聖霊の働き 2010年11月14日(日曜 朝の礼拝)

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聖霊の働き

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 16章5節~15節

聖句のアイコン聖書の言葉

16:5 今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。
16:6 むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。
16:7 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。
16:8 その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。
16:9 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、
16:10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、
16:11 また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。
16:12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
16:13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
16:14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
16:15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」ヨハネによる福音書 16章5節~15節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝はヨハネによる福音書第16章5節から15節より御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

 5節、6節をお読みします。

 今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。

 ここでイエス様は弟子たちに「あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない」と言われています。しかし第13章36節を見ると、シモン・ペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか」と尋ねたことが記されています。また第14章5節ではトマスが、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と尋ねたことが記されています。このようにかつて弟子たちはイエス様がどこへ行くのかを尋ねたのですが、しかし迫害の予告を聞いた今は、弟子たちのだれも「どこに行くのか」と尋ねないと言うのです。イエス様が自分たちの前から去って行かれるだけでも悲しいことですが、それに加えて世から憎まれ、迫害されることを告げられた今は弟子たちの心は悲しみのあまり、言葉を失っていたのです。そのような弟子たちの心を察してイエス様はこのようにおっしゃいました。

 7節をお読みします。

 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。

 「実を言うと」と訳されている言葉を元のギリシャ語から直訳すると「わたしはあなたがたに真理を言う」となります。13節に「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」とありますが、ここで「真理」と訳されているのと同じ言葉(アレーセイア)が「実を言うと」の「実」であるのです。イエス様は、「わたしは真理を語るが、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」と言われたのです。「あなたがたのためになる」、これは「あなたがたの益になる」ということです(口語訳、新改訳)。弟子たちはイエス様が自分たちのもとを去って御父のもとへ行くことを大きな損失であると考えておりました。ですから弟子たちの心は悲しみで満たされていたわけです。しかし、イエス様は「わたしは真理をあなたがたに告げるが、わたしが去って行くのはあなたがたにとって利益になる」と言われるのです。なぜなら、イエス様が去って行かなければ、弁護者は弟子たちのところに来ないからです。ここで「弁護者」と訳されている元のギリシャ語はパラクレートスという言葉です。パラクレートスという言葉の元々の意味は「傍らに呼ばれた者」という意味です。口語訳聖書、新改訳聖書では「助け主」と訳されています。弁護者・パラクレートスが遣わされることはこれまでに3度語られてきました。確認しておきたいと思います。第14章16節にこう記されておりました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」。14章26節にこう記されていました。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。第15章26節にこう記されていました。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」。このようにイエス様は別の弁護者である聖霊についてこれまで語ってこられたのです。そして第16章7節において、イエス様は御自分が去って行かなければ弁護者は弟子たちのもとに来ないこと、さらには御父のもとへ行ったイエス様が弁護者を弟子たちのもとへ送ることを真理として教えられたのです。

 第14章18節でイエス様は弟子たちに「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる」と言われました。それは御父のもとへ行かれたイエス様が送る聖霊において戻ってくるということです。聖霊においてイエス様は弟子たちと共に、弟子たちの内にいてくださる。そのような霊的な交わりが別の弁護者である聖霊によって実現する。このことをイエス様は「あなたがたのためになる」「あなたがたの益になる」と言われたのです。このことは考えてみればよく分かることであります。もしイエス様が御父のもとへ行かずに、弟子たちのもとにとどまり続けたらどうでしょうか。日本に住む私たちは果たしてイエス様を信じることができたでしょうか?もし、イエス様が御父のもとへ行かなかったならば、私たちはイエス様にお会いするためにイスラエルまで行かねばなりません。また、イエス様といつも一緒にいることも不可能です。けれども、イエス様は御父のもとへ行き、聖霊を送ってくださいましたから、私たちはこの日本でイエス様に出会い、イエス様を信じることができました。また、イエス様は聖霊において私たちといつも一緒にいてくださるのです。イエス様は御父のもとへ行き、聖霊を遣わされることにより、ある時代のある地域に生きる一部の人々に限られない、あらゆる時代のあらゆる地域の人々との交わりに生きる者となってくださったのです。それゆえ、イエス様が弟子たちのもとを去って行かれるのは、弟子たちの、また私たちのためであったことが分かるのです。

 8節から11節までをお読みします。

 その方が来れば、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかにする。

 ここには世に対する聖霊のお働きが記されています。聖霊はパラクレートス・弁護者と呼ばれていますが、世に対しては弁護者というよりもむしろ検察官であります。イエス様は弁護者・パラクレートスが来れば、罪について、義について、裁きについての世の誤りを明らかにすると言われるのです。

 罪についても、義についても、裁きについても、世は世なりの概念の定義を持っています。そして、その世の定義をもってキリストの弟子たちを裁き、会堂から追放し、さらには神の名によって殺すということさえするわけです。しかし、イエス様が御父のもとから弁護者・パラクレートスを遣わすとき、弟子たちは世の誤りを明らかに知らされるのです。「世の誤りを明かにする」とありますけれども、世の誤りを明らかに知らされるのは聖霊を知っている弟子たちだけであります。弁護者・パラクレートスが来られることによって、罪について、義について、裁きについて世の誤りがあばかれるのですが、世はこのお方を受け入れないのであばかれ、責められていることに気づかないのです。

 罪について、義について、裁きについての世の誤りを明らかにするのは聖霊が来られたときでありますが、イエス様はあらかじめ弟子たちに、罪について、義について、裁きについて教えられました。9節から11節までをお読みします。

