに委ねられた働きであります。キリストから委ねられた福音宣教と教会形成のために苦しむとき、私たちはキリストと共に苦しんでいると言えるのです。イエス・キリストの名のゆえに迫害されるという消極的な苦しみだけではなくて、イエス・キリストの教会を建て上げるという積極的な苦しみをも私たちは与えられているのです。さらに、この「苦しみ」は、霊によって体の仕業を断つという霊的な戦いに伴う苦しみでもあります。14節に、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」と記されておりました。ここでは、神の霊によって導かれてイエス・キリストを主と告白した私たち皆のことが言われています。けれども、その前に、私たちが思い起こさねばならないのは、神の御子、神の独り子であるイエス様のことであります。イエス様こそ、神の霊によって導かれた神の子であられるからです。福音書を読みますと、イエス様が公に救い主としての生涯を始められたとき、天が開いて、聖霊が鳩のように降ったことが記されています。そして、イエス様は救い主の生涯を聖霊に導かれて歩まれたのです。聖霊によって悪霊を追い出し、聖霊によって神の国について教えられたのです。聖霊について記している、ある本を読んでおりましたら、「イエス様が生涯において罪を犯さなかったのは、聖霊の導きに完全に従われたからであった」と記されておりました。最後のアダムとして、聖霊によっておとめマリアからお生まれになったイエス様には、罪はありませんでした。しかし、その生涯において罪を犯す可能性はあったわけです。イエス様は、罪の拠点ともなる私たちと同じ肉を取られたからであります。そのイエス様が、なぜ、その生涯において罪を犯すことがなかったのか?それは、イエス様が聖霊の導きに完全に従われたからだと言うのです。それは裏を返せば、イエス様でも、聖霊の導きがなければ、罪を犯し得たということであります。イエス様が神様の御心に背いて罪を犯す可能性が最も高かったのは、十字架につけらえる前のゲツセマネの祈りにおいてであります。肉の思いからすれば、十字架につけられることは避けたい。それがイエス様の率直な思いであります。イエス様には罪はありませんでしたけれども、「肉」という言葉を用いるならば、十字架につけられることを避けることは、肉に従うということであったのです。しかし、イエス様は、祈りの中で聖霊に導かれて、肉の思いではなく、霊の思い、多くの人の罪を担って十字架の死を死ぬという道を選ばれたのです。祈りの中で、聖霊の助けをいただき、神様の心を自分の心として、十字架の死を死なれるのであります。そのようにして、イエス様は生きる者となった。栄光の体で復活し、永遠の命に生きる者となったのです。私たちも肉の思いと戦うときに、苦しみを味わいます。卑近な例で言えば、日曜日は家でゆっくりしていたい。それは当然とも言える肉の思いです。しかし、私たちは、神様が礼拝する者たちを求めていることを知っておりますので、そのような霊の思いを与えられているゆえに、礼拝に出席するわけです。本来自分がしたいと思うこと、肉の欲望を満たすことをしないで、聖書の教えに従って行動するとき、私たちは苦しみを覚えます。霊によって体の仕業を断つことには、苦しみが伴うのです。しかし、それはイエス様があのゲツセマネにおいて、私たちのために苦しまれた苦しみでもあったのです。それゆえ、キリストと共に苦しむ苦しみは、霊に従って肉の欲望を断つときに苦しむ苦しみでもあるのです。

 「現在の苦しみ」についてのお話が長くなってしまいましたが、それがどのような苦しみであれ、「将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」とパウロは記します。これはキリストと共に苦しむ私たちへの励ましの言葉であります。現在の苦しみ、キリストと共に苦しむ苦しみは、将来に比較できないほど大きな栄光を私たちにもたらすのです。その栄光とは、私たちがキリストと共に天の国を受け継ぐことであります。そして、それは将来において、私たちに現される(啓示される)ものであるのです。

