恵みの賜物 2016年11月06日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

5:12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
5:13 律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。
5:14 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
5:15 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。ローマの信徒への手紙 5章12節~15節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだ」ことを、旧約聖書の創世記の御言葉から御一緒に確認をいたしました。最初の人アダムが禁じられていた木の実を食べるという罪を犯した故に、神様の造られた良き世界に罪と死が入り込んで来た。そして、死はアダムだけではなく、アダムから生まれてくるすべての人を支配したのです。死は、「アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人のうえにさえ」支配しました。「アダムからモーセのまでの間」とは、律法が与えられる前の時代ということであります。律法がなければ罪は罪と認められないわけですが、しかし、実際は、律法が与えられる前にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人のうえにさえ、死は支配したのです。どうしてでしょうか?パウロは、その理由を「実にアダムは、来たるべき方を前もって表す者だった」からであると記すのです。パウロはこれまで、すべての人は、イエス・キリストを信じる信仰によって神の御前に義とされると記してきました。これは考えようによっては虫のいい話です。罪のない御方、何一つ罪を犯さず、十字架の死に至るまで従順であられたイエス・キリストが義とされるのは分かる。けれども、そのイエス・キリストを信じる私たちも義と認められるとは、どういう理屈であるのか?パウロは、アダムのことを考えてみなさい。アダムの罪のゆえに、私たちのうえに死が支配するようになったのと同じように、イエス・キリストの義のゆえに、私たちのうえに命が支配するようになったと言うのです。

 ここまでは前回の振り返りでありますが、今朝は15節を中心にして、アダムと私たちとの関係、またキリストと私たちとの関係について学びたいと思います。

 15節をお読みします。

 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みと賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。

 「恵みの賜物」とは、イエス・キリストにあって神の御前に正しい者とされ命を得る者とされたことを指しています。神様は、イエス・キリストを信じる者を正しいと認め、命を与えてくださる。これが「恵みの賜物」であります。アダムの罪によってもたらされたものと、イエス・キリストの正しい行為によってもたらされた恵みの賜物は比較にならない。比較にならないほど、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物は多くの人に豊かに注がれると言うのです。パウロは、「一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば」と記しておりますが、このことは前回、創世記から確認しましたように、聖書が教えていることであります。神様が造られた、極めて良い世界に、なぜ、罪と死があるのか?それは、はじめの人アダムが禁じられていた木の実を食べるという罪を犯したからであります。神様はアダムに前もって警告されていたように、罪を犯したアダムに対して、「塵にすぎないお前は塵に返る」と死を宣告されたのです。そして、聖書は、世界に罪が広がって行った様子と、アダムの子孫がどんなに長生きしても必ず死んだことを教えているのです。私たちが必ず死ぬということ、それは私たちがアダムの子孫であり、また、自らも神の掟に背く罪人であることを示しているのです。このようにアダムと全人類は一体的な関係にあるわけですが、それを正しく理解するために有益であるのは「契約」という考え方であります。すなわち、アダムははじめの人というだけではなく、彼から生まれる全人類を代表する契約の頭でもあったのです。神様はアダムをエデンの園に住まわせ、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われました。これは神様からアダムに与えられた掟であります。そして、この掟は「契約」でもあったのです。創世記の2章9節を見ますと、園の中央には善悪を知る木だけではなく、「命の木」も生えておりました。この「命の木」は、アダムが神様の言葉に従って禁じられた木の実を食べなければ、与えられたであろう「永遠の命」の象徴であります。アダムは神様の御言葉に従って、善悪の知識の木から取って食べなければ、神様との完全な交わり、永遠の命を与えられるはずであったのです。しかし、アダムは女の口を通して語られた蛇の言葉、「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」という言葉を信用して、禁じられていた木の実を食べたわけです。そのとき、アダムだけではない、アダムから生まれてくるすべての人が、アダムにあって罪を犯したのです。なぜなら、はじめの人アダムは、彼から生まれてくるすべての人を代表する契約の頭であったからです。人間だけではありません。アダムは神様が造られた世界を治める者であったゆえに、アダムの違反によってあらゆる被造物が良き創造の状態から堕落したのです。神様は、禁じられていた木の実を食べたアダムに、「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」「土は茨とあざみを生え出でさせる」と言われましたけれども、そのことは、アダムの違反によって、被造世界全体が堕落したことを教えているのです。神様がアダムに与えられた掟を契約と捉えますときに、12節後半の御言葉、「すべての人が罪を犯したからです」という言葉の意味が分かってきます。パウロはどのような意味で、「すべての人が罪を犯したからです」と記したのでしょうか?それは契約論的に考えるならば、「すべての人がアダムにおいて罪を犯した」。すべての人がはじめの人であり、契約の頭であるアダムの罪の責任、罪責を負っているということであるのです。もちろん、パウロが「すべての人が罪を犯したからです」と記すとき、アダムの罪の責任、罪責だけでのことを言っているのではないと思います。実際にすべての人が犯している罪、現行罪のことが言われているのだと思います。けれども、その現行罪についても、アダムにあってすべての人が罪を犯したという契約論的に考えることが大切であります。といいますも、すべての人が実際に罪を犯してしまうという現実の背後には、アダムから受け継いだ罪に傾く性質、腐敗があるからです。パウロは、1章29節で、私たち人間は「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です」と記しましたが、そのような悪しき思いは、どこからやって来たのでしょうか?神様が御自分のかたちに似せて私たち人間を造られたならば、私たちの心になぜ悪しき思いが満ちているのでしょうか?それは私たちが堕落したアダムの子孫であるからです。私たちは堕落したアダムに似た者たちとして生まれてくるからです。創世記の5章の1節から3節までに、こう記されています。「これはアダムの系図の書である。神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。アダムは百三十歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名付けた」。アダムは神のかたちに似せて造られました。そして、アダムは自分に似た、自分にかたどった男の子、セトをもうけたのです。セトは、アダムに似ているわけですから、神のかたちを有するものであります。けれども、セトは良き創造の状態から堕落したアダムに似ているわけですから、その神のかたちは歪められているわけです。すなわち、そこでは罪に傾く性質、腐敗も伝えられるのです。ウェストミンスター小教理問答は、罪を罪責と腐敗の大きく二つからなると理解しておりますが、すべての人は生まれながらに、アダムの罪責と腐敗を受け継いでいるのです。ですから、ダビデは、「わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです」と詩編51編で記しているのです。