 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。

 ここでイエス様は御自分と結びつけて罪について、義について、裁きについての世の誤りを語っておられます。

 世はイエス様を罪人であるとし、十字架の呪いの死へと引き渡しました。また世はイエス様を罪人であるとするゆえに、その弟子たちをも迫害するのです。けれども、聖霊が来られたとき、世が持つ罪の概念の誤りが明らかにされるのです。世はイエス様を信じることを罪としますけれども、罪とはイエス様を信じないことであるのです。また世は自らを義として、神の名によってイエス様を十字架の死に引き渡したのですが、イエス様は「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」であると言われます。イエス様は十字架の死から三日目に復活し、天の父のもとへ行くことによって、世ではなく、御自分こそが義であることを明らかにされるのです。イエス様をもはや見ない弟子たちに聖霊を遣わし、御自分の弟子として歩ませることによって、世ではなく、イエス・キリストこそ義であることを明かとされるのです。さらに裁きについてでありますが、世はイエス様を十字架につけることによって、世がイエス様を裁いたと考えました。けれども、イエス様はそうではない。わたしが十字架に上げられることによって、世の支配者が裁かれたのだと言われるのです。なぜなら、イエス様の十字架の死は世の支配者から御自分の民を解放する贖いの死であったからです。そして、裁きについてのこの世の誤りを明らかにすることも聖霊のお働きなのです。

 「ナザレのイエスが最高法院によって有罪と宣告され、ローマの総督ポンテオ・ピラトの手に引き渡され、十字架につけられて死んだ」。この事実から言えることは、イエスは罪人であり、正しいのは最高法院(世)であり、裁かれたのはイエスであります。そして、それが世の認識であったのです。けれども、弁護者が遣わされるとき、その認識は一変するわけです。そして、それが弁護者を遣わされた弟子たちの認識であったのです。そして、その弟子たちの認識、聖霊による確信こそ、イエス様が教えられた、「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」というものであったのです。弟子たちは聖霊によって世の誤りを明らかに示されたがゆえに、十字架につけられたイエス・キリストこそ、神の御子、救い主であると信じ、宣べ伝えることができるのです。使徒言行録の第2章に、ペンテコステのペトロの説教が記されています。ペトロは聖霊によって世の誤りを明らかに示されたがゆえに「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と大胆に語ることができたのです。

 このようにして、聖霊は弟子たち、また私たちを通して、世の誤りを明らかにしておられるのです。世がそれに耳を傾けなくとも、聖霊は私たちを通して世の誤りを告発しているのです。

 12節と13節をお読みします。

 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることを語るのである。

 ここでも弁護者・パラクレートスが「真理の霊」と言い換えられています。イエス様が「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と言われるとき、その真理とは他でもないイエス様ご自身のことです。といいますのもイエス様は第14章6節で、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われたからです。聖霊は、弟子たちをイエス様へと導き、イエス様についてことごとく悟らせてくださるお方なのです。

 また聖霊は「自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることを語る」お方でもあります。このことは聖霊がイエス様のお働きを継続されるお方であることを教えています。聖霊は自分から新しいことを語るのではなく、イエス様から聞いたことを語るのです。さらにはこれから起こるイエス・キリストの十字架と復活についてお語りになるのです。人はイエス・キリストの十字架と復活の意味を聖霊によって初めて知ることができるのです(一コリント2:6~16)。

 14節と15節をお読みします。

 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父がもっておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。

 この聖霊のお働きについて読むとき、イエス様のお働きと大変似ていることが分かります。第17章4節でイエス様はこう言われます。「わたしは、行うようにあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を表しました」。このようにイエス様は御自分の栄光ではなく、御自分を遣わされた御父の栄光を求めて歩まれたお方であったのです(7:18参照)。また、イエス様は第7章16節で「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである」と言われました(12:49、14:10も参照)。イエス様は御自分を遣わした御父の教えを世に対して、また弟子たちに対してお語りになったのです。そのようなイエス様によって御父のもとから遣わされる聖霊は、御自分を遣わしたイエス様に栄光を与え、イエス様のものを受けて弟子たちに告げるのです。コリントの信徒への手紙一第12章3節に「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」とありますが、聖霊はイエス様に栄光を与えるお方であるがゆえに、私たちに「イエスは主である」との信仰告白を与えてくださるのです。

 聖霊はイエス様のものを受けて弟子たちに告げるのですが、それは同時に父が持っておられるものであります。なぜなら、15節にありますように「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである」からです。ここに、御父と御子イエス・キリストと聖霊の一致があります。御父と御子イエス・キリストと弟子たちが告げることは一致しているのです。御父から遣わされた御子イエス・キリストは御父が命じられたことを語り、御子イエス・キリストから遣わされた聖霊は御子イエス・キリストから受けたものを語る。そして、御父がもっておられるものはすべて御子イエス・キリストのものであることが断言されるとき、私たちは御父と御子イエス・キリストと聖霊が語ることが同じであることが分かるのです。御父は知っているが御子は知らないということはありません。また御子は知っているが聖霊は知らないということもないのです。さらに御父が知っているが聖霊は知らないということもないのです。私たちはこのところから神様が父と子と聖霊という区別される三つの位格を持ちながら、等しい一つの神知識を持っておられることが分かるのです。コリントの信徒への手紙一第2章11節に「神の霊以外に神のことを知る者はいません」とありますように、聖霊も完全な神知識をもっておられるのです。ですから、私たちが霊の体によみがえるとき、私たちはありのままに神を知ることができるわけです(一コリント15:44、13:12参照)。そのことは、霊の体によみがえるまでは、私たちの神知識は不完全であることを教えています。私たちの地上の生涯において、常に「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたは理解できない」と言い得るのです。そして、ここに私たちが聖霊の導きのもとに聖書を学び続けねばならない理由があるのです。私たちは、聖霊の導きのもとに聖書を学び続けることによって、主イエス・キリストの愛に、また御父の愛にとどまることができるのです。

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