命をもたらす霊の法則 2017年2月12日(日曜 朝の礼拝)

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命をもたらす霊の法則

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 8章1節~11節

聖句のアイコン聖書の言葉

8:1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
8:2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
8:3 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。
8:4 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
8:5 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。
8:6 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
8:7 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。
8:8 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
8:9 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
8:10 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。
8:11 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。ローマの信徒への手紙 8章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は、ローマの信徒への手紙8章1節から11節までを読んでいただきましたが、今朝は8章1節から4節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 パウロは、7章7節以下を「わたし」という一人称単数形で記しました。これは、パウロ個人に留まらない、アダムに結ばれているすべての人間を意味しています。パウロは、キリストに結ばれた者の立場から、振り返って、かつての「わたし」について記したのであります。しかし、8章1節では、キリスト・イエスに結ばれている、今の「わたし」について記すのです。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」。「従って」とありますが、これは直前の7章だけを受けるのではなく、信仰によって義とされることを記した3章21節以下を受けていると思います。パウロは6章で、イエス・キリストを信じて洗礼を受けた私たちが、アダムでなく、キリストに結はれた者となったことを記しました。アダムに結ばれていたかつての私たちは、罪の法則のとりことされた惨めな人間であり、死すべきものでありました。7章24節に、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」とありましたが、アダムに結ばれたかつての私たちはそのように絶望せざるを得ない者たちであったのです。しかし、事態は一変いたします。なぜなら、今や、私たちはアダムではなく、キリストに結ばれているからです。それゆえ、私たちは、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と言うことができるのです。パウロが、「罪に定められることはありません」と記すとき、世の終わりの裁き、主の日の裁きを念頭において記しています。今や、キリスト・イエスに結ばれている私たちは、世の終わりの裁きによって、罪に定められることはないのです。ここには、誰が罪に定めるかが記されておりませんが、その裁き手は、律法を与えられた神様であります(ヤコブ4:12参照)。今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、神様によって罪に定められることはないのです。

 2節をお読みします。

 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。

ここには、「キリスト・イエスに結ばれている者は罪に定められることがない」理由が記されています。アダムに結ばれていた「わたし」は罪と死との法則のとりこでありました。アダムに結ばれていた私たちは、神様の掟である律法に背いて罪を犯してしまう、死すべき者たちであったのです。しかし、そのような罪と死との法則から、キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が「あなた」を解放してくださったのです。ここで「あなた」と二人称単数形が用いられていますが、これは7章の「わたし」と対応するものとして記されているわけです。アダムに結ばれていた私たち一人一人は、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と嘆かずにはおれない者たちでありました。しかし、その私たち一人一人に、「イエス・キリストによって命をもたらす霊の法則があなたを罪と死との法則からあなたを解放した」とパウロは言うのです。新共同訳聖書は、「キリスト・イエスによる命をもたらす霊の法則」と翻訳していますが、元の言葉を見ますと、「キリスト・イエスにある命の霊の法則」と記されています。「命をもたらす霊」と翻訳しようとも、また、「命の霊」と翻訳しようとも、その意味するところは、神の霊である聖霊のことであります。私たちは、イエス・キリストに結ばれて、聖霊を与えられ、聖霊の法則・御支配に生きる者とされました。そのようにして、私たちは罪と死との法則・支配から解放されたのです。

 3節をお読みします。

 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。

 「肉の弱さのために律法がなしえなかったこと」とは、私たちから「罪を取り除くこと」であります。「肉の弱さ」とは、アダムに結ばれた人間が生まれながらに持つ、罪に傾く性質を表しています。律法は聖なるものであり、正しく、良いものでありますが、律法を守ることのできない私たちの罪を取り除くことはできないのです。「律法は私たちの罪を取り除くことができない」と聞きますと、律法には罪を犯したときの動物犠牲の規定があるではないかと思われるかも知れません。確かに、レビ記を見ますと、罪を犯した人が自分の身代わりとして動物を犠牲としてささげることが記されています。では、律法に定められている動物の血は、私たちの罪を取り除くことができるかといえば、「できない」のです。なぜなら、律法に記されている動物犠牲は、イエス・キリストの十字架の贖いを指し示すものであったからです。これはヘブライ人への手紙が教えていることであります。ヘブライ人への手紙10章1節から10節までをお読みします。新約の412ページです。

 いったい、律法は、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。もしできたとすれば、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえをささげることは中止されたはずではありませんか。ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。雄牛や雄山羊の血は罪を取り除くことができないからです。それで、キリストは世に来られたとき、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、むしろ、わたしのために/体を備えてくださいました。あなたは、焼き尽くす献げ物や/罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、神よ、御心を行うために。』」ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるたえに、最初のものを廃止されるのです。この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。

 このように律法に定められている雄牛や雄山羊の血は罪を取り除くことができません。それができるのは、神様の御心に基づいて、ただ一度御自身の体をいけにえとしてささげられたイエス・キリストだけであるのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の283ページです。