 19節から22節までをお読みします。

 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。

 「被造物」という言葉が何度も出てきますが、被造物とは神様によって造られたすべてものを指しております。とは言っても、「自分の意志によるものではなく」とありますから、理性を持たない被造物、大地や空や海、魚や鳥、植物や動物などを指しているようです。創世記の1章を見ますと、神様は六つの日に渡って、天地万物をお造りになりました。聖書の思想において、厳密な意味での自然(おのずからそうなっているさま)はなく、すべては神様によって造られた被造物であるのです。それにしても、なぜ、パウロは被造物について記すのでしょうか?それは、私たちが受ける栄光、受け継ぐことになる天の国は、義の宿る新しい天と新しい地であるからです(二ペトロ3:13参照)。私たちが受け継ぐ天の国は、キリスト者だけしかいない世界ではなくて、あらゆる被造物もいる世界であるからです。パウロが「被造物は虚無に服していますが」と記すとき、そこでは、神様によって造られた良き世界が、アダムの最初の違反によって空しいものとなってしまったことが前提とされています。神様が天地万物を造られたとき、すべての被造物は神様の目から見ても、「極めて良い」ものでありました(創世1:31「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」参照)。しかし、その極めて良い世界が、アダムの違反によって、空しいものとなってしまったのです。創世記の3章で、神様は罪を犯したアダムにこう言われました。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生え出でさせる/野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に返る」。神様は、罪を犯したアダムのゆえに、「土は呪われるものとなった」と言われました。「土は茨とあざみを生え出でさせる」とありますが、茨とあざみは不毛の象徴であります。神様が造られた土地は、種を蒔けば豊かな実りをもたらす土地でありましたが、アダムの罪のゆえに呪われて不毛となり、人は労苦してパンを得ることになったのです。パウロは、ローマ書の5章で、アダムの罪によってすべての人が堕落したと記しましたけれども、アダムの罪によって堕落したのは彼から生まれて来る人間だけではありません。アダムに管理を委ねられていたすべての被造物が堕落したのです。アダムのゆえに大地は呪われるものとなった。この考え方は、アダムの子孫であるレメクにも受け継がれております。創世記の5章28節、29節にこう記されているからです。「レメクは182歳になったとき、男の子をもうけた。彼は、『主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう』と言って、その子をノア(慰め)と名付けた」。このように聖書は、被造物が虚無に服していることを教えているのです。しかし、それはパウロが言っておりますように、自分の意志によるものではなく、服従させた方、神様の意志によるものであります。被造物が虚無に服している原因となったのは、アダムの罪でありますが、被造物を虚無に服させたのは神様であるのです。そして、ここに被造物の希望があるのです。その希望とは、「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかる」ことであります。キリストにあって救われるのは、キリストを信じる人間だけではありません。被造物も滅びの奴隷状態から解放されて、神の子供たちの栄光の自由にあずかることができるのです。そのことを聖書は、「新しい天と新しい地」という言葉で言い表しているのです。「新しい天と新しい地」と聞きますと、私たちはヨハネの黙示録を思い起こしますが、実は、旧約聖書のイザヤ書に記されています。イザヤ書の65章17節を見ますと、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」と記されており、そこでは、「狼と小羊は共に草をはむ」と記されております(イザヤ65:25参照)。新しい天と新しい地においては狼が小羊を食べるということはもうないのです。そして、そのような新しい天と新しい地は、救い主、メシアの出現によってもたらされると信じられていたのです(イザヤ11章参照)。それゆえ、パウロは、被造物が神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいると記したのであります。被造物は神の子たちの現れるのを切に待ち望み、今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっているのです。私たちは、いわゆる自然災害に、この被造物のうめきを見ることができるのではないかと思います。地震や津波などの大きな災害に遭うとき、また、その知らせを聞くとき、私たちは、神様がすべてのものを御支配しておられるならば、なぜ、このようなことが起こるのであろうかと考えます。しかし、そのときに、私たちは、今朝のパウロの言葉、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」という御言葉を思い起こしたいと思うのです。なぜ、被造物がうめき、産みの苦しみを味わっているのか、それはアダムの罪、私たちの人間の罪のゆえであるのです。そのことを忘れて、ただ神様を責めるのは、わたしには正しくないように思われるのです。

 23節から25節までをお読みします。

 被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体が贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

 ここでパウロは、うめいているのは被造物だけではない。霊の初穂をいただいている私たちも神の子とされること、体が贖われることを、心の中で待ち望んでいると記します。私たちは、「アッバ、父よ」と叫ぶ聖霊を与えられて、神の子とされておりますが、完全に神の子とされているわけではありません。と言いますのも、私たちの内には肉の思いがあり、聖霊の導きに完全に従ってはいないからです。それゆえ、私たちは体が贖われること、イエス様と同じ霊の体に変えられることを、心の中で呻きながら待ち望んでいるのです。「霊の体」とは、第一コリント書の15章で、パウロが用いている言葉であります。「霊の体」とは、聖霊の導きに完全に従うことができる体という意味であります。イエス・キリストを信じる私たちは、イエス・キリストが栄光の主として再び来られる日に、霊の体に復活させられます。それは聖霊に完全に支配されている体であるのです。そして、そのとき、私たちは神の御心に完全に従う神の子とされるのです。今は、私たちには肉の思いがありますから、聖霊に完全に従うことはできません。その肉との戦いは、まさに、私たちの心に神の子とされること、体が贖われることを待ち望むうめきを生じさせるのです。しかし、それこそが、私たちを救う希望であるのです。ここでの希望は、信仰と一体的な関係にあります。なぜなら、信仰とは、望んでいることがらを確信し、見えない事実を確認することであるからです(ヘブライ11:1参照)。私たちは、イエス・キリストが栄光の主として来られる日に、イエス・キリストと同じ姿で復活させられます。そのとき、私たちは神様の御心に完全に適う神の子とされるのです。このことは、パウロが言っておりますように、目に見えない希望であります。イエス・キリストが再び来られる日に、私たちの体が贖われ、神の子とされる。そして、義の宿る新しい天と新しい地を受け継ぐことになる。そこには、もはや、呪われるものは何一つないのです(黙示22:3参照)。それは、まさしく誰も見たことのない世界であります。しかし、その目に見えないものを、私たちは信仰によって待ち望んでいるのです。天の国を受け継ぐ保証である霊の初穂をいただいている者として、忍耐して待ち望むのです。

 私たちの教派の創立20周年記念宣言に、「礼拝は天国の祝福の前味である」との言葉があります。私たちは目に見えないものを待ち望んでいるのですが、その祝福を味わえる場所がある。それが、主の日の礼拝であると言うのです。主の日の礼拝において、天国の祝福の前味を味わいつつ、私たちは忍耐して待ち望む者でありたいと願います。

関連する説教を探す関連する説教を探す