イエスはまことのぶどうの木 2010年10月17日(日曜 朝の礼拝)

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イエスはまことのぶどうの木

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 15章1節~8節

聖句のアイコン聖書の言葉

15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。ヨハネによる福音書 15章1節~8節

原稿のアイコンメッセージ

序.年間聖句

 今朝はヨハネによる福音書の第15章1節から8節より御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

 私たちの教会では年間テーマと年間聖句を掲げて歩んでおります。週報の表紙にありますように、今年の年間テーマは「キリストの内に留まり続ける」であり、年間聖句は「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」ヨハネによる福音書15章4節であります。今年も残すところ三か月足らずとなりましたけども、私たちは今朝ようやく今年の年間聖句を学ぼうとしているわけであります。そのようなことを念頭に置きつつ、今朝の説教を聴いていただきたいと思います。

1.まことのぶどうの木

 1節をお読みいたします。

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。

 イエス様はこれまで「わたしは何々である」、あるいは「わたしが何々である」と幾度も語ってこられました。イエス様はこれまで「わたしは命のパンである」(6:35)、「わたしは世の光である」(8:12)、「わたしは羊の門である」(10:7)、「わたしは良い羊飼いである」(10:11)、「わたしは復活であり、命である」(11:25)、「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)と言われました。このようにイエス様は「わたしは何々である」という言い回しによって、御自分がどのようなお方であるのかを世に示して来られたのです。そして、今朝の御言葉で、イエス様は「わたしはまことのぶどうの木である」と言われるのです。

 なぜ、イエス様は御自分を「ぶどうの木」と言われたのでしょうか?ルカによる福音書の第19章に徴税人ザアカイがいちじく桑の木に登ったことが記されておりますけども、イエス様はなぜ「わたしはいちじく桑の木である」とは言われずに、「わたしはぶどうの木である」と言われたのでしょうか?これにはやはり理由があるわけです。植物なら何でもよいというわけではなく、イエス様が「わたしはぶどうの木である」と言われたのにはある意図があったのです。「ぶどうの木」、これは当時の聖書である旧約聖書において神の契約の民イスラエルを象徴的に表すものでありました。そのいくつかを聖書から御一緒に確認したいと思います。詩編第80編9節にこう記されております。

 あなたはぶどうの木をエジプトから移し/多くの民を追い出してこれを植えられました。

 ここではイスラエルがぶどうの木に譬えられて、エジプトからの脱出したこととカナンの地へ定住したことが語られています。

 またエレミヤ書の第2章21節も見ておきたいと思います。

 わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる/確かな種として植えたのに/どうして、わたしに背いて/悪い野ぶどうに変わり果てたのか。

 ここでも神の契約の民であるイスラエルがぶどうの木に譬えられています。そして、先程の詩編80編もそうでしたが、このぶどうの木を植えられたのは主なる神であられるのです。それゆえ、イエス様は「わたしの父は農夫である」とおっしゃるのです。

 このように聖書において、ぶどうの木は神の契約の民であるイスラエルを象徴するものでありました。ですから、イエス様が「わたしはまことのぶどうの木である」と言われることによって、イエス様こそがまことのイスラエル、イエス様こそまことの神の契約の民であることをお示しになったのです。

 ここでイエス様はわざわざ「まことの」と言われました。これはですね、先程のエレミヤ書の御言葉にありましたように、イスラエルの民が神様に背いて悪い野ぶどうに変わり果ててしまっていたからです。神様によって約束の地、乳と蜜の流れる土地に植えられたぶどうの木であるイスラエルは、神様に背いて悪い野ぶどう、酸っぱいぶどうを実らせるものとなってしまっていたのです(イザヤ5:1~8参照)。そのようなイスラエルを念頭に置きつつ、イエス様は「わたしこそ、まことのイスラエルである」、「わたしこそ、まことの神の契約の民である」と言われたのです。それはどういうことかと言えば、人はまことのぶどうの木であるイエス・キリストにつながることによって、まことのイスラエル、まことの神の契約の民となることができるということを教えているのです。イエス・キリストというまことのぶどうの木につながっているがゆえに、私たちはまことの神の契約の民とされているのです。私たちもイエス・キリストにあって、まことのぶどうの木とされているのです。

