永遠に完全な者 2018年6月10日(日曜 朝の礼拝)

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永遠に完全な者

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 10章1節~18節

聖句のアイコン聖書の言葉

10:1 いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。
10:2 もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。
10:3 ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。
10:4 雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。
10:5 それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、/むしろ、わたしのために/体を備えてくださいました。
10:6 あなたは、焼き尽くす献げ物や/罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。
10:7 そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、/神よ、御心を行うために。』」
10:8 ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、
10:9 次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。
10:10 この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。
10:11 すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。
10:12 しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、
10:13 その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。
10:14 なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。
10:15 聖霊もまた、わたしたちに次のように証ししておられます。
10:16 「『それらの日の後、わたしが/彼らと結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『わたしの律法を彼らの心に置き、/彼らの思いにそれを書きつけよう。
10:17 もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」
10:18 罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。ヘブライ人への手紙 10章1節~18節

原稿のアイコンメッセージ

序 

 ヘブライ人への手紙の主題(テーマ)は、永遠の大祭司イエス・キリストであります。イエス様は、十字架で御自身をいけにえとしてささげることにより、永遠の贖いを成し遂げられました。また、イエス様は復活して、天に上げられてからは、父なる神の右で、とりなしておられるのです。このように、神様は、誓いの言葉によって、イエス様をメルキゼデクと同じような永遠の大祭司となされたのです。それでは、祭司職に基づいて定められた律法との関係はどうなるのでしょうか?祭司職に基づいて定められた、いわゆる儀式律法によれば、レビの子らが祭司に任命され、幕屋でいけにえをささげるよう命じられています。この手紙が60年代後半に記されたとすれば、エルサレム神殿において、レビの子らの祭司たちが律法に従っていけにえを献げていたのです。イエス様が永遠の大祭司となられたことと、レビの子らが祭司として仕えていることを、どのように理解すればよいのか?そのことについて、ヘブライ人への手紙は、大祭司イエス・キリストによって、新しい契約が締結されたことにより、最初の契約は間もなく消え失せると記しました。この最初の契約とは、神様がイスラエルの民とシナイ山で結んだ、いわゆるシナイ契約のことです。シナイ契約には、地上の聖所と礼拝の規定がありましたが、これらはいずれも永遠の大祭司イエス・キリストを指し示すものであったのです。旧約の聖徒たちは、動物の血を流すことによって罪の赦しを得ておりましたが、それは、動物の血がイエス・キリストの永遠の贖いを指し示すものであったからです。イエス・キリストは、父なる神の御心に従って、御自分を十字架の上でいけにえとして献げてくださいました。イエス様は、ただ一度、御自身をささげることによって、永遠の贖いを成し遂げてくださったのです。

 ここまでは、これまでの振り返りであります。今朝は、10章1節から18節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 

1 やがて来る良いことの影

 10章1節から4節までをお読みします。

 いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。

 ヘブライ人への手紙が「律法」と記すとき、その律法とは、祭司職に基づいて与えられた、いわゆる儀式律法のことであります。7章11節に、「ところで、もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、-というのは、民はその祭司制度に基づいて律法を与えられているのですから-いったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう」とありますように、ヘブライ人への手紙において、「律法」とは、祭司職に基づいて与えられた律法、いわゆる儀式律法のことであるのです。ヘブライ人への手紙は、「儀式律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません」と記します。「やがて来る良いこと」とは、「永遠の大祭司イエス・キリスト」のことであります。永遠の大祭司イエス・キリストが、いわば実体でありまして、儀式律法はその影であると言うのです。これは、イエス様が教えられた聖書の読み方でありますね。イエス様は、「聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ5:39)と言われました。そのことは、祭司職に基づいて与えられた儀式律法においても言えることであるのです。やがて来る良いことの影として行われていたこと、それは年ごとに絶えず献げられる動物犠牲であります。「年ごとに」とありますから、ここでは、レビ記16章に記されている、年に一度、贖罪日に、大祭司が至聖所に入り、雄牛と雄山羊の血をささげたことが言われているようです。律法は年ごとに雄牛や雄山羊の血をささげることを命じています。しかし、ヘブライ人への手紙は、雄牛や雄山羊の血は、神に近づく人たち(礼拝者たち)を完全にすることはできないと言うのです。ここでの「完全な者」とは、神様に近づくという点で完全な者のことです。儀式律法の目標である神様に近づくという点において完全な者ということです。なぜ、ヘブライ人への手紙は、律法に従って行われている動物犠牲が、神に近づく人たちを完全な者にすることはできないと断言するのでしょうか?ヘブライ人への手紙は、その理由を、いけにえが年ごとに絶えず献げられていることから説明します。「もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか」。しかし、律法は、毎年絶えず同じいけにえを献げるよう命じています。このことは、動物の血は礼拝する者たちを清めることができない、罪の赦しをもたらすことができないことを教えているのです。そればかりか、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。毎年献げられる雄牛や雄山羊の血は、自分たちが神様の御前に立つことのできない罪人であることを毎年思い起こさせるのです。