 パウロが、「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださった」。それは「罪を取り除くことだ」と記すとき、その記し方は、ヘブライ人への手紙とは異なります。ヘブライ人への手紙は、イエス様を永遠の大祭司として、また、いけにえとして記すのですが、パウロは、神様がイエス様の肉において罪を罪として定め、罰せられたという視点から記すのです。パウロが、「罪を取り除くために御子を罪深いに肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」と記すとき、ここでの「罪」とは、私たちの罪のことであります。律法は私たちから罪を取り除くことはできない。そこで神様は、御自分の御子を私たちと同じ姿でこの世に遣わされました。マタイ福音書やルカ福音書を見ますと、聖霊によっておとめマリアが身ごもって、男の子を産んだこと。その子はイエスと名付けたことが記されています。また、ヨハネ福音書を見ますと、初めに神と共にあった言(ことば)が、肉となって、わたしたちの間に宿られたことが記されています。神様は、律法がなしえないこと、私たちから罪を取り除くことをするために、愛する御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送ってくださったのです。「罪深い肉と同じ姿」とは、私たちと同じ肉体をもって生まれてくださったということであります。最後のアダムであるイエス様には、生まれながらの罪はありませんでした。また、イエス様はその御生涯においても罪を犯されませんでした(二コリント5:21「罪と何のかかわりもない方」参照)。では、イエス様は罪を犯すことができない、私たちと異なった体を取られたのかと言えばそうではありません。イエス様は、罪を犯しうる、罪の拠点ともなりうる私たちと同じ体を取られたのです。イエス様も私たちと同じです。お腹も空けば、喉も渇く。苦しみや痛みを感じられたのです。なぜ、神様は御子を、私たちと同じ体で、すなわち、罪深い肉と同じ姿でこの世に送られたのか?それは、その肉において、罪を罪として処断されるためであります。「処断」とは「さばいて決めること」を意味します(広辞苑)。イエス様の肉において、私たちの罪を罪として定め、罰せられた。ここで、パウロがイエス・キリストの十字架の死を念頭においていることは明かであります。なぜ、神の御子であるイエス・キリストが私たちと同じ肉体を取り、十字架の死を死なねばならなかったのか?それは、御自分の肉体の死によって、私たちの罪の刑罰を受けるためであったのです。そして、イエス様は、十字架の上で、私たちの罪を担って罪に定められ、神から見捨てられるという呪いの死を死んでくださったのです。福音書を見ますと、イエス様が十字架につけられた時、真昼であったにも関わらず、全地は暗くなり、それが三時間も続いたと記されています。これは、イエス様のうえに、世の終わりの裁き、主の日の裁きが臨んでいたことを示しています。イエス様の十字架の死は、世の終わりの裁きの先取りであるわけです。ですから、パウロが1節に記しましたように、「キリスト・イエスに結ばれている者は罪に定められることは決してない」のです。なぜなら、イエス・キリストが御自分の肉体において、私たちの罪を御自分の罪として担い、その判決と刑罰を受けてくださったからです。「キリスト・イエスに結ばれている私たちは、罪に定められることがない」と言い切ることができるのは、神の御子であるイエス様が、私たちと同じ肉体を取り、その肉体において、私たちの罪の裁きを受けてくださったからであるのです。

 4節をお読みします。

 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。

 神様は御子を私たちと同じ肉体を持つ人として送られ、その肉において、私たちの罪を罪として裁き、罰せられました。それは、私たちが復活されたイエス・キリストの聖霊に従って歩むためであったのです。そのようにして、神様は、私たちが律法の要求する正しさに生きることができるようにしてくださったのです。このことは、旧約聖書のエゼキエル書に預言されていたことであります。エゼキエル書36章27節にこう記されておりました。「わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」。神様は、イエス・キリストを通して御自分の聖霊を注いでくださいました。そして、その聖霊は、イエス・キリストの霊でもあるのです。イエス・キリストは、私たちに代わって罪の刑罰を受けてくださっただけではなく、私たちに代わって神の掟を落ち度なく守られた御方でもあられます。そのイエス様の聖霊に導かれて歩むとき、私たちの内に律法の要求することが満たされるのです。それは、細々とした規則を守るというよりも、律法の中心にある愛に生きる者とされるということです。パウロは、13章10節で、「愛は律法を全うするのです」と記しておりますが、聖霊に導かれて歩むとき、私たちは神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する者へと変えられていくのです。なぜなら、パウロが5章5節で記していたように、「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。独り子を与えられたほどに、私たちを愛してくださった神様の聖霊に導かれて歩むとき、また、私たちを愛して御自分の命を捨ててくださったイエス様の聖霊に導かれて歩むとき、私たちは神を愛し、自分を愛し、隣人を愛することができる者とされるのです。そのようにして、神様は、私たちが律法の要求する正しさに生きることができる者としてくださったのです。神様は、イエス・キリストに結ばれた私たちを御自分の御前に正しいと認めてくださっただけではなく、御自分の正しさに生きる者としてくださるのです。

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