律法からの解放 2017年1月22日(日曜 朝の礼拝)

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律法からの解放

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 7章1節~6節

聖句のアイコン聖書の言葉

7:1 それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。
7:2 結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。
7:3 従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。
7:4 ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。
7:5 わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。
7:6 しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。ローマの信徒への手紙 7章1節~6節

原稿のアイコンメッセージ

今朝の説教題を「律法からの解放」と付けましたが、これは、2節と6節から取ったものであります。2節に、「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです」と記されています。また、6節には、「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています」と記されています。パウロは6章において、罪と死からの解放を記したわけですが、今朝の7章では、律法からの解放について記しているのです。

 律法とは、旧約聖書に記されている神様の掟のことであります。ですから、パウロが12節で記しているように、「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです」。そう聞きますと、律法から解放される必要はないのではないか?と思うかも知れません。どうして、パウロは律法からの解放について記すのでしょうか?そのことを理解するために、パウロが律法をどのようなものとして記してきたかを確認したいと思います。3章20節で、パウロはこう記しておりました。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」。ユダヤ人たちは律法を誇りとし、律法を実行することによって神様の御前に義としていただけると考えておりました。しかし、パウロは、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない。律法によっては、罪の自覚しか生じないと言うのです。また、5章13節では、こう記しておりました。「律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです」。さらに、5章20節ではこう記しています。「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」。律法は罪を明らかにし、罪を増し加えるのです。それは、律法が悪いからではなく、律法を与えられた人間に律法に背く性質、罪があるからです。はじめの人アダムにあって堕落し、罪を持って生まれてくる私たち人間にとって、律法は罪を増し加えるものとなってしまいました。それゆえ、私たちは律法から解放されなくてはならないのです。律法から解放されるとは、「律法を守れば祝福を受け、律法を破れば呪いを受ける」という世界から解放されることであります。申命記11章26節、27節にこう記されています。「見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける」(申命28章参照)。これを読みますと、人間は律法を行うことができるように思えます。ですから、ユダヤ人たちは律法を守って祝福を得ようと励んできたわけです。パウロもそうでした。パウロは律法に対して人一倍熱心な者であり、その熱心のゆえに、教会を迫害したほどであったのです。しかし、パウロはダマスコの途上において、復活の主イエス・キリストと出会ったときに、律法を守ることによっては、人は誰も神様の御前に義とされないことを示されたのです。神の御子が人してお生まれくださり、十字架の死、律法の呪いの死を死なれたのはなぜか?それは、人は誰も神の掟を守って神の前に義とされないからです。それゆえ、イエス・キリストは御自分の民のために神の掟を落ち度なく守り、御自分の民の罪を贖うために十字架の死を死んでくださったのです。神様は、そのイエス・キリストを死から三日目に栄光の体で復活させてくださいました。そして、イエス・キリストを信じる者を神の御前に義としてくださるのです。これがパウロが渡された教えの規範であり、彼が宣べ伝えている福音であるのです。

 私たちはローマの信徒への手紙を最初から学んで来ましたが、パウロは、1章から3章前半で人間の罪について記しました。人間は腐敗しているゆえに、律法を守ることによっては神の前に義とされないことを語って来たのです。そして、3章後半から4章に渡って、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされるということを記しました。それは新しい教えではなく、アブラハムも信仰によって神の前に義とされたことを記しました。5章に入ると、パウロはアダムとキリストを対比して記し、一人の代表者に多くの人が連なることを記します。アダムとキリストは神様の前に立つ契約の頭であるのです。そして、生まれながらの人はアダムに連なる人であり、罪を持って生まれて来ることを記したわけです。6章に入ると、キリストに連なる人は、キリストに結ばれて罪に対しては死んで、義に対しては生きる者となったことを記しました。キリストへの信仰を公に言い表し、洗礼を受けた者は、罪と死から解放されていることを記したのです。そして、7章に入って、パウロはキリストに結ばれた者は、律法から解放されているのだということを記すわけです。

 もし、私たちが罪を持って生まれて来なければ、すなわち、律法を守ることができる者であるならば、「神の掟を守る者には祝福が与えられ、神の掟を破る者には呪いが与えられる」という律法の世界から解放される必要はないかも知れません。しかし、私たちが罪を持って生まれ、律法を守ることができないのであれば、私たちは律法の支配から解放されなくてはならないのです。なぜなら、律法を守ることのできない私たちは、律法の呪いを受けなくてはならないからです。律法からの解放は、人間が律法を守ることができない、律法の呪いを受ける者であるとの認識から生じる願いであるのです。