2.あなたがたはその枝

 5節をお読みいたします。

 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

 ここでは弟子たちが「その枝である」と言われています。弟子たちつまり私たちは、ぶどうの木であるイエス様につながっている枝であるのです。4節の後半に、「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ実を結ぶことができない」と言われておりますように、イエス様と弟子である私たちは有機的な、生命的な交わりに生かされているのです。イエス様は御自分と弟子である私たちが、まさにぶどうの木とその枝のような有機的な、生命的な交わりにあることを今朝教えてくださっているのです。そして、このような教えはこれまでの教えを踏まえてのことであるのです。第14章で私たちは、去って行かれるイエス様がもう一人の弁護者・パラクレートスである聖霊において弟子たちのもとに戻ってきてくださること。イエス様が聖霊において弟子たちの内に住まいを設けてくださることを学びました。イエス様は聖霊において弟子である私たちの内にとどまってくださるのです。これが第14章で学んだことでありますけども、今朝の第15章ではさらに一歩進んで、そのイエス様と弟子である私たちの交わりが一体どのような交わりであるかが教えられているのです。そして、その交わりとはぶどうの木とその枝に譬えられる有機的な、生命的な交わりであるのです。私たちが豊かに実を結ぶ者となるためには、命の源であるイエス・キリストにつながっていなければならないということであります。その枝である私たちは、ぶどうの木であるイエス様から離れては何もすることができないのです。

3.豊かに実を結ぶ

 では、イエス・キリストにつながっている私たちが結ぶ豊かな実とはどのようなものなのでしょうか?このことを皆さん一人ひとりに先ず考えていただきたいのです。わたしはイエス・キリストを神の御子、救い主と信じ、このように神様を父と崇めて歩んでいるけれども、わたしの人生にイエス様はどのような豊かな実りを与えてくださっているだろうか?そのように自分自身に問うてみていただきたいのです。あまりピンとこない方は、もし自分がイエス・キリストを信じていなかったならば、どのような人生を歩んでいるであろうかを考えてみたらよいと思います。わたし個人のことを申しますならば、ちょっと考えられませんね。大げさに聞こえるかも知れませんが、果たして生きているかなぁとさえ思います。

 弟子たちが結ぶ豊かな実が何であるのかは具体的にはここに記されておりませんけども、ガラテヤの信徒への手紙第5章22節にそれを知る手掛かりが記されています。

 霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。

 ここに霊の結ぶ実があげられておりますけども、はじめの3つ、愛、喜び、平和がその代表的なものであります。イエス様につながっている人は、愛、喜び、平和という実を結ぶことができるのです。なぜなら、イエス様こそ、愛そのもの、喜びそのもの、平和そのものと言えるお方であるからです。

4.つながっている

 イエス様は「わたしにつながっていなさい」と弟子たちに命じられていますが、イエス様につながるとはどのようなことを言うのでしょうか?それは第14章で学びましたように、また先程も確認しましたように、イエス・キリストの名によって遣わされる聖霊においてつながっているということであります。そして、その目に見えない霊的な現実が「イエスは主である」という信仰告白によってあらわとされるのです。コリントの信徒への手紙一第12章3節に「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」とありますように、イエス様を神の御子、救い主と告白する人は、聖霊によってイエス様とつながっているのです。

 イエス様は弟子たちに「つながっていなさい」と命じておりますけども、これは「留まっていなさい」ということでもあります。9節の後半に「わたしの愛にとどまりなさい」とありますけども、ここで「とどまる」と訳されている言葉は「つながる」と訳されているのと同じ言葉であります。「つながっていなさい」、あるいは「とどまっていなさい」という命令はそのことに私たちの意志が求められることを教えています。そこが文字通りのぶどうの木とその枝とは違うところでありますね。私たちはイエス様につながり続ける、イエス様の内にとどまり続けるとの思いを日々新たにして、イエス様につながり続ける、イエス様の内にとどまり続けることが求められているのです。わたしは洗礼を受けたから、あるいはわたしは信仰告白をしたから自動的にイエス様につながっているというのではなくて、イエス様を神の御子、救い主と信じて、日々、神様を礼拝して生きることによって、私たちはイエス様の内にとどまり続けることができるのです。

5.わたしの言葉が

 7節をお読みいたします。

 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

 ここでイエス様は「望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる」と言われていますが、それにはある条件が付けられています。その条件とは、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」という条件です。イエス様は3節で、「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と弟子たちに言われておりました。イエス様の御言葉は私たちを清める力をもっているのです。なぜなら、イエス様の御言葉は霊であり、命であるからです(ヨハネ6:63「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」)。イエス様の御言葉と共に聖霊がお働きになり、信仰をもって受け入れる人の心を清めてくださるのです(使徒15:9「彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別もなさいませんでした」参照)。そのようなイエス様の御言葉がいつもあなたがたの内にあるならば、望むものは何でも願いなさいと言われているのです。

 私たちがイエス様の内にとどまることと、イエス様の御言葉が私たちの内にとどまることは一体的なことでありますね。私たちがイエス様の内にとどまっていると言いながら、イエス様の御言葉が私たちの内にとどまっていないということはあり得ないわけです。なぜなら、別の弁護者である聖霊は、イエス様の話したことをことごとく思い起こさせてくださるお方であるからです。イエス様は言葉と霊によって、私たちの内にいてくださるのです。「霊」はヘブライ語(ルーアハ)でもギリシャ語(プネウマ)でも「息」とも訳されますが、イエス様が言葉と霊において私たちの内にいてくださるというとき、その霊を息と言い換えたら分かりやすいと思います。試してみればすぐ分かりますように、私たちは息をしないで言葉を語ることはできません。言葉を語るとき、私たちは必ず息をしているのですね。そのようにイエス様の言葉と息とも訳される霊は一体的な関係にあるのです。また言葉と霊が一体的であると言うとき、そこで言われているもう一つのことは、語られる言葉と語った人の人格は切り離すことができない一体的な関係にあるということでありますね。私たちが言葉を思い起こすことによって、その言葉を語った人のことを思い起こすように、イエス様の御言葉を思い起こすことによって、私たちはイエス様のことを思い起こすわけです。そして、このお方は今も生きておられる神の御子でありますから、その御言葉と霊によって私たちに生きた交わりを、すなわち命を与えることができるわけです。

6.何でも願いなさい

 イエス様は「望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる」と言われましたけども、このことは他でもないイエス様ご自身に言えることであります。第9章で、イエス様から見えるようにしていただいた生まれつき盲人であった人は次のように言っておりました。「神は罪人の言うことをお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人のいうことは、お聞きになります」。

 また、イエス様は第11章でラザロを生き返らせるに先立ち、天を仰いで次のように言われました。「父よ、わたしの願いをいつも聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています」。

 このように御父はイエス様の願いを聞いてくださいました。そして御父は、私たちがイエス様につながり、イエス様の御言葉が私たちのうちにいつもあるならば、私たちの望みを何でもかなえてくださるのです。それは私たちの望みがイエス様の望みと一致するものとなるからなのです。それゆえに御父は私たちが望んでいることを何でも願うならば、かなえてくださるのです。望んでいるだけではなくて、それを主イエスの御心であると信じて願い求めることが大切であります。そのようにして、私たちは父なる神様との交わりを深め、いよいよイエス・キリストの内にとどまり続けることができるのです。

7.父は栄光をお受けになる

 8節をお読みいたします。

 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

 このイエス様の御言葉は、御父が農夫であり、イエス様がまことのぶどうの木であり、弟子たちがその枝であるという関係を思い起こすならばよく分かると思います。農夫である御父にとって、ぶどうの木であるイエス様にたくさんの弟子たちが連なり、豊かな実を結ぶことは喜びであり、誉れとなるのです。

 第13章31節で、ユダが出て行くとイエス様はこうおっしゃいました。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになる」。ここでは、人の子と言われるイエス様によって御父は栄光をお受けになると語られておりました。しかし、今朝の御言葉では、私たちが豊かに実を結び、イエス様の弟子となるならば、それによって「わたしの父は栄光をお受けになる」とイエス様は言われるのです。私たちもイエス・キリストの内にとどまり続けるならば、神様に栄光を帰する者たちとなることができるのです。

 私たちが礼拝ごとに告白し、学んでおりますウェストミンスター小教理問答の第1問は、「人のおもな目的は、何ですか」と問い、次のように告白しています。「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」。今朝の御言葉では、まさに私たちがどのように神の栄光をあらわすことができるのかが教えられているのです。私たちは豊かに実を結び、イエス様の弟子となることによって、神様の栄光をあらわすことができるのであります。

 今年もあと残すところ三か月足らずとなりましたけれども、私たちは人のおもな目的である神の栄光をあらわすために、これからもイエス・キリストの内にとどまり続けたいと願うのであります。

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