 ユダヤ人もギリシャ人も、日本人も、韓国人も、フィリピン人もすべての人がアダムの子孫であり、契約の頭であるアダムの罪責と腐敗を持って生まれてくるのであります。そのようは私たちを義とし、聖なる者とするために、神様は、新しい契約の頭として、御子イエス・キリストを遣わしてくださったのです。パウロは、コリントの信徒への手紙一の15章で、イエス・キリストを「最後のアダム」と呼んでおりますが、イエス・キリストこそ、私たちを救うために終わりの時代に表れてくださった人間(アダム)であるのです。

 パウロは、「一人の罪によって多くの人が死ぬことになった」と記しました。はじめの人であり、契約の頭であるアダムの違反によって、私たちはアダムの罪責と腐敗を生まれながらに持つ、死すべき者として生まれてきたのです。これは大変なことです。しかし、神様は、それとは比較にならないほどの豊かな恵みの賜物を、一人の人イエス・キリストによって注いでくださるのです。私たちは、アダムの罪責と腐敗を受け継いでおり、自らも神様の掟に背いて罪を犯しております。けれども、神様はその私たちを救うために、イエス・キリストを与えてくださいました。イエス・キリストを信じる信仰を与え、私たちのすべての罪を赦し、私たちを聖なる者に御言葉と聖霊によって造りかえてくださるのです。ですから、私たちはもはや死の支配のもとにはおりません。イエス・キリストを信じている私たちも死にますけれども、その死は、もはや罪の刑罰としての死ではないのです。なぜなら、私たちの罪の刑罰としての死は、私たちの主イエス・キリストが十字架の上ですでに死んでくださったからです。キリスト者にとって、死は罪の刑罰ではなく、罪からの完全な解放という全く違った意味を持つようになったのです。私たちは死を通して、神様との完全な交わり、永遠の命にあずかる者となるのです。

 パウロは、アダムを来たるべき方、イエス・キリストを前もって表す者であったと語りました。また、先程も申しましたように、第一コリント書では、イエス・キリストを「最後のアダム」と呼んでおります(一コリント15:45参照)。このようにアダムとキリストを、対応する契約の頭として理解することはパウロだけに見られるものなのでしょうか?確かに、「アダムはキリストの型である」とはっきり言ったのはパウロでありますが、イエス様御自身にも、また、悪魔にもそのような認識があったのではないかと思います。と言いますのも、福音書はイエス様が公に救い主の生涯を始める前に、荒れ野で悪魔から誘惑を受けたことを記しているからです。悪魔は、イエス様を、「もし神の子なら」と誘惑しましたが、イエス様はいずれも聖書の御言葉、それも申命記の御言葉をもって退けられました。イエス様が、生涯に渡って、悪魔の誘惑と戦われたことは、「退け、サタン」とペトロに言われたこと、また、十字架につけられたイエス様を嘲った祭司長たちの言葉、「もし神の子なら、十字架から降りて来い。そうしたら信じてやろう」という言葉からも分かります。アダムは罪のない世界で悪魔の誘惑を受け、罪を犯しましたけれども、イエス様は、罪に満ちた世界で、悪魔の誘惑を退け、十字架の死に至るまで従順であられたのです。また、私が、イエス様は御自分を「最後のアダム」と自認していたと思うのは、イエス様が御自分のことを「人の子」と呼ばれたからであります(ルカ19:10「人の子は、失われたものと捜して救うために来たのである」参照)。イエス様は、「わたしは」とは言わずに、「人の子は」と言われました。「人の子」とは「人間」という意味であります。エゼキエル書で、神様は、エゼキエルに、「人の子よ」と呼びかけるのですが、それは「人間よ」ということであるのです。イエス様だけが、アダムの罪責と腐敗を引き継いでおられない、完全な神のかたちを持つ、人間であるのです。聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、お生まれになったイエス・キリストだけが、神が造られたとおりの「人の子」、人間であったのです。イエス様は、アダムにあって罪と死の支配におかれたすべての人を救うために、最後のアダムとして、十字架の死に至るまで神様に従い抜かれました。そして、栄光の体に復活され、命の木が象徴していた永遠の命に生きる者となられたのです。そのイエス様と私たちは信仰によって結び付けられているのです。パウロが「神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に注がれるのです」と記すとき、そこでの「多くの人」とは、イエス・キリストを信じるすべての人のことであります。イエス・キリストを信じる私たちのうえに、神の恵みの賜物は豊かに注がれているのです。

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