 今朝の御言葉で、パウロは、イエス・キリストを信じた者が律法から解放されていることを説得するために、「律法とは、人を生きている間だけ支配するものであること」を指摘します。ここでは、結婚についての律法が取り上げられていますが、結婚は地上に生きている間だけの制度であります。死んで復活してからは、娶ることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのです(マタイ22:30参照)。結婚については、創世記の2章に、「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と記されています。また、3章では、罪への裁きの文脈の中で、神様は女に、「おまえは男を求め、彼はお前を支配する」と言われております。これは古代の家父長制社会における女性の厳しい立場を説明するものと言われますが、ともかく、結婚した女は、夫にひたすら仕えることが求められたわけです。日本でも夫を「主人」と呼びますが、結婚した女にとって、夫はまさしく主人であったのです。この女性はどうやら別れたがっているようですね。「夫と別れたければ、離縁状を出せばよいのではないか」と思われるかも知れませんが、ユダヤの社会において妻から離縁状を出すことはできませんでした(申命24:1~4参照)。離縁状を出すことができるのは夫だけであったのです(ただし、ローマでは妻からも離縁状を出すことができた)。ですから、夫から解放されようと思ったら、夫が死んでくれるのを待つしかないわけです。夫が生きている間は、律法によって結び合わされておりますが、夫が死んでしまえば、自分と夫を結び合わせていた律法から自由にされて、好きな男と結婚することができるわけです。このように、律法とは、人が生きている間だけ支配するものであるのです。そのことを確認した上で、パウロは、「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています」と記します。このパウロの言葉をよく読みますと、2節、3節に記されていた結婚関係とうまく繋がっていないことが分かります。4節では、夫である律法が死ぬのではなくて、妻である私たちがキリストに結ばれて死んだと記されているからです。そのようにして、私たちは律法という夫から解放されて、他の男と一緒になることができる者とされたと言うのであります。パウロは、「律法が死んだ」とは書きませんでした。なぜなら、律法は神様の掟であるからです。神様は死ぬことのない御方でありますから、神の掟である律法も死ぬことはないのです。ですから、夫が死ぬのを待って、自由になるということはできません。また、妻から離縁状を出して別れることができなかったように、私たち人間の方から、離縁状を出して、律法から自由になることもできません。なぜなら、人間は神様によって造られたものであり、神様の掟を守る義務を負っているからです。このように考えますと、私たち人間が律法から自由になることはできないのではないかと思わされるのです。しかし、私たちはキリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者とされました。パウロが「キリストの体に結ばれて」と記すとき、それはキリストが十字架の死、律法の呪いの死を死んでくださったことを背景としています。律法からの自由、そのことを教えているのは、ガラテヤの信徒への手紙であります。その3章12節、13節で、パウロはこう記しています。「律法は、信仰をよりどころとしていません。『律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる』のです。キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法から贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」。イエス様は、私たちのために、私たちに代わって、律法の呪いの死である十字架の死を死んでくださいました。ですから、そのキリストの体と結ばれた私たちは律法との関係においては死んだ者となったのです。イエス様は、律法に背いたので、呪いの死を死なれたのではありません。イエス様は神の掟を完全に守られた御方でありながら、私たちのために律法の呪いの死を死んでくださったのです。神の掟を完全に守り、律法の呪いの死を死んで、復活させられたイエス・キリストだけが、私たちを律法の支配から解放することができるのです(ガラテヤ4:4、5参照)。そして、それは、私たちを御自分の花嫁とするためであったのです。私たちはイエス・キリストに結ばれて、律法に対しては死んだ者、自由な者となり、死者の中から復活させられたイエス・キリストのものとされたのです。死者の中から復活させられたイエス・キリストはもはや死ぬことがありませんから、私たちは永遠にイエス・キリストのものとされたのです。このようにして、私たちは神様に対して実を結ぶ者とされたのであります。そして、その実とは、聖霊によって導かれる新しい生き方から生じる実であるのです。

 5節に、「わたしたちが肉に従って生きている間は」とありますが、ここでの「肉」は6節の「霊に従う新しい生き方」に対応するものとして記されています。「霊」とは神の霊、聖霊のことですから、肉とは聖霊を与えられていない、生まれながらの人間のことを指しています。そのとき、私たちは死に至る実を結んでいたのです。すなわち、罪を犯していたわけであります。律法の支配のもとにあったにもかかわらず、私たちは律法に背いて罪を犯していたのです。律法は、私たちに律法を守らせる力を持ってはいないのです。「むさぼるな」と言っても、私たちをむさぼらない者とすることはできないのです。ですから、律法には人を救う力がないわけです。むしろ、律法は人間の五体の中に罪へと誘う欲情を駆り立てるだけであるのです。これがキリストに結ばれる前の、肉に従って生きていた私たちの姿であります。しかし、今や、私たちは、自分を縛っていた律法に対しては死んだ者となり、律法から解放されました。それゆえ、私たちは、文字に従う古い生き方ではなく、霊に従う新しい生き方で神様に仕えるようにされたのです。「文字に従う古い生き方」。これは律法を守ることによって仕える古い生き方であります。他方、霊に従う新しい生き方とは、イエス・キリストの聖霊に導かれて仕える新しい生き方であるのです。これはエレミヤ書の31章に預言されていた、新しい契約に生きる民の姿でもあります(二コリント3:6参照)。律法から解放された私たちは祝福されるために律法を守るのではなく、イエス・キリストにおいて祝福されているゆえに、喜びと感謝をもって律法を守る者とされているのです。

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