信仰によって命を確保する者 2018年6月24日(日曜 朝の礼拝)

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信仰によって命を確保する者

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 10章19節~39節

聖句のアイコン聖書の言葉

10:19 それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。
10:20 イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。
10:21 更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、
10:22 心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。
10:23 約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。
10:24 互いに愛と善行に励むように心がけ、
10:25 ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。
10:26 もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。
10:27 ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。
10:28 モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。
10:29 まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。
10:30 「復讐はわたしのすること、/わたしが報復する」と言い、また、/「主はその民を裁かれる」と言われた方を、わたしたちは知っています。
10:31 生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。
10:32 あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。
10:33 あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。
10:34 実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。
10:35 だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。
10:36 神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。
10:37 「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。
10:38 わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、/その者はわたしの心に適わない。」
10:39 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。

ヘブライ人への手紙 10章19節~39節

原稿のアイコンメッセージ

 ヘブライ人への手紙は、大祭司イエス・キリストについて教えてきましたが、今朝の御言葉は、その教えを受けての「奨励と勧告」であります。大祭司イエス・キリストを持つ私たちが、どのように歩むべきであるのかが、今朝の御言葉に記されているのです。

1 ますます励まし合おう

 19節から25節までをお読みします。

 それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。

 ヘブライ人への手紙が、「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています」と記すとき、「イエスの血」とは、イエス・キリストが十字架のうえで御自身をいけにえとして献げてくださったことを指しています。また、「聖所」とは、神様がおられる天の聖所のことです。私たちが神様がおられる天国に入ることができると確信することができるのは、私たちの罪のためにイエス・キリストが十字架で死んでくださり、復活してくださったからであるのです。そのことを、ヘブライ人への手紙は、「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」という言葉で言い表しています。ここでの「垂れ幕」は聖所と至聖所を隔てる垂れ幕のことですが、その「垂れ幕」が「御自分の肉」と言われています。これは象徴的な表現で、イエス様が御自分の体を献げることによって、垂れ幕を裂いて、神様に近づくことができるようにしてくださったことを教えています。マタイによる福音書を読みますと、イエス様が十字架の上で息を引き取られたとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたことが記されています(マタイ27:51参照)。イエス様の十字架の死によって、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。それはイエス様によって、神様に近づく道が開かれたことを示しているのです。イエス様は、御自分の体をささげることによって、さらには復活し、天にあげられることによって、新しい生きた道を私たちのために開いてくださったのです。

 ヘブライ人への手紙は、私たちの心を「神の家を支配する偉大な祭司」へと向けさせます。イエス・キリストは父なる神の右に座し、永遠の大祭司として、私たちのために執り成しておられるのです。それゆえ、私たちの心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われているのです。ここに記されていることは、イエス・キリストの名によって洗礼を受けた私たちに神様がしてくださったことであります。大祭司であるイエス様は、御自分の血によって、新しい契約を結ばれ、私たちに聖霊を与えて、私たちの心を罪から清めてくださいました。イエス・キリストは、大祭司として、私たちの罪を贖うために御自分をいけにえとして献げてくださいました。そして、復活し、天に上げられてからは、父なる神の右で、私たちのために執り成してくださっているのです。それゆえ、私たちから良心のとがめはなくなったのです。ここでの「良心のとがめ」とは、「自分は神様の御前に立つことはできない罪人である」「罪人である自分が神様の御前に立つならば、滅ぼされてしまう」という罪の意識です。私たちは、神の家を支配する偉大な祭司の贖いと執り成しによって、心は清められ、良心のとがめはなくなりました。そのことの目に見えるしるしとして、私たちはイエス・キリストの名による水の洗い、洗礼を受けたのです。それゆえ、ヘブライ人への手紙は、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」と記すのです。ここで「信頼しきって」と訳されている言葉は、「あふれるほどの信仰をもって」とも訳すことができます。「信仰」という言葉がここで用いられているのです。そうしますと、今朝の御言葉に、信仰、希望、愛という3つの言葉が用いられていることが分かります。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙13章で、キリスト者の徳として、信仰、希望、愛の3つをあげています。その信仰、希望、愛が、ヘブライ人への手紙においても記されているのです。「あふれるほどの信仰をもって真心から神に近づこう」、「公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保とう」、「互いに愛と善行に励むよう心がけよう」。このように、ヘブライ人への手紙も、私たちに信仰と希望と愛をもって歩むことを奨めているのです。

 25節を見ますと、ある人たちが集会を怠っていたことが分かります。礼拝に出席しないことを習慣としている人たちがいたのです。これは、礼拝に出席したくても出席できない人ではなくて、意図的に出席しない人たちのことです。ヘブライ人への手紙は、「そのような習慣に倣ってはいけない。むしろ、励まし合いましょう」と記します。励まし合うとは、具体的には、礼拝に出席するということです。礼拝に出席することを習慣とするということです。私たちは、礼拝に出席することによって、互いに励まし合うことができるのです。また、礼拝に出席することによって、信仰をもって神に近づき、言い表した希望を保ち、愛と善行に励むことができるのです。かの日が近づいている。イエス・キリストが救いを完成するために、再び来てくださる日が近づいているのであるから、ますます励まし合おう。主の日ごとの礼拝を大切にしながら、歩んでいこうと、ヘブライ人への手紙は私たちにも勧めているのです。

2 故意に罪を犯し続けるとすれば

 26節から31節までをお読みします。

 もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基いて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足蹴にし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と言い、また、「主はその民を裁かれる」と言われた方を、わたしたちは知っています。生ける神の手に落ちることは、恐ろしいことです。

 ここには、イエス・キリストを信じて真理の知識を受けた後に、イエス・キリストへの信仰を捨ててしまう者への警告の言葉が記されています。ここでの「故意の罪」とは、イエス・キリストを否定する罪のことです。イエス・キリストは、ただ一度、御自分の体をささげることによって、永遠の贖いを成し遂げてくださいました。律法に記されている礼拝の規定、動物犠牲は、イエス・キリストの贖いを指し示すものであったのです。ですから、イエス・キリストへの信仰を捨ててしまうならば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。残っているのは、神様の審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけであるのです。イエス・キリストを信じる者たちにとって、世の終わりの日は、救いの日であります。なぜなら、世の終わり日に、イエス・キリストは、私たちの救いを完成するために、再び来てくださるからです。しかし、真理の知識を受け入れ、洗礼を受けて、キリスト者となった後に、キリストを故意に拒む人にとって、主の日は激しい火によって焼き尽くされる滅びの日となるのです。このことが確かであることを、ヘブライ人への手紙は、モーセの律法を引き合いに出して記しています。モーセの律法を破る者は、二人または三人の証言によって情け容赦なく死刑に処せられました。そうであれば、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか、と記すのです。真理の知識を受けた後に、イエス・キリストへの信仰を捨てた者たちは、「神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、恵みの霊を侮辱する者」であるのです。そのような者が受ける重い刑罰とは何でしょうか?それは肉体の死だけにとどまらない、永遠の死であるのです。イエス様は、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われました(マタイ10:28)。神様は、魂も体も地獄で滅ぼすことのできるお方であります。その神様の手に落ちることがないように、ヘブライ人への手紙は、私たちにも警告しているのです。

3 信仰によって命を確保する者

 32節から39節までお読みします。

 あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない。」しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。

 ここには、この手紙の宛先である教会の初めの頃のことが記されています。この手紙の宛先である教会には、集会を怠る人たちがおり、イエス・キリストへの信仰を捨ててしまうおそれのある人たちがいました。彼らは、イエス・キリストを信じて歩むことに疲れを覚えていたようです。しかし、そのような彼らも、イエス・キリストを信じて洗礼を受けた頃は、大きな苦難を耐え忍ぶ、熱心な信仰者であったのです。説教者(ヘブライ人への手紙の著者)は、その最初の信仰を思い起こさせ、その信仰に生きるよう励ますのです。ここにある苦しみは、どれも厳しいものです。この手紙の読者(この手紙の宛先である教会)は、財産を奪われても、喜んで耐え忍びました。それは、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っていたからです。「もっとすばらしい、いつまでも残るもの」とは、イエス・キリストと共に受け継ぐ天の御国のことであります。彼らは、イエス・キリストを信じる自分たちが天の御国を受け継ぐことを確信して、財産が奪われても喜んで耐え忍んだのです。しかし、その彼らも疲れてしまったのです。疲れて、礼拝から足が遠のき、信仰を捨ててしまう者たちまでいたのです。そのような教会に対して、説教者は、「自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」と記すのです。信じるだけではなくて、信じ続けなければならないのです。その信仰の忍耐を励ますために、説教者は、旧約聖書を引用します。ここで説教者が引用しているのは、おもにハバクク書2章にある御言葉であります。「わたしの正しい者は信仰によって生きる」。これは、使徒パウロが、ローマ書やガラテヤ書で引用している御言葉であります。パウロは、「人は行いではなく信仰によって救われる」と教えました。その証拠聖句として、ハバクク書2章の御言葉を引用しているのです。その御言葉を、ヘブライ人への手紙の著者も引用しているのです。それによって、説教者は、主イエスがすぐに来られること、そのことを信じて生きる者こそ、神様の御前に正しい者であり、神の御心に適う者であること記すのです。

 説教者は、最後に、「わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です」と記します。この「命」は、イエス・キリストによって与えられた永遠の命のことであります。ヘブライ人への手紙の言葉で言えば、永遠の大祭司イエス・キリストの贖いと執り成しによって実現している神様との交わり(礼拝)のことです。イエス様は、弟子たちにこう言われています。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マルコ8:35、36)。また、イエス様は次のようにも言われています。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(マルコ10:29、30)。イエス様は、自分の十字架を背負って、わたしに従えと言われ、御自分のために迫害を受ける者は、後の世で永遠の命を受けると言われました。そのイエス様の招きに、私たちは喜んで従い、洗礼を受け、歩み出したのです。しかし、その私たちも信仰に疲れてしまうことがあるのです。礼拝から足が遠のき、信仰を捨ててしまおうかとさえ考えることがあるのです。しかし、ヘブライ人への手紙は、「わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です」と語るのです。これは、説教者の言葉、もっと言えば、牧会者(牧師)の言葉です。ヘブライ人への手紙の著者は、牧師として、この手紙の宛先である教会を、その群れに属する一人一人を、信仰によって命を保つ者として見ているのです。そして、ヘブライ人への手紙の著者がそのように断言できるのは、私たちが永遠の大祭司であるイエス・キリストを持っているからなのです。ヘブライ人への手紙において、信仰とは、私たちの永遠の大祭司イエス・キリストを信じる信仰であるのです。

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