神に対して生きている者 2016年12月11日(日曜 朝の礼拝)

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神に対して生きている者

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 6章1節~14節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:1 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。
6:2 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
6:4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
6:5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
6:6 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
6:7 死んだ者は、罪から解放されています。
6:8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
6:9 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
6:10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
6:11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
6:12 従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
6:13 また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。
6:14 なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。ローマの信徒への手紙 6章1節~14節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、洗礼によってイエス・キリストに結び付けられた私たちが罪に対しては死んだ者であることを学びました。パウロは、5章12節以下で「アダムとキリスト」について記しましたが、私たちは、イエスは主であると公に言い表し、洗礼を受けることによって、キリストに結び合わされたのです。幼児洗礼を受けた方でしたら、成長してから信仰告白へと導かれ、キリストに結び合わされていることが確かなこととされたわけです。キリストに結ばれるとは、キリストの死にあずかることでもあります。なぜなら、キリストは私たちのために、私たちの身代わりとして十字架の死を死んでくださったからです。そして、神様は、そのイエス・キリストを死者の中から復活させてくださいました。それゆえ、私たちは、新しい命に歩む者とされたのです。私たちが洗礼によってキリストと結ばれたのは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちが新しい命に歩むためであったのです。

 ここまでは前回お話したことの振り返りです。今朝は5節から11節までを中心にしてお話ししたいと思います。

 5節から11節までをお読みします。

 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配されていた体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

 5節に、「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」とあります。ここで「一体になって」と訳されている言葉の意味は「共に育つ」、「接ぎ木する」という意味です。パウロは、3節と4節で、洗礼によって、私たちはイエス・キリストに結び合わされたと記しましたが、その結び付きは木に枝が接ぎ木されて、共に育つという一体的な関係であるのです。このことはイエス様御自身が弟子たちに教えられたことでありました。ヨハネによる福音書15章5節で、イエス様は弟子たちにこう言われました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしがその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れてはあなたがたは何もできないからである」。イエス様と私たちとの結び付きは、ぶどうの木とその枝にたとえられる有機的な、生命的な結び付きであるのです。新共同訳聖書は、「あやかるならば」と翻訳していますが、元の言葉は「似たものとなる」という意味であります。「あやかる」とは、「感化されて似る」という意味ですから、ここでパウロが言いたいことをうまく伝えていないと思います。パウロがここで言いたいことは、「もし、わたしたちがキリストに接ぎ木されて、その死の姿に似たものとなるならば、その復活の姿にも似たものとなる」ということであります。では、キリストの死の姿と似た者となるとは、どういうことでしょうか?そのことが、6節に記されています。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」。新共同訳聖書は、「古い自分」と翻訳していますが、元の言葉では、「古い人」と記されています。例えば、新改訳聖書では、「私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられたのは」と翻訳しています。キリストと共に十字架につけられた私たちの古い人。それは、最初の人アダムと結ばれた私たちのことであります。「古い自分」とはアダムに結ばれていた私たち自身のことであるのです。5章12節以下に、「アダムとキリスト」のお話が記されておりましたが、6章も内容としては続いております。神様の御前には、二人の契約の頭がいる。それは最初の人アダムと最後のアダムであるイエス・キリストであります。アダムに結ばれている者はアダムの不従順のゆえに罪に定められます。他方、イエス・キリストに結ばれている者はイエス・キリストの従順のゆえに義とされるのです。私たちはアダムではなく、イエス・キリストに結ばれているわけですが、では、私たちはイエス・キリストといつ、どのようにして結ばれたのか。それは、イエス・キリストに結びつく洗礼を受けたことによるのであるとパウロは記したわけです。私たちは、イエス・キリストを神の御子、救い主と公に言い表し、洗礼を受けて、キリストと結び合わされたのです。幼児洗礼を受けた人であれば、成長してから信仰告白へと導かれることによって、そのことが確かなこととされたわけです。私たちはアダムではなくて、イエス・キリストと結びついていると、なぜ、断言できるのか?それは、私たちがイエス・キリストに結びつく洗礼を受け、キリストの体である教会の一員として歩んでいるからです。それでは、アダムと私たちの結びつきはどうなってしまったのでしょうか?アダムは、すべての人類の祖先であり、すべての人を代表する契約の頭でありました。それゆえ、アダムから普通の仕方で生まれてくる全人類は、罪を持って、死すべき者として生まれてくるのです。そのアダムと私たちとの結び付きはどうなったのか?結論から申しますと、私たちが洗礼を受けキリストと結び合わされたときに、アダムとの結び付きは無くなったのです。アダムと結ばれていると同時に、キリストと結ばれているということはありません。キリストと結ばれている者は、アダムとは結ばれていないのです。なぜなら、わたしたちの古い人は、キリストと共に十字架につけられたからです。キリストは、私たちの新しい契約の頭として、アダムにあって私たちが死ぬべき律法の呪いの死、十字架の死を死んでくださいました。そのようにして、私たちとアダムとの関係を断ち切ってくださったのです。古い人アダムに結ばれていた私たちは、キリストと共に十字架につけられました。それは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであります。アダムに結ばれていた私たちは、罪を主人とする、罪の奴隷でありました。しかし、キリストの十字架の死によって、私たちの古い人が死んだことによって、私たちは罪から解放され、自由な者とされたのです。

 キリストはアダムと結ばれてていた私たちのために死んでくださいました。そのキリストと接ぎ木されているゆえに、私たちも死んだのです。そして、死んだ者は罪から解放されているのです。主人は死んだ奴隷を従わせることができないように、罪はキリストに結ばれて死んだ私たちを従わせることはできないのです。

 パウロは、「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになると信じます」と記しておりますが、これは私たちが接ぎ木されているキリストが十字架と復活の主であるからです。私たちは、古い人アダムとではなく、キリストと共に生きる者とされているのです。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがないのです。キリストは、ただ生き返ったのではなく、朽ちることのない、栄光の体に復活させられたのです。聖書には、イエス様が、ヤイロの娘やラザロを生き返らせたことが記されています。しかし、ヤイロの娘も、ラザロも、やがては死にました。しかし、イエス様はそうではありません。イエス様は、もはや死ぬことがない栄光の体で復活させられたのです。

 パウロは、「死はもはやキリストを支配しません」と記しておりますが、これは、ペンテコステの日にペトロが語ったことでもあります。そこでペトロはこう語っております。「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」(使徒2:24)。イエス様は、死の支配とは本来無関係な御方であります。なぜなら、イエス様は罪の無い御方としてお生まれになり、その御生涯においても何一つ罪を犯されなかったからです。しかし、イエス様は、御自分の民である私たちの罪を自ら担い、十字架の死を死んでくださいました。「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれた」のである。この「ただ一度」はキリストの贖いの完全性を表す「ただ一度」であります。ヘブライ人への手紙に記されているように、キリストはただ一度、御自身をいけにえとして献げて私たちの罪を取り去ってくださったのです(ヘブライ9:26参照)。「キリストはただ一度罪に対して死なれた」とパウロが語るとき、それは、御自分の民である私たちの贖いとしての死を死んでくださったということであるのです。そして、神様はその贖いが完全であることを示すために、イエス・キリストを死者の中から復活させられたのです。復活させられたイエス・キリストは今も活きておられます。復活させられたイエス様は、弟子たちの見ている前で、天へと上げられました。天とは神様の領域でありますから、そこは時間を超越した領域であります(時間と空間は神の被造物であり、創造主である神は時間と空間の枠組みを超えておられる)。ですから、イエス様は2000歳になって、おじいさんになっているということはないのです。まさにイエス・キリストは神に対して生きておられる。神様との永遠の交わりの内に、神様の御心を行う御方として生きておられるのです。私たちが洗礼によって結ばれ、また、接ぎ木されているイエス・キリストはそのような御方であるのです。ですから、パウロは、11節でこう記すのです。「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」。洗礼を受けてイエス・キリストと結び合わされた私たち、まことのぶどうの木であるイエス様に接ぎ木された私たちは、キリストと同じように、罪に対して死んだ者であり、神に対して生きる者であるのです。これはアダムによってもたらされたのと全く反対の状態でありますね。私たちはアダムにあって、罪に対しては生きた者、すなわち、罪に従う奴隷でありました。そして、神様に対しては死んだ者であったのです。しかし、イエス・キリストに結ばれることによって、イエス様と似た者とされたのです。すなわち、罪に対しては死んだ者であり、神に対しては生きる者となったのです。神様に対して生きているとは、神様との交わりの内に生きているということであります。私たちは神様との交わりの内に生きる者として、聖書を読み、祈る、神様との交わりを日々持ち続ける必要があるのです。また、神様に対して生きるとは、神様の御心を行って生きることでもあります。イエス様は主の祈りの中で、父なる神様の「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈るように教えられました(マタイ6:10)。イエス様にあって神の子とされ、神様との親しい交わりに生かされている私たちは、神様の御心を行う者とされているのです(ヨハネ15:5参照)。

 神に対して生きるとは、神様との交わりの内に生きることであり、神様の御心を行って生きることである。このことを今朝はしっかりと胸に刻みたいと願います。

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