一人の人によって 2016年10月30日(日曜 朝の礼拝)

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一人の人によって

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 5章12節~14節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
5:13 律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。
5:14 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。ローマの信徒への手紙 5章12節~14節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、十字架の死から三日目に復活させられ、天へと上げられ、父なる神の右に座しておられるイエス・キリストの命によって救われていることを学びました。私たちは、今も活きておられ、やがて来られるイエス・キリストによって神様と和解することができました。それゆえ、イエス・キリストを我が誇りとする者だけが、神様を我が誇りとすることができることを学んだのであります。

 今朝の御言葉は、その続きであります。

 5章12節をお読みします。

 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。

 ここでパウロは、罪の起源、さらには死の起源について記しております。なぜ、パウロは罪の起源、さらには死の起源について記しているのでしょうか?それは、イエス・キリストによって人が義とされ、命を得ることになったことを語りたいからです(18節)。パウロは、イエス・キリストによって人が義とされ命を得るものとなったことを確かなこととして説得するために、罪の起源、さらには死の起源について記しているのです。パウロが、「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように」と記すとき、その「一人の人」とは、最初の人アダムのことであります(14節参照)。パウロは、「最初の人アダムによって罪が世に入り、そのアダムの罪によって死が入り込んだ」と記すのです。

 聖書は、「初めに、神は天地を創造された」と記しております(創世1:1)。この世界は神様の力ある御言葉によって造られたのです。聖書は、神様が六つの日に渡って天地万物を造られたことを教えておりますが、それは神様が御覧になっても、極めて良い世界でありました。創世記の1章31節を見ますと、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と記されています。そのように聞きますと、では、この世にはどうして罪と死があるのだろうか?という疑問が沸き起こってくると思います。神様がこの世界を造られ、神様が御覧になっても極めて良い世界であったならば、どうして、この世界には罪と死があるのか?その罪と死の起源を物語るのが、創世記の3章に記されているエデンの園での物語であるわけです。パウロが、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだのように、死はすべての人に及んだのです」と記すとき、創世記3章に記されているエデンの園の物語を前提にしているわけです。それで今朝は、ここでパウロが記していることを、旧約聖書の御言葉から御一緒に確認したいと思います。神様は人間を御自分のかたちに似せて、御自分との交わりに生きる者として造られました。また、神様は人間を、御自分の御意志に従って、この世界を開発し、治める者として造られました。神様は、はじめの人アダムをエデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされたのです。そのアダムに、神様は一つの掟を与えられました。そのことが創世記の2章15節から17節までに記されております。旧約の3ページです。

 主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

 神様は「エデンの園のすべての木から取って食べなさい。しかし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われました。これがはじめの人アダムに与えられた掟でありました。ここには、なぜ、善悪の知識の木からは決して食べてはならないのかは記されておりません。神様が「善悪の知識の木からは決して食べてはならない」と言われた故に、善悪の知識の木から食べることは神の掟に背く罪となったのです。そして、その罪の刑罰として、「必ず死んでしまう」という死が警告されているのです。パウロは「罪によって死が入り込んだ」と記しましたけれども、罪と死は密接な関係にあるのです。

 では、アダムはこの神の掟を守ることができたのでしょうか?できませんでした。そのことが創世記の3章1節から6節までに記されています。

 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。

 ここで、誘惑する者として蛇が登場してきます。なぜ、蛇が人の言葉を話すことができたのだろうか?と不思議に思うのですが、聖書は、この蛇の背後に、神の敵である悪魔がいたことを教えています(黙示12:9参照)。神の敵である悪魔は、蛇の姿で、アダムの助け手である女に語りかけるのです。悪魔は、アダムを直接誘惑せず、アダムの助け手である女を言葉巧みに誘惑するのであります。蛇は女にこう言いました。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」。ここで蛇は女の知識がどの程度であるのかを試しています。蛇は神様がアダムに与えられた掟について知っておりながら、女がどの程度の知識を持っているのかを試したのです。そうとも知らずに、女は蛇にこう答えました。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」。神様がアダムに掟を与えられたとき、アダムの助け手である女は造られておりませんでしたから、女は神の掟についてアダムから聞いていたはずであります。しかし、その知識は不正確なものでありました。女は「食べてはいけない」と言いましたが、神様は「決して食べてはならない」と言われておりました。また、女は、「触れてもいけない」と言いましたが、神様はそのようなことは言われませんでした。さらに、女は「死んではいけないから」と言いましたが、神様は「必ず死んでしまう」と言われていたのです。蛇は女の知識が不正確であることを知り、こう言います。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」。「決して死ぬことはない」。この言葉は、神様の御言葉、「必ず死んでしまう」をひっくり返した言葉です。神様は、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われました。他方、蛇は「決して死ぬことはない」と言うのです。女は、神様の言葉と蛇の言葉のどちらを信用したでしょうか?当然、神様の言葉であると思います。すべてのものの造り主であり、自分たちをエデンの園に住まわして恵みを与えてくださっている神様の言葉と、造られたものであり、自分たちの管理の下にある蛇の言葉のどちらを信用するかと言えば、当然、神様の言葉を信用するはずだと思います。しかし、女は蛇の言葉を信用してしまうのです。それは、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」という誘惑を真に受けたからです。蛇は神様があたかも意地悪をしているように、禁じられていることに女の思いを向けさせるのです。これは、悪魔の常套手段でありますね。悪魔は、与えられている恵みよりも、与えられていないものに目を向けさせて、私たちを神様に逆らわせようとするのです。この時もそうでした。アダムと女には園のすべての木から食べてよいという恵みが与えられていたにもかかわらず、禁じられている木の実に女の思いを向けさせるのです。しかもそれが神様の不当な仕打ちであるかのように語りかけるのです。

 6節に、「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」とありますが、女の心は、「その木から食べてみたい、その木から食べて神のように善悪を知るものとなりたい」という思いで一杯であったのです。そして、女は実を取って食べ、一緒にいた男(アダム)にも渡したので、彼も食べたのです。ここでアダムは何も知らずに食べてしまったかのように記されていますが、そうではありません。と言いますのも、17節で神様はアダムにこう言われているからです。「神はアダムに向かって言われた。『お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた』」。アダムは女の口を通して、蛇の言葉を聞いたのです。アダムも、神のように善悪を知るものとなりたいという思いから禁じられていた木の実を食べるという罪を犯したのです。先程、私は、なぜ、善悪の知識の木から食べてはならないのか?それは神様が禁じられたからである。神様が禁じられたゆえに、善悪の知識の木から取って食べることは罪なのだ、と申しました。神様は、人間が善悪の知識の木から食べないということによって、人間が善悪の基準を御自分の言葉においているかどうかを試されたわけです。神様は、人が禁じられた木の実から食べないことによって、御自分の言葉を善悪の基準として生きることを望んでおられたのです。けれども、人は神様の言葉よりも悪魔の言葉、そして、悪魔の言葉を自分の言葉とすることにより、神様の言葉よりも自分の言葉を善悪の基準としたのです。神様の言葉である聖書がどのように教えているかよりも、自分がどう思うかが物事の判断の基準となったわけです。そのようにして、アダムは罪を犯したのであります。このようにして、罪が世に入り、罪によって死が入り込んで来たわけです。神様は、禁じられた木の実を食べたアダムにこう言われました。17節から19節です。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生え出でさせる/野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」。アダムの罪よって、人は労苦してパンを得るものとなりました。そして、塵に返る者、死ぬ者となったのです。そして、罪と死は、アダムだけではなく、アダムから生まれてくる子孫にも及んだのです。創世記は4章で、「カインとアベル」の物語を記しています。兄のカインが弟のアベルを殺してしまう。そのような物語を記した後で、カインの子孫であるレメクが、「わたしは傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍」という歌ったことを記しています(4:23、24)。さらに6章を見ますと、「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」と記されています。これらの聖書の記述は、アダムの罪がその子孫である全人類に受け継がれ、広がっていったことを示しています。また、創世記の5章に、「アダムの系図」が記されています。そこには、何百年と生きた人たちの名前が記されていますが、必ず最後は「そして死んだ」と記されています。パウロが、今朝の御言葉で、「死はすべての人に及んだのです」と言っているように、アダムの系図は、死がすべての人に及んだことを、私たちに教えているのであります。そして、その事は私たちにおいても言えることであるのです。私たちが死すべき者であること、そのことは、私たちもアダムの子孫であることを示しているのです。こう聞きますと、アダムはとんでもないことをしてくれた、アダムのせいで、私たちは死ぬ者となってしまったではないかと思うかも知れません。けれども、パウロは「死はすべての人に及んだ」ということを記した後で、「すべての人が罪を犯したからです」と記すのです。すべての人が死ぬ者であるということ、それはすべての人が神の掟に背いて罪を犯したことを示していると言うのです。アダムは罪人で、私は罪人ではないとは言えません。私たちが死ぬ者であることが、私たち自身が神の掟に背く罪人であることを雄弁に物語っているのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の280ページです。

 13節、14節をお読みします。

 律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来たるべき方を前もって表す者だったのです。

 ユダヤ人は罪を神の掟である律法との関係によって理解しておりました。まさに、「罪とは神の掟に背くこと」であるのです(一ヨハネ3:4)。では、律法が与えられる前には罪はなかったかと言えばそうではありません。律法は罪を罪として明らかとしますが、律法が与えられる前の時代、すなわち、アダムからモーセの間にも罪はあったし、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配したのです。「アダムの違反と同じような罪」とは、先程、御一緒に読みました、創世記3章に記されていた禁じられていた木の実を食べてしまうという罪であります。これは特殊な罪であります。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」という神様の掟はアダムに与えられた特別な掟であったのです。アダムはこの掟に背いて罪を犯し、死ぬ者となったのですが、しかし、死は、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人のうえにも支配した。それは、なぜだろうか?パウロは、「実に、アダムは来たるべき方を前もって表す者」であったからだと記すのです。パウロは、これまで、イエス・キリストを信じる信仰によって、人は神様の御前に義とされることを語ってきました。自分で律法を守ることによってではなくて、イエス・キリストを信じる信仰によって人は義とされるのだと語ってきたのです。これは、考え方によっては虫のいい話です。罪のない御方であり、何一つ罪を犯さなかったイエス・キリストが、神様の御前に義とされるのはもっともであると思う。でも、そのイエス・キリストを信じる私たちまでもが義とされるとはどういう理屈であろうか?そのように思うわけです。しかし、パウロは、アダムとあなたたちとの関係を考えてみなさいと言うのです。あなたたちは、アダムの違反と同じような罪を犯したわけではない。しかし、あなたたちのうえに厳然たる事実として死は支配している。そうであれば、来たるべき方であるイエス・キリストの場合も同じではないかとパウロは言いたいのです。アダムによって私たちが罪と死の支配に置かれていたように、イエス・キリストによって私たちが義と命の支配に生かされていることを、パウロは私たちに教えようとしているのです。

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