 2節に「もはや罪の自覚がなくなるはずです」とありますが、この所を読んで、「私たちはイエス・キリストの贖いによって清められた(罪を赦された)けれども、毎週罪の告白をしているではないか。毎週罪を告白しているということは、罪を自覚しているということではないか」と思われるかも知れません。しかし、ここでいう「罪の自覚」とは、神の御前に血を流すことなくして立つことはできないという「罪の自覚」のことであります。イエス・キリストに罪を赦された者が、礼拝の中で告白する罪の自覚のことではありません。イザヤ書の6章に、イザヤが神様を見たことが記されています。そのときイザヤはこう言ったのです。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザヤ6:5)。神様の御前に出るならば、罪人である私は滅ぼされてしまう。それゆえ、身代わりである動物の血を流さずにはおれない。そのような罪の自覚です。私たちは、イエス・キリストの名によって集まり、礼拝をささげております。血を流すことなく、神様を礼拝しているのです。そのことは、私たちがイエス・キリストによって清められ(罪を赦され)、神様の御前に立つことは滅びを意味するという罪の自覚がなくなっていることを示しているのです。

2 御心に基づいて

 5節から10節までをお読みします。

 それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。

「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、むしろ、わたしのために、体を備えてくださいました。あなたは、焼き尽くす献げ物や、罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、神よ、御心を行うために。』」ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるのに、最初のものは廃止されるのです。この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。

 律法が命じている動物犠牲は、礼拝する者たちを完全な者とすることができません。それゆえ、神の御子が私たちと同じ人となり、世に来てくださいました。そして、このことは、聖書に記されていたことであるのです。ここでヘブライ人への手紙は、詩編40編をヘブライ語聖書のギリシャ語訳である七十人訳聖書から引用しています。5節の後半に、「わたしのために体を備えてくださいました」とありますが、これは七十人訳聖書から引用しているからです。詩編40編7節を見ますと、「ただ、わたしの耳を開いてくださいました」と記されています。ヘブライ語聖書の「わたしの耳を開いてくださいました」という言葉が、そのギリシャ語訳では、「体を備えてくださいました」と記されているのです。ここに、ヘブライ人への手紙の著者は、目をつけるわけですね。ヘブライ人への手紙は、詩編40編を人となられる前の神の御子の言葉として解釈し、引用するのです。そして、神の御子が体をとって、御自身を献げられたことが、神の御心であったと記すのです。「第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです」とありますように、イエス・キリストがただ一度御自身の体をささげられたことにより、律法に従って献げられる動物犠牲は廃止されたのです。それは、イエス・キリストが神様の御心に従って、ただ一度御自身を献げられることによって、儀式律法の目的を果たされたからです。儀式律法の代表とも言えるレビ記に、「聖なる者となりなさい」と何度も記されています。「聖なる者となる」とは、「神の者となる」ということです。そのために必要なのは、完全で、永遠に有効な罪の赦しであります。その罪の赦しをもたらすために、神の御子が人となり、その体をささげてくださったのです。

3 永遠に完全な者

 11節から18節までをお読みします。

 すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。聖霊もまた、わたしたちに次のように証ししておられます。「『それらの日の後、わたしが彼らと結ぶ契約はこれである』と、主は言われる。「わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにそれを書きつけよう。もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。

 この手紙が60年代後半に記されたとすれば、エルサレム神殿では、祭司たちが毎日礼拝をささげるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを繰り返して献げていました。しかし、祭司たちが指し示すお方、永遠の大祭司であるキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで待ち続けておられるのです。キリストは、詩編110編に預言されていた通り、「とこしえの祭司、正しい王」として父なる神の右に座しておられるのです。祭司たちが立って繰り返しいけにえを献げているのに対して、キリストはただ一度御自身をいけにえとして献げられ、父なる神の右に座っておられます。そのことは、イエス・キリストの贖いの御業がただ一度で成し遂げられたこと、永遠に有効であることを教えております。キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者とされたのです。ここでの「完全な者」とは、儀式律法の観点から完全な者という意味であります。道徳律法の観点から完全な者と言っているのではありません。何一つ罪を犯さない者という意味で、完全な者と言われているのではありません。儀式律法の目的である、罪の赦しと神様との親しい交わりという点において、私たちは、完全な者とされたのです。

 そして、このことは、聖霊が証ししていることでもあるのです。ヘブライ人への手紙は、ここで再びエレミヤ書31章の新しい契約の預言を引用しています。そこには、「もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない」と記されています。新しい契約において、神様は一方的に、罪の赦しを与えてくださるのです。それは、新しい契約が、御自分の体をささげられたイエス・キリストによって結ばれるからです。「罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません」。ですから、私たちは罪を犯しても動物をいけにえとしてささげることはしません。イエス・キリストの御名によって、罪を告白するだけです。そして、神様は、イエス・キリストの御名によって罪を告白する私たちを必ず赦して、受け入れてくださるのです。そのようにして私たちは、神様との親しい交わりに永遠に生きる者とされているのです。

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