満ちあふれる恵み 2016年11月27日(日曜 朝の礼拝)

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満ちあふれる恵み

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 5章12節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
5:13 律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。
5:14 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
5:15 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。
5:16 この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。
5:17 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。
5:18 そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
5:19 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
5:20 律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。
5:21 こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。ローマの信徒への手紙 5章12節~21節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、「一人の従順によって多くの人が正しい者とされる」という御言葉がイザヤ書53章において預言されていたこと、さらには、永遠の聖定における父なる神と子なる神との契約に基づくものであることを学びました。神様はエデンの園において罪を犯したアダムと女に、悪魔の頭を打ち砕く、女の子孫の誕生を約束されました。それは神様がその時とっさに思いついて口にされたことではなくて、永遠の聖定において父なる神と子なる神との間で決めておられたことであったのです。すなわち、アダムが罪を犯した場合は、子なる神が人となり、父なる神の義を満たし、十字架の死によって悪魔の頭を打ち砕くことが決められていたのです。エフェソの信徒への手紙1章4節に、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」とあります。天地創造の前に、キリストにおいて私たちを選ばれた神様は、歴史の中で、それがどのように実現するかをも定めておられたのです。すなわち、神の御子が人となり、御自分の僕として、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら担うこと。さらには、その多くの人を御自分の僕に戦利品として与えることを決めておられたのです。それゆえ、イエス様御自身も、「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。・・・これは、わたしが父から受けた掟である」と言われたのです(ヨハネ10:17,18)。このように、「一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」というパウロの言葉は、父なる神と子なる神イエス・キリストとの契約に基づく、確かなことであるのです。父なる神はその確かさの保証として、イエス・キリストを復活させられ、さらには、復活されたイエス・キリストを通して、私たちに聖霊を与えてくださったのです。

 ここまでは前回お話したことの振り返りでありますが、今朝は、20節、21節を中心にしてお話したいと思います。

 20節をお読みします。

 律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。

 ここでパウロは、「律法」について記しています。13節でパウロは、律法について次のように記しておりました。「律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです」。ここに、パウロの律法についての考え方がよく表れています。パウロにとって律法とは、罪を罪として認めるためのものであるのです。そのことは、3章20節で、パウロが記していたことでもありました。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」。パウロの時代のユダヤ人たちは、神の掟である律法を守ることによって、神様の御前に義としていただき永遠の命に至ることができると考えておりました。このような考え方は、旧約聖書が教えていることではなく、旧約聖書と新約聖書の間の時代、いわゆる中間時代に出てきたものであります。旧約聖書はマラキ書で終わっておりますが、マラキは紀元前5世紀の預言者であります。洗礼者ヨハネが活動を始めたのを紀元30年頃としますと、400年以上もの間、神様の啓示は止んでいたわけです。その中間時代に記されたのが、旧約聖書続編と呼ばれる書物であります。旧約聖書続編は神の言葉ではありませんが、旧約と新約との中間時代の空白を埋める歴史的資料としては有益であります(40周年宣言参照)。その旧約続編の中にマカバイ記一という書物があります。そこには、シリアの王アンティオコス・エピファネスによって律法を捨てるように強制されたことが記されています。マカバイ記一の1章41節から63節までには次のように記されています。

 王は領内の全域に、すべての人々が一つの民族となるために、おのおの自分の慣習を捨てるよう、勅令を発した。そこで異邦人たちは皆、王の命令に従った。また、イスラエルの多くの者たちが、進んで王の宗教を受け入れ、偶像にいけにえを献げ、安息日を汚した。更に、王は使者を立て、エルサレムならびに他のユダの町々に勅書を送った。その内容は、他国人の慣習に従い、聖所での焼き尽くす献げ物、いけにえ、ぶどう酒の献げ物を中止し、安息日や祝祭日を犯し、聖所と聖なる人々を汚し、異教の祭壇、神域、像を造り、豚や不浄な動物をいけにえとして献げ、息子たちは無割礼のままにしておき、あらゆる不浄で身を汚し、自らを忌むべきものとすること、要するに律法を忘れ、掟をすべて変えてしまうということであった。そして王のこの命令に従わない者は死刑に処せられることになった。

 王はこの勅書を全国に送り、民の監督官を任命し、ユダの町々に対し町ごとにいけにえを献げることを命じた。多くの民が律法を捨てて彼らに追従し、この地で悪を行った。こうしてイスラエル人は、あらゆる隠れ場に身を隠さなければならなくなった。

 第145年、キスレウの月の15日には、王は祭壇の上に「憎むべき破壊者」を建てた。人々は周囲のユダの町々に異教の祭壇を築き、家々の戸口や大路で香をたき、律法の巻物を見つけてはこれを引き裂いて火にくべた。契約の書を隠していることが発覚した者、律法に適った生活をしている者は、王の裁きにより処刑された。悪人たちは毎月、町々でイスラエル人を見つけては彼らに暴行を加えた。そして月の25日には主の祭壇上にしつらえた異教の祭壇でいけにえを献げた。また、子供に割礼を受けさせた母親を王の命令で殺し、その乳飲み子を母親の首につるし、母親の家の者たちや割礼を施した者たちをも殺した。だがイスラエル人の多くはそれにも屈せず、断固として不浄なものを口にしなかった。彼らは、食物によって身を汚して聖なる契約に背くよりは、死を選んで死んでいった。こうしてイスラエルは神の大いなる激しい怒りの下に置かれたのである。

 63節に、「彼らは食物によって身を汚して聖なる契約に背くよりは、死を選んで死んでいった」とありますが、そのことがマカバイ記二の7章に、「七人兄弟の殉教」という小見出しで記されています。その一部、1節から9節までを読みます。

 また次のようなこともあった。七人の兄弟が母親と共に捕らえられ、鞭や皮ひもで暴行を受け、律法で禁じられている豚肉を口にするよう、王に強制された。彼らの一人が皆に代わって言った。「いったいあなたは、我々から何を聞き出し、何を知ろうというのか。我々は父祖伝来の律法に背くくらいなら、いつでも死ぬ用意はできているのだ。」王は激怒した。そして大鍋や大釜を火にかけるように命じた。直ちに火がつけられた。王は命じて、他の兄弟や母の面前で、代表して口を開いた者の舌を切り、スキタイ人がするように頭の皮をはぎ、その上、体のあちらこちらをそぎ落とした。こうして見るも無惨になった彼を、息のあるうちにかまどの所へ連れて行き、焼き殺すように命じた。鍋から湯気が辺り一面に広がると、兄弟たちは母ともども、毅然として、くじけることなく死ねるよう互いに励まし合い、そして言った。「主なる神がわたしたちを見守り、真実をもって憐れんでくださる。モーセが不信仰を告発する言葉の中で、『主はその僕を力づけられる』と明らかに宣言しているように。」

 こうして最初の者の命を奪うと、次に二番目の者を引き出し、これを辱めた。頭の皮を、髪の毛もろともはぎ取ってから、「肉を食え。それとも体をばらばらにされたいのか」と言った。しかしそれに対して彼は、父祖の言葉で、「食うものか」と答えた。そこで彼は最初の者と同じように拷問にかけられた。息を引き取る間際に、彼は言った。「邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ。」

 ここにはっきりと、律法を守ることによって永遠の命に至ることができるという考え方が記されています。パウロの時代のユダヤ人たちは、律法を守ることによって、神の御前に正しい者と認められ、永遠の命に至ることができると考えておりました。その背後には、命を捨ててでも律法を守り通した信仰の戦いの歴史があるのです。ですから、当時のユダヤ人たちにとって、パウロの「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました」という言葉は、受け入れがたい、律法に対する冒瀆とも思えるような言葉であったのです。

 当時のユダヤ人たちは、律法を守ることによって命に至ることができると考えておりました。しかし、パウロは律法は命に至るために与えられたのではない。律法は罪が増し加わるために、アダムとキリストとの間に入り込んで来たものに過ぎないと言うのです。パウロが「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました」と記したのは、人間のうちに、最初の人アダムから受け継いだ罪に傾く性質、いわゆる腐敗があるからであります。人間には禁じられるとそれをしてみたくなる性質があるのです。卑近な例で申しますならば、廊下を歩いていて、「廊下を走るな」という言葉が目に入ってくる。そうすると、「廊下を走ろうかな」という思いが沸いてくるわけですね。律法は神の掟であり、善いものでありますが、それを受け取る人間の心が悪いので、律法によっていよいよ罪が増し加わるということが起こるわけです。

 律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためであった。そうであれば、律法は不要であったのでしょうか?そうではありません。パウロは続けてこう記します。「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」。罪が増した所とは、自分で神の掟を守ることがでず、絶望するほかない人間の状態を指しています。神様の掟を与えられて、神様の御心を知った。そうであれば、その神様の掟を守って生きればよいわけですが、それができない。それを日毎に破ってしまう自分であることに気づくわけです。神様は十戒において「あなたは殺してはならない」と命じられました。この掟は、イエス様によれば、実際に人を殺すことだけではなくて、他人の悪口を言ったり、他人を軽んじる心をも禁じているのです。また、神様は十戒において「偽証してはならない」とも命じられました。しかし、私たちは舌を制することができず、うわさや偽りを口にしてしまうのです。口にするだけではなくて、うわさや偽りの言葉に喜んで耳を傾けてしまうのです。

 律法が入り込んで来たことにより、私たちの罪は増し加わりました。しかし、パウロは、罪が増したところに、恵みはなおいっそう満ちあふれると言うのであります。なぜなら、神の恵みは、その罪人である私たちをイエス・キリストにあって無償で義とするという恵みであるからです。自分で神様の掟を守ることによって、神様の御前に正しい者となることができると考えるならば、イエス・キリストにおいて注がれている神様の恵みは分かりません。律法は救いの手段として与えられたと考えるならば、神の恵みは無意味なものとなってしまいます。しかし、パウロが記しておりますように、律法が入り込んで来たのは罪が増し加わるためであり、自分が律法を守ることのできない罪人であることが分かるならば、満ちあふれる神の恵みによって救われるのです。そして、ここに、イエス・キリストが来られたとき、律法学者やファリサイ派の人々が受け入れずに、徴税人や罪人と呼ばれていた人たちが受け入れた理由があるのです。なぜ、聖書の教えをよく知っている律法学者やファリサイ派の人々が、イエス様を受け入れなかったのでしょうか?それは、彼らが自分たちで、律法を守り、神の御前に義としていただけると考えていたからです。他方、徴税人や罪人はそうではありませんでした。彼らは律法を守ることのできない者たちでありました。それで、律法学者やファリサイ派の人々から「罪人」と呼ばれていたわけです。しかし、その罪人と呼ばれた人たちがイエス様を救い主と信じ、受け入れたのです。彼らは自分が罪人であることを知っていたゆえに、イエス様において注がれている溢れるほどの恵みをいただくことができたのです。そして、このことは、かつての律法の義を追い求めていたパウロ自身にも言えることであるのです。律法と罪の問題については、7章に詳しく記されていますが、その24節、25節で、パウロはこう記しています。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」。この手紙を記しているパウロ自身が、自分に絶望しているのです。パウロ自身が神様の掟の前に立つとき、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と嘆かざるを得ないのです。しかし、そのようなパウロであるからこそ、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」と記すことができたのです。

 最後に21節をお読みします。

 こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。

 この21節は、これまでのまとめであると言えます。イエス・キリストを信じる者たちは、アダムではなく、キリストに結ばれた者たちであります。私たちはキリストによって、罪の支配ではなく、恵みの支配に生きる者とされているのです。罪は死によって私たちを支配しておりましたけれども、恵みは義によって私たちを支配しているのです。神様はアダムにあって罪と死の支配に生きていた私たちを、イエス・キリストにあって、恵みと義の支配に生きる者としてくださいました。私たちは私たちの主イエス・キリストによって神様との永遠の交わり、永遠の命に生かされているのです。そして、この永遠の命は主イエス・キリストが再び来られる日に完全なものとして与えられるのです